旅行初日(三)
十
階段を降りた先は国道だった。車の往来は少ない。通る車もトラックだけが風を切る。国道を挟んで向かいが漁村に当たる。
時計は持っていない、持っては居ないが陽の高さからして少し昼を過ぎていると思われた。陽は高いが海に近いせいか、心地よい風が吹いて暑さは気にならない。
国道を渡り漁村を歩く。車も通れないような狭い路地を歩く。路地に続く路地で真っ直ぐ続く一本道というものがほとんどない。迷路のようにも思われる。出口はわからないので、行き当たりばったりでとにかく進む。
漁村というものは昔から存在するコミュニティーであるから、家並みは総じて古い。継ぎ接ぎの様に木材や金属片を無理やりくっ付けた家もある。そうしたものは大抵海風によって、錆びて金属部分だけが錆びて廃墟の趣きを醸し出す。
民家の門前では魚の干し物が並べられ、ホースの水を出しっぱなしで桶に水を溜めている。桶から水が溢れ出し、辺り一面は水浸しであった。
そんな絵が何軒も連ねている。人はここでも何故か見かけなかった。もしかすると早朝に人々は漁に出て、今のような陽が高い時間は暑さで体力が奪われやすいものだから、家で昼寝でもしているのかもしれない。
このような漁村では猫の一匹でも往来を歩いて、魚を掠め取る絵でもありそうなものだが、猫は見かけなかった。
こうしてぶらぶら歩いていると港にまで行き着いた。港にもやはり人は居なかった。水面が陽で反射してキラキラと光る。小型の舟がいくつも見られる。それだけだった。人も猫も、生物と言われるものは一つも見かけなかった。
私は何かあると思ってここまで来た。最初は海鳥がいると信じてここまで来た。そして、やはり、というべきだろうか、心のどこかで人が居るものと信じてここまで来た。しかし、誰一人居ない。
じわじわと孤独が押し寄せてくる。孤独に引き摺られてどこまでも落ちていく感覚がある。
今まで孤独な方面へ進んできた。そして今も孤独な方面へ進んでいる。そうすれば今の状況――自分しかいない漁村――は必然に起こるはずで、今の状況を受け入れられる覚悟があるはずだった、にも拘らず孤独に感じた。
私はどこまで進んでもその辺りにいる人と大して違いがないことを悟った。それは私自身に対する失望の始まりでもある。
自分の知恵は平凡であることは自認するところで、自己の特筆すべきところも思い浮かばない。しかし、我が道だけを歩き続けた自分だ。何かしら自分にしかないものがあると信じてきたものだが、ここにきて改めて自分の空虚さを知った。
自分の中には核のようなものがあって、それによって自分は生かされているという感覚があった。だが、今、己を振り返れば自分の核というものは、隣人の持つ核と何ら変わりがない、いくらでも代わりが利く消耗品と言っても過言ではなかった。
私は「生かされている」という意識がなければ到底生きてはいけないような人間だ。自分の足で立っているように見えても、実際は寄りかかって生きている。誰かによってではなく、自分を客観的に鑑みて、自分が自分を肯定し、それを原動力として生きているに過ぎない人間だ。そう考えると、私が今感じている失望、それは大きかった。
海、穏やかに水面が波を立て、永遠にその波が途切れることはない。
十一
腹が減ったことも、喉の渇きも忘れて、港の岸壁に腰をかけて水面を見つめた。一歩も動くことなくただただ見つめる。水面を見つめることに意味があるのではなかった。失望の大きさが私をそうさせた。思考をするということでもなく、風景を楽しむということでもなかった。岸壁に小さな波がぶつかり、水しぶきを立てて、寄せては返す、その光景を見るだけであった。
どれだけの時間が経ったことだろうか。いきなり背後から「お兄さん」という声が聞こえた。私が後ろを振り向くと初老の男性が立っていた。漁業を生業としている人であろう初老の男性は、陽に焼けて過ぎて肌が黒く、被っている帽子もまた陽に焼けて色褪せていた。頭を掻きながら、申し訳なさそうに老人は私に言った。
「ちょっと船を出そうと思ってるんでね、そこに居られると危ないからちょっと立ってもらえないかい?」
口角を上げて、微笑をつくり、目を細め、謝意を表し、顔に深く刻まれた皺は、彼の漁師としての時間の長さ、そしてその蓄積された疲労を感じ取れる。
すみません、と軽く謝りながら私は腰を上げた。
「お兄さん、ここら辺じゃ見ないね、旅行者か何かかい?」
「えぇ、私はもう少し東に住んでまして……」
「やっぱりそうだろう。ここも狭い町だからね、住んでいる人の顔は大体わかるよ。しかし、お兄さん、こんな見るところもない町によく来たなぁ。何か面白いものでもあったかい?」
私は言葉に詰まった。言葉が出てこず、相槌を打ってぼんやりしていると、老人は懐から煙草を取り出して吸い始めた。船を出すとは言ってきたが、船を出そうとする様子もない。話好きなのかもしれない。
「まぁ、ないよなぁ。わしも十六からずっと漁師やってここで暮らしとるが、別に面白いもの何てないなぁ。うん、ないなぁ」
吐いた言葉をまた飲み込むように呟く。それを聞きながらつい言葉が突いて出た。
「何でないのです?」
老人はジッと私の顔を見た。
「お兄さん、面白いこと言うな。ないものはないんだ。あるからある、ないからない」
老人は節をつけて禅問答みたいなことを言い始めた。
「わしが魚捕ってるのも同じだ。これだけ長い間魚ばっかり捕ってたら詰まらん。詰まらんが捕らなきゃ食っていけん」
全く持ってどこがどう同じなのか意味がわからなくなって、また相槌を打つと、
「暮らせども、暮らせども……ってな、まぁお兄さん随分長いこと暗い顔しとるからな、海にでも落ちて死ぬ気じゃないかと思うとったんだわ」
ハッとした。そういう風に見られていたのかという気持ちになった。老人の言葉は私を焦燥に駆り立てた。こうしていてはいけない。 そこで私の腹がぐぅと鳴った。
「お兄さん、腹が減っとったんか。あはははは。そりゃあ元気も出らんわ。何かの縁やから、うちにでも来て飯でも食わせてやりたいところだけれども、うちに今、うちのかぁちゃんがおらんからな……」
と、いよいよ老人の勢いが増してきた。でもどこか優しい含みを持った勢いだった。
「お兄さん金ぐらい持っとるよな?」
えぇ、と私が答えると、
「この道真っ直ぐ行くとな、一元っていう食べ物売ってる店があるんだわ、そこで簡単な焼き魚とか飯も食わせてくれるから、そこに行って飯でも食いな。そしたら元気も出るわ」
はっはっはと豪快に笑いながら老人は船が並ぶ方へ去っていった。心地よい方だった。
久しぶりにこの作品ページ開いたら二ヶ月更新してませんと出た。
大きなお世話だ。
書けば書くほど統一感がでないが、まぁいいかと思っている次第。