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幻想旅行記  作者: 乾燥用
2/7

旅行前夜

 

 こうしてSの家から帰って、我が家に着いてから改めて様々なことを考えた。どこに行くかも、決めねばならない。如何に旅行を通して、自分の耐えの決壊という傷を癒すかも考えねばならない。そして、果たして本当に旅行をに行くことで自分の気が晴れるかを考えねばならない。

 そのように考えるのは、やはり自分の性であろうか。やるべきか否か、その尺度でこの場面でも測っているからであろう。別に旅行に行き、宿に泊まり、美味いものを食い、珍しいものを見て、結果体を癒し、療養をするためではない。言うなれば、これは奇貨を探す旅なのだから。目から鱗が零れ落ちる、その鱗を拾いに行く旅だ。体ではなく気持ちを晴らすということはそれに他ならない。

 Sと分かれる間際、行きの時に使ったバス停までSが甲斐甲斐しく見送ってくれた時に、最後にSはこう言った。

「何をやっても暇な時は暇なもんだから、ぶらぶら気が向くままにどっか行ったりして気分でも転換して、また普段の生活に戻ればいいさ。何、難しいことじゃない、そんなもんだろう」

 万年床の布団の上で寝転がってその言葉だけが自分の横に横たわっている。左手を伸ばして、その言葉だけが拾える。右手を伸ばしても、空手だったのだから、拾うより他はない。

 今もそうだし、Sの家に行った時もそうだし、今までもそうだ。自分を変えて何かを為すことが出来ないのならば拾うより他ない。金はあるが、心の面で言えば落ちているものを拾うより他ない人生だ、そこらの乞食と一つも変わらない。乞食が自分を変えて職に就かねば乞食のままなことと、原理は何一つ変わらない。

 ただ理由が欲しかった。紙くずを拾う乞食はいない。旅行に行くということが、紙くずであれば誰も拾いはしない。

 しかし、考えてみれば奇貨というものは札束のようにわかりやすい「得」であるのだろうか。今まで聞いたことのある昔話を紐解けば、奇貨とは大抵役になど立たない紙くずだ。拾う人が拾って奇貨とそれを名づける。

 一ヶ月ほど前に仕事中、片手間で読んだ本にもこうあった。

「元来物に価値などないのです。金にもダイヤにも本来価値などありません。ただ輝くだけなのです。ただ美しいだけなのです。腹も膨れません。それを持っていて幸福が訪れるということもありません。昔山奥にある国で塩があまりにもとれないものだから、金よりも塩の方が価値があったという話もあります。

 そして、それは物ではなく人だとしてもそうでしょう。天才と言われ、世の中でよく知られている人でもそうです。美しい絵が描ける人、素晴らしい建造物が作れる人、物理だか、化学だかに秀でた人が新しい物を発明できること。これらに価値などそもそもないのです。ただの人がこれらの素晴らしい技を持つ人を見ても、何も感じません。もしかすると、これら素晴らしい技を持った人々同士でさえ、相手の価値を見出せないかもしれません。

 価値を見出した時とは別の第三者が賞賛の声を上げて、その声が世間に浸透してからなのです。大抵はその道の大家であったり、権力者であったりしますが、そういった物や人に惜しみない賞賛と、重宝したがることから始まるのです」

 その書物の言葉と今の自分を重ね合わせてようやく一つの道が開けた。旅に出よう、そして、自分だけが惜しみない賞賛を与えられる物や人を見出そう、と。

 そして、拾わねばならないから拾うという必然ではなく、拾って自分が信じるだけの価値がある璧を誰よりも愛して磨こうとする意気込みがあった。


 五


 旅行出発の日はSの家に訪問してから、一週間後になった。会社勤めでない自分がいくら暇だと言っても、まとまった休日を取ろうとなるとそれ相応に、自分の日常を前倒しにして詰めなければならないから、随分意気込んだ日から遅くなった。

 旅行先は東の繁華街方面ではなく、西の更に自分の住むところよりも田舎の方面に決めた。奇貨が雑多な方面に落ちている気が全くしなかったからだ。少なくとも人工物である気はしなかった。誰しもが見向きする場所に落ちている物など高が知れている、そう考えた。

 旅行前日の夜、身支度を整えた。服装は軽装で、海外旅行にいくような大型の鞄などは持たず、小さな鞄一つ背負ってそこにいくらかの下着、財布、洗面用具、そして地図だけを詰め込んだ。

 変に意気込めば意気込むほど奇貨は遠ざかる。研究家でも探検家でもなく、冒険家の心構えだけが必要に思われた。探すのではなく、拾う。見つけるのではなく、見出す。私はその心構えは冒険家ではなかろうかと考えた。

 そして平常心で立ち回り、何に対しても好奇心を持つ、そして拾い、見出す。行く先など考えず、気になったときに気になっただけ触り、放り投げたい時に放り投げればいい。冒険家とは後先など考えず自由にぼんやりとしたもので動けばよいのではなかろうか。

 そう考えながら布団に入り、寝た。随分と落ち着いた眠りだった。窓の外は明日出発なのにも拘わらず、凄まじい暴風で、外にある木々が揺れに揺れて葉の擦れで気が散りそうなものだったが、すんなり眠りに着いた。目的が決まり、心がここに在れば、何事にも動じないものなのだなと感心しながらすやすやと眠った。

まだまだ面白いであろう場面にはたどり着きそうにない。

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