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夜が明けきらないうちに起きた。寝坊なんか出来るはずもないので、眠りも浅かったしストレスも溜まっている。
「お姉さん、もう行くの?」
「ああ、あんたのせいでね」
「そっか。それはごめんなさい、お姉さん」
なんっかムカつくのよね。なんでだろうと考えると、そのたどたどしいしゃべり方と、私を「お姉さん」と呼ぶのが理由であると分かった。
「私の事はアンと呼んで」
「アン?」
「私の名前。アン・ラシュナブルっていうのよ。あなたは?」
「僕、名前なんて無いよ」
「は?」
理解が出来なかった。名前が無いなんて、本当にどこの子なんだ?
「だから、アンが付けて」
「そんな簡単なもんじゃないでしょうが! このバカたれ!」
名前を付けるという事は、少なからず私がこの子に繋がりを作ってしまう訳で。それって、とても不味いよね。だって、私はこの子と連れ立って行く気はない。
町から出たら、どっかにほっぽって逃げようと思っていた。
「でも、僕はアンがつけた名前なら、なんでも良いんだ。ねえ、駄目かな? アン」
しかし、まあ。このガキはとても卑怯だ。
そんな言われ方をしてしまえば、どうにも逆らえない。
他人に甘くするのは、良い事だとは思えないけど。でも、こんな小さな子どもだ。右も左も分からない上に自身の名前も持たないなんて。可哀想じゃないか。
「分かった。じゃあ、ラクア」
「ラクア?」
「そう」
ちゃんと理由はあるが、言う必要はないと思った。これだけ便がたつ子どもだ。知っているかもしれないし、知らなくても自分で見つけるだろう。
「ありがとう、アン。僕はラクア・ラシュナブルだね!」
「ちょっと! 名字まで上げた覚えは無いんだけど」
「じゃあ、ちょうだい。欲しい」
やっぱり、このガキは卑怯だ。
一応、簡単に部屋の掃除はした。ここの家主はあんなどうしようもない奴ではあるが、師の教えで「泊まった部屋は出来る限り綺麗にして戻す」という項目があるので、それを破れなかった。
なんでも、師が泊まった部屋を半壊させて逃げたら、「払わなければ裁判沙汰を起こす」という内容の手紙が一緒に多額の請求書が送りつけられてきたことに始まる教えらしい。正直、師だけでしょう、そんな事をするのは。そう思ったが、師の元で共に学んだ仲間は男ばかりで、酒を飲みまくり、同じような状態に追い込まれた事があったので、私も気をつけなければと思っているところだ。
多くはない荷物を抱え、窓を開ける。
「行くよ」
短く告げると、嬉しそうに笑われた。それにしても、この子。みすぼらしい恰好をしているよな。服を買ってあげなければいけない。
いや、私は置いていくのだ。この子どもを。
あの森の中に行ったら、この小さな手を離すのだ。だから、そんな事を考えてはいけない。
迷わず、前に進むんだ。
「ちゃんとついて来なさい」
「はい」
私は窓から飛び降りるつもりだった。二階からだったら、特に問題なく降りれるが、今回はこの少年を連れ立っている。
やっぱり、無理かな。そう思って、荷物を全て左手で持った。
「右手が空いたから、こっちに来なさい」
「はい」
ラクアは楽しそうに私を見ている。この無邪気な瞳を見ていると引っ叩きたくなるんだけど。いや、引っ叩くなんて出来ない。
くそっ、なんでこんな気持ちにならなければいけないんだ!?
出会った時のあの恐怖を自分の中に感じて、とても嫌な気持ちになる。
「今度こそ、行くよ」
私に迷っている暇は無いはずだ。行くしかない。
左手に荷物、右手にはラクアを持ち、私は二階から飛び降りた。
まだ冷たい風が全身に当たり、とても涼しい。足のバネを使って衝撃を吸収してきちんと着地をし、ラクアを放り投げた。ラクアもきちんと着地をして、満面の笑みを浮かべている。なんか悔しい。
「アン。どこへ行くの?」
目的地は決まっている。でも、伝える気はなかった。
「とりあえず、後ろから追ってきている奴らから逃げるよ」
「はい」
良い返事を返してくれるのは良いんだが、やっぱり……意味がないんだよな。
町の外へ向かって二人で走り始めた。