表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻想旅行記  作者: 乾燥用
3/7

旅行初日(一) 

 六


 午前十時。随分と遅い目覚めだった。昨日の暴風は収まっていた。平穏そのものであった。自分の部屋から見える空は薄い雲がいくつか点々と在るだけで、秋晴れと言う言葉が当てはまる。私は風呂に入って念入りに体の垢を擦り落とした。その行為は身を清めると言っても良かった。今まで身についた俗世の毒というものをまず落としたかった。そして、新しい体で、世にある全てを会得しようとする赤ん坊のような体で、旅行先にあるもの全てを知覚して取り入れたかった。その表れであった。

 昨夜用意していた服に着替えて、小さな鞄を背負い、家を出た。家を出て、駅に向かう。道中はいつも通り平凡な風景であった。家がある。犬の散歩で歩く人が居る。家先の植物に水をやる人が居る。車が通る。自転車も通る。

 それを見ながら考えた。旅行先でも今のような風景がある。そういった日常がある。旅行とは別空間に行くことだ。しかし、町が違っても、国が違っても、星が違っても不変の日常は一定で存在する。そうすると私は旅行に行くべきなのだろうか。もしかすると今ある日常を、ある定点で見つめ続けているために、奇貨に気づいていないだけなのかもしれない。そういうことも考えさせられる。

 眠気が何となく残っているからだろうか、昨夜の決意もぶれにぶれる。正確にはぶれ、と言うよりも、一つの事項に様々な要因が組み合い、重なり、絡み合い、失敗した綾取りのようになっている。右からその糸を引っ張れば、解ける気配がない。そこで左からまた引っ張ると、これも上手くはいかない。そう右往左往して行くうちに、結局打っ遣るしかなくなる。そういう地点に辿り着く。これが自分が抱える致命的な悪癖であった。

 考えながら歩いているうちに駅に着いた。西の更に田舎の方へ向かう電車は時刻表を見る限り、一服していれば来るという時間というわけでもなかった。駅のホームでぼんやり考え事でもするのも良いが、常日頃から色々思考に努めている私が、これ以上思考を積み重ねるのも徒労に思われて、ふらふらと駅前の小さな、小さな商店街へ足を向けた。

 時間が昼前だったせいか、商店街では昼飯前の買い物に精を出す主婦が多く見られた。威勢の良い八百屋やら、魚屋やらの怒号にも似た客引きを横目で見ながら、私はゆっくりと商店街を闊歩する。そうして歩いて行くと、小さな本屋があった。この本屋は昔は何かの週刊誌をよく買いに来た覚えがあるが、今では品揃えの良い東の繁華街にある巨大な本屋に向かうため、ここ数年は縁遠い物になっていた。

 旅行で電車などの交通手段に乗る際に見かける小さな商店に、よく十冊ほど歴史小説や推理小説が置いてある。それをぼんやり読みながら目的地まで時間を潰すというのはよくある光景だ。今の私にはちょうどいいかもしれない、そういう軽い気持ちで小さな本屋に入った。

 中には小さな店内に合わせたかのような、これまた小さな老人が店員として居座っていた。昔よく来たはずなのに、今一つ昔から居たという気がしない。実際、彼を見ていないのかもしれない。

 店内には古くからよく読まれる文豪の本や、学術書がほとんどで、漫画など色合い鮮やかな本は申し訳程度に置いてあり、本屋というよりも、昔から町にある古本屋、もしくは古書店といった風情がある。昼前だというのに店内は薄暗く、壁面や天井は日に焼け、橙に近い色が見える。蛍光灯も、白い輝き、というよりも、足元が見えればよいと言わんばかりに埃に薄っすらと塗れた汚らしい灰色の色を放っていた。

 何はともあれ、本を買う。旅行時に読むような目ぼしいものが思いつかないし、見当たらない、かといって歴史小説や推理小説のような、頭を小説の世界に潜り込ませる形式のものを買うのでは、旅行もおざなりになる気がしたので、新書のような少しは旅行の役にでも立ちそうな本を三冊買って店を後にした。

 老人はか細い声でありがとうございましたと言う。覇気はない。何とも自分の先行きが不安になる声だった。


 七


 本を買って駅に戻ると、丁度電車が到着する頃合だった。切符を買うのだが、目的地はないために、どこの切符を買うべきかを考えなくてはならなくなった。とりあえず電車で三十分ほど西にある古都の一つであるN市の中心地に向かうことに決めた。N市の北には海があり、南には山がある。更に西に向かうと、東の繁華街に一つ二つ劣るような街にも出る。どこに行くかはわからないが、先を考えるには丁度良い場所に思えた。

 N市までの切符を買い、電車に乗る。屋外が特別暑いというわけでもないが、商店街で薄っすら蒸れた肌に、車内の涼しい空気が触れて、少しヒヤリとする。車内は閑散としている。通路の真ん中に立って、前後の車両、そして更に奥にある運転席まで覗く。合わせ鏡のように車両が連なって見える広がりを持った同じ光景は、人が居ないせいか一層合わせ鏡のように見える。

 座席に座りながら、子供の頃小学校のトイレが合わせ鏡だったことを思い出した。必死にその奥にあるものを見出そうとしても、極限に奥行きを持った光景は、最後には人間に知覚出来ない奥行きを持って姿を消す。ここまで考えて思考が止まる。もう既に隣の駅を過ぎていて、更に電車は進んでいた。乗客はやはり居ないようであった。

 電車の窓から見える外の風景は田園地帯である。田園の上、空中に小さな影がところどころ浮いて見える。蜻蛉であろうか。私自身、家から出ることが少なく、自宅の近所も田園だらけの絵に描いた田舎というよりも、戸建の家々が続く都市圏に向かうために作られた地方都市といった景色だからか、この蜻蛉を見たときに、秋らしい秋を感じた。この時私は今日初めての独り言を呟いた。あぁ、秋か、と。

 言葉で秋と言う文字を思い出し、綴り、読んでも、どうにも安っぽい。落葉を踏み散らした音、秋の生き物を目視し、薄っすらとした肌寒さを感じてようやく、秋という空間に身を置いている気がした。そうしてようやく思い出した。秋と言うものはもの寂しい季節だということを。

どんどん内容のパワーが落ちていく気がする。

最近自戒したことが1つ。

褒めるのは容易い、貶すのは更に容易い。

しかし、内容を伴わなければ、二つともその意味を為さない。

今の自分の生活はこういう悔い、改めることばかりの生活だ。

自分はすぐ調子に乗りがちだ。

最近の配信のコメントは自分は結構調子にのってるんじゃないかとよく思う。

拝見、拝聴して、コメントして、配信終わって、若干後悔する。

でもなるようにしかならないのだから、その場の悔いは次の日にはとんでもなく希釈される。

そして、今小説らしいものを書いているのは限りなく自戒に近い意味を持っている気がする。

見せたいのではなく見たいという気がする。

後書きが全く内容と関係のない日記みたいになったなぁ。

こういう使い方でもいいか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ