元悪役令嬢ですが、なぜか平民に推されてます
「……これで、本当に一人になったのね」
私は今、なぜか王都の北端──治安も決して良くはない職人街の片隅にいる。
月明かりすら満足に届かないボロいアパートの一室で一人、埃っぽい部屋の真ん中にたたずんでいた。
かつて『ローゼンバーグ公爵家の至宝』と持て囃された私の手には、小さなトランクが一つあるだけ。
上質なドレスは脱ぎ捨てさせられ、今着ているのは安っぽい綿のワンピースだ。
数時間前までの出来事が、まるで遠い昔の悪夢のように頭の中をぐるぐると駆け巡る。
私は、王立学院の卒業パーティーにいた。
豪華絢爛なシャンデリアの下、私はかつての婚約者である第一王子・アルフレッド様から、突然言い渡された。
『セシリア・ローゼンバーグ! お前の悪逆非道な振る舞いは、もはや見過ごせぬ! 聖女エレナに対する嫌がらせ、毒殺未遂、そして階段からの突き落とし……! 貴様のような心根の腐りきった女、我が妃とするわけにはいかん! 婚約破棄だ!』
目の前で震えてみせる、聖女エレナ。
彼女の肩を抱き寄せて、私を蔑むような目で見下ろすアルフレッド様。
私の味方になってくれるはずだった幼馴染の騎士も、側近の文官も、皆が一様に軽蔑の眼差しを私に向けていた。
『身に覚えがございません! 私は、そのような浅はかな真似など……!』
私がどれだけ叫んでも、声は届かなかった。
『往生際の悪い女だ』『やはり噂通りの悪役令嬢だな』と、周囲の貴族たちから嘲笑が漏れる。
救援を求めて振り返った先にいた実の父親——ローゼンバーグ公爵は、不快そうに顔を歪めると、冷ややかに吐き捨てたのだ。
『我がローゼンバーグ家に、そのような罪人は不要だ。今この瞬間をもって、セシリアを勘当とし、爵位も剥奪する。一族の恥晒しめ、二度と我らの前に姿を現すな』
身に覚えのない、冤罪だった。
嵌められたのだと分かっていても、証拠を提出する時間すら与えられなかった。
長年私を支えてくれた専属メイドも、幼い頃から共に過ごした側近たちも、誰一人として私を庇おうとはしなかった。
(誰も……誰も、私を信じてくれなかった)
私という人間を見てくれていた者など、最初から一人もいなかったのだ。
私が提供する「公爵令嬢としての利益」や「完璧な令嬢としての立ち振る舞い」だけが利用されていたに過ぎない。
「……寒いわね」
アパートの木枠の窓からは、容赦なく冷たい夜風が吹き込んでくる。
隙間風を塞ぐ術もなく、私は床に膝をつき、抱え込むように身体を丸めた。
絶望。孤独。裏切り。
胸の奥から押し寄せる暗い感情に押し潰されそうになり、目元がじんわりと熱くなる。
涙をこぼしたら、本当に負けてしまう気がして、私は固く唇を噛み締め、じっと耐えていた。
その時だった。
ガタガタ……!
「セシリア様ーっ! セシリア様いらっしゃいますか!!? 入りますよ! 物理的に扉が壊れそうなので開けますね!!?」
「ひゃいっ!?」
あまりの爆音と振動に、私は情けない声を上げて 跳び上がった。
鍵をかけていたはずのボロいドアが、バコォン!という豪快な音とともに弾け飛び、蝶番から外れて室内へと倒れ込む。
もうもうと立ち込める埃の向こうから現れたのは、一人の男だった。
汗と煤にまみれた茶色の作業着。
ボサボサと跳ねた茶髪に、キラキラと輝く琥珀色の瞳。
まるで大型の肉食獣——いや、尻尾を全力で振り回しながら突進してくる大型犬のような、圧倒的な生命力を纏った青年だった。
(刺客……!? いえ、追放された私を口封じに殺しに来た処刑人!?)
私は恐怖で腰を抜かしそうになりながらも、元公爵令嬢としてのプライドを振り絞り、彼を睨みつけた。
「な、何者ですか……!? 追放された身とはいえ、無礼にも程がありますわ!」
しかし、青年は私の言葉など耳に入っていないご様子だった。
彼は倒れた扉を跨ぎ越すと、私との距離を一気に詰め、感極まった様子で胸に手を当てて深く深く息を吐いた。
「……本物だ。生きている……。うわあぁぁ、セシリア様が目の前に……! 尊い……生きててくれて、本当にありがとうございます……っ!」
「な、なに……!? 貴方、本当に誰なの!?」
私が困惑して一歩後退ると、青年はハッと我に返ったように姿勢を正した。
「あ、大変申し訳ありません! 名乗り遅れました! 近所で鍛冶屋と家具職人をやっております、平民のルーカスと申します! 簡単に言えば『セシリア様を世界で一番応援しているファン』です!」
「……は?」
ファン?
聞き覚えのない単語と、彼のあまりにも突飛な態度に、私の思考は完全にフリーズした。
「ファ、ファン……冗談はやめて頂戴。私は今日、国中から嫌われた悪役令嬢として追放されたのよ? 今や誰も私の味方なんて——」
「味方なんていなくて当然ですよ! あんな見る目のないバカ王子や元実家なんて、最初からセシリア様にふさわしくなかったんです!」
「は……? バ、バカ王子……!?」
ルーカスと名乗った青年は、興奮気味に身を乗り出してきた。
気のせいだろうか。彼の背後に、巨大なフサフサの尻尾がブンブンブン!と空気を切り裂く音が聞こえる気がする。
「高潔で、誰よりも努力家で、周囲の理不尽な要求にも一切弱音を吐かずに立ち向かうセシリア様! 俺はずっと、学院の遠くからセシリア様の神々しい姿を拝見しておりました! あんな素晴らしいお方を理解できないなんて、あの貴族どもは全員目の玉が腐ってるに違いありません!」
「ま、待ちなさい! 貴方、何を言っているの……!?」
「セシリア様が追放されたという報せが街に駆け巡った瞬間、俺は天を仰いで神に感謝しましたね! 『よし、これでセシリア様がクソ貴族どもから解放された! 自由だ!』って!」
「く、クソ貴族……っ!?」
あまりにもストレートかつ凄まじい暴言の数々に、私は言葉を失った。
貴族社会の人間関係や、表向きの繕いに慣れきっていた私にとって、彼の熱量は刺激が強すぎる。
「ささっ、セシリア様! こんなボロい部屋、カビが生えて呼吸器をやられます! ほら、このテーブルも足がガタついてます。ドアの建て付けも治しました! ついでに、特製の『牛肉と野菜のシチュー』を持ってきました! 召し上がってください!」
「えっ、あ、ちょっと待ちなさい! 急に何をするの!?」
ルーカスは私が止める間もなく、凄まじい速さでで倒れたドアを元通りに取り付け、グラついていた小さなテーブルを一瞬で新品同様に修理してみせた。
そして、どこから取り出したのか、大きな手鍋から湯気と甘い香りを漂わせる深皿を取り出した。
「あの……私に毒でも盛るつもり?」
私の言葉に、ルーカスはショックを受けたようにガーンと効果音が聞こえそうな顔をした。
耳がへにゃりと倒れ込む幻覚が見える。
「そんな滅相もない! 俺の推し……えっと、セシリア様に毒なんて盛ったら、俺が自分の両腕を叩き折って街の井戸に身を投げます! 痩せてしまったセシリア様の健康が心配で心配で、昨日は夜も眠れませんでした!」
触れ合う直前、彼は私にシチューの器を手渡そうとして、手がプルプルと震えていることに気づいた。
「な、なんでそんなに震えているのよ……?」
「あ、あの……セシリア様があまりにも神聖すぎて、手が……緊張して……触れるなんて滅相もなくて……!」
「……」
この人は、本気なのだ。
言葉の端々から溢れ出る熱量と、嘘偽りのない真っ直ぐな瞳。
私に危害を与えようとする意図など微塵もなく、ただ純粋に、私の存在そのものを慈しんでいる。
私は毒見のつもりで、小さめのスプーンですくい、シチューを口に含んだ。
(……温かい)
じっくり煮込まれた牛肉が舌の上でホロホロと解け、野菜の優しい甘みが口いっぱいに広がる。
ここ数日、冤罪の渦中で胃が千切れそうな思いをしていて、まともな食事など一口も喉を通らなかった。
冷え切っていた胃袋から、じわじわと温かさが全身へと広がっていく。
(なにこれ……どうして、涙が……)
ぽたり。シチューの中に涙が落ちた。
一度溢れ出したら、止められなかった。
誰にも信じてもらえず、絶望の暗闇に叩き落とされ、一人で耐えるしかないと思っていたのに。
「セ、セシリア様!? マズかったですか!? 俺の料理が口に合いませんでしたか!?」
ルーカスが大慌てで手元をワタワタとさせながら叫ぶ。
私は必死に目元を拭い、気品を保とうと背筋を伸ばした。
「……バカね。マズくなんてないわ。……美味しかったわよ。すごく……すごく温かいわ」
「っ……!!」
私の言葉を聞いた瞬間、ルーカスの顔がパッと花が咲いたように輝いた。
「よっしゃぁぁぁ!! 推しに、俺の料理を褒められたぁぁぁ!!」
ガッツポーズを決めながら、部屋の天井に頭を打ちつけんばかりに跳び上がる青年。
あまりの暑苦しさと可笑しさに、私の胸の奥に溜まっていた重苦しい塊が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
♢
それからのルーカスの行動は、一言で言えば台風のようだった。
例えば、まだ太陽が昇りきっていない早朝。
トントン、と遠慮がちな──しかし力強いノックの音がアパートに響いた。
扉を開けると、そこには爽やかな笑顔を浮かべたルーカスが立っていた。
「おはようございます、セシリア様! 今日の朝食は、出来立てのパンと採れたて野菜のサラダ、それと新鮮な牛乳です!」
「……貴方、本業はどうしたの?」
「安心してください! 俺、これでも街一番の腕利きって言われてて、爆速で依頼を終わらせてるので時間はいくらでも作れます!」
そう言って、爽やかに親指を立てるルーカス。
彼の言葉に嘘はなく、実際、彼は街の職人たちの間でも「天才家具職人」「若き鍛冶屋の英才」として有名らしかった。
ルーカスの「推し活」は留まることを知らなかった。
「このアパートの床、歩くたびに軋むので全て張り替えておきました!」
「お召し物が汚れてはいけません。洗濯と裁縫は、俺の特技です!」
「その『何よこの愚民』みたいな冷ややかな視線、今日も最高に尊いです!」
私は元・悪役令嬢としてのプライドを保つため、なるべく冷たく、厳しく彼に接しようとした。
しかし、どんなに冷たくあしらっても、ルーカスは「きゃー! 冷たいセシリア様も美しい! 感謝の極み!」と大喜びして、尻尾を振るだけなのだ。
(調子が狂う……本当に、調子が狂うわ……)
しかし、日を重ねるごとに、私の生活は確実に変わっていった。
ボロいアパートの一室には、ルーカスが自ら作った頑丈で美しいマホガニー調の家具が並び、窓辺には彼が摘んできた可愛らしい野の花が飾られた。
毎食、温かく栄養満点の手料理が運ばれ、私の顔色からは青白さが消え、肌のツヤも戻ってきた。
何より変わったのは、私の心だった。
かつての私は、常に完璧でなければならなかった。
少しでも失敗すれば周囲から咎められ、親からは「ローゼンバーグ家の恥」と叱責された。
誰かを心から信じることなどできず、常に孤独と緊張の中に身を置いていた。
けれど、ルーカスは違う。
私がどれだけ素っ気ない態度をとっても、失敗して落ち込んでいても、すっぴんに近い状態でぼんやりしていても、彼はいつだって私を眩しそうに見つめ、真っ直ぐな言葉を投げてくれる。
「セシリア様は、生きてそこにいてくださるだけで100点満点なんです」
ある日、ぽつりと漏らした彼の言葉が、私の胸に深く突き刺さった。
誰も味方がいなかった世界で、この暑苦しくてお節介な平民の青年だけは、私という存在そのものを全身全霊で肯定してくれていた。
気づけば、私の心に溜まっていた氷は、跡形もなく溶け去っていたのだった。
♢
追放されてから、三ヶ月が経ったある日の午後のこと。
私がルーカスの工房の軒先で、彼に頼まれた簡単な事務作業を手伝っていた時だ。
ガラガラと、職人街には不似合いな豪華な四輪馬車が、アパート兼工房の前に停まった。
馬車の扉が開き、降り立ってきた人物たちを見て、私は息を呑んだ。
黄金の刺繍が施された豪華な衣装を纏った青年——かつての婚約者、第一王子アルフレッド様。
そして、その隣には厳格な面持ちをした私の実父、ローゼンバーグ公爵の姿があった。
周囲の職人たちが「なんだなんだ?」と遠巻きにヒソヒソと囁き始める。
アルフレッド様は私を見つけると、安堵と、どこか上から目線の笑みを浮かべて近づいてきた。
「セシリア! 無事だったか! こんなむさ苦しい場所に押し込められていたとは、苦労をかけたな」
「……アルフレッド様? ローゼンバーグ公爵……? 一体何のご用でしょう」
私が冷静に問い詰めると、父が眉をひそめて一歩前に出た。
「セシリア、その口ぶりは何だ。父親に対して無礼だぞ。……まあ良い。お前に朗報を伝えに来てやったのだ。聖女エレナの悪行が暴かれた」
「……え?」
父の話によれば、こうだった。
私を追放した後、聖女エレナの本性が露呈したらしい。
彼女は他の貴族たちからも賄賂を受け取り、自作自演の怪我や病気をでっち上げて周囲を操作していたことが発覚。さらに、私を嵌めるために毒薬を購入した証拠まで見つかったのだという。
アルフレッド様が、さも自分は慈悲深いと言いたげな表情で胸を張った。
「私の誤解だったのだ、セシリア! お前の無実が証明されたぞさあ、感謝しろ。お前を、再び私の妃として迎えてやる。公爵家に戻り、王宮へ復帰するのだ!」
父もまた、当然のように頷く。
「そうだ、セシリア。お前がいなくなってからというもの、公爵家の事務処理が滞って仕方がなくてな。お前の手腕が必要だ。今日までの無礼は不問にしてやるから、すぐに馬車に乗りなさい」
二人とも、まるで『救ってやった』とでも言いたげな顔をしていた。
罪を擦り付け、私から全てを奪い、寒空の下に叩き出した張本人たちが。
私がどんな思いであの夜を明かしたのか、一度たりとも考えたことなどないような顔で。
胸の奥から、冷たい怒りがふつふつと湧き上がってくるのが分かった。
かつての私なら、絶望と悔しさで声を震わせていたかもしれない。
あるいは、公爵令嬢としての義務感から、言われるがままに従っていたかもしれない。
けれど——今の私には、守るべき「本当の居場所」があった。
私は小さく息を吸い込むと、ルーカスが手作りしてくれた頑丈で美しい扇子をパチンと鳴らした。
「……お断りいたします」
「な……何だと!?」
アルフレッド様が目を丸くする。
「聞こえませんでしたの? お断りいたしますと言ったのです。私が最も辛く、絶望の淵にいた時、私を信じず、言葉すら聞かずに切り捨てた方々の元へ戻る理由など、どこにもございません」
「セ、セシリア! 正気か!? 貴様、公爵家の令嬢としての義務を捨てるつもりか!?」
父が、怒りに顔を真っ赤にして叫ぶ。
私はそんな父を、冷ややかな目で見下ろした。
「公爵家は私を勘当なさったはずですわ。私は、もうローゼンバーグの人間ではございません。事務処理が滞っているのは、今まで私に全ての仕事を押し付けていた報いです。どうぞ、ご自分でなさってくださいな。浅はかな頭で、一生後悔なさると良いわ」
「き、貴様……っ!!」
プライドを打ち砕かれたアルフレッド様が、なりふり構わず私の手首を掴もうと手を伸ばしてきた。
「償いの機会を与えてやっているのに、調子に乗るな! 来い、セシリア!」
「あ……!」
痛みに身構えた、その瞬間——。
ガシッ!!!!
空気を切り裂くような音が響き、アルフレッド様の手首が、途中でぴたりと止まった。
分厚く、鍛え上げられた、煤と傷にまみれた大きな手が、王子の手首をガッチリと掴んでいたのだ。
「……俺のセシリア様に、汚い手で触んじゃねぇよ」
地獄の底から響くような、低く冷徹な声が響く。
そこに立っていたのは、いつものニコニコとした「大型犬」のようなルーカスではなかった。
獲物を狙う野獣のごとき鋭い眼光。職人として鍛え上げられた圧倒的な体躯から放たれる、凄まじい威圧感。
「だ、誰だ、貴様は……!? 無礼者、控えよ! 私はこの国の第一王子だぞ!?」
アルフレッド様が痛みに顔を歪めながら叫ぶが、ルーカスは一切怯むことなく、かえって握力を強めた。
「第一王子だかなんだか知らねぇけどな……セシリア様が嫌がってるだろ。耳が付いてねぇのか?」
「くっ……離せ! 誰か、この男を捕えろ!」
アルフレッド様が控えていた護衛の騎士たちに命令しようとするが、ルーカスの放つ圧倒的な「覇気」に圧され、騎士たちも恐怖で一歩も動けないでいた。
ルーカスは王子をゴミでも捨てるように放り投げると、私と彼らの間に割り込み、大きな背中で私をしっかりと庇った。
「セシリア様には、誰も味方がいない? 笑わせないでください」
そして、堂々と叫んだ。
「俺がいます! 世界中がセシリア様の敵になっても、俺がセシリア様の一番のファンで、一番の味方で、生涯の騎士です! あんたらみたいな見せかけだけのクソ貴族に、セシリア様を渡すわけねぇだろ!!」
その背中は、どんな城壁よりも高く、どんな鎧よりも頑丈に見えた。
胸が、あたたかいもので満たされていく。
目頭が熱くなり、涙が溢れそうになるのを、私は必死に堪えた。
ルーカスは二人がコソコソと逃げ出すように馬車へ乗り込むのを見届けると、くるりと私の方を振り返った。いつもの、ちょっと照れたような、くしゃっとした笑顔を浮かべる。
「……なんて格好つけちゃいましたけど、平民の分際ででしゃばりすぎでしたかね、セシリア様?」
不安そうに耳を垂れさせる彼を見て、私は思わずクスッと微笑んだ。
「いいえ。とても誇らしかったわ……ルーカス」
ルーカスは顔を真っ赤にして尊さに身を悶えさせ、その場に崩れ落ちそうになっていた。
王子と公爵が逃げ帰った後、その一部始終を見ていた街の職人たちから大歓声が上がった。
「よく言ったルーカス!」「格好よかったぞ、お嬢さん!」と、温かい声援が飛び交う。
その後、王宮からは正式な謝罪文と復権の打診が届いたが、私はすべて無視した。
冤罪を掛けた元婚約者や聖女の失脚、そして事務能力を失ったローゼンバーグ公爵家の落ちぶれぶりは、王都中の格好の噂話となったが、もはや私には関係のないことだ。
現在の私はというと——。
「セシリア様! 今日の納品分の見積書、出来上がりました!」
「ありがとう、ルーカス。でも……ほら、ここ。漢字が間違っているわよ」
「うぎゃー! すみません! でもセシリア様に指図されると脳汁が出ます! 尊い!」
「……貴方は本当に救いようのないバカね」
私は呆れつつも、思わず笑ってしまう。
私は結局、華やかな貴族社会に戻ることもなく、この工房で「事務員」と「看板娘」として暮らしている。
最初は元悪役令嬢と聞いて警戒していた街の人々も、今では「ルーカスを上手に手懐ける、器量よしでお堅いお嬢さん」として、家族のように温かく受け入れてくれていた。
仕事の手を止め、私はルーカスの元へ歩み寄る。
「……ルーカス」
「はい! なんでしょうセシリア様!」
「少し、頭を下げて頂戴」
「は、はいっ!」
理由も聞かずに、素直に頭を低くするルーカス。
私はそのボサボサとした茶髪に手を伸ばし、くしゃくしゃと優しく撫でてあげた。
「っ……!? セ、セシリア様!?」
「ありがとうね。私を……見つけてくれて」
ルーカスは目を丸くした後、心の底から嬉しそうに目を細め、私の手心地良さそうに受け止めた。
その姿は、本当に大好きな飼い主に撫でられている大型犬そのものだった。
かつて、私はすべてを失い、味方は誰もいなくなったと思っていた。
しかし、それは間違いだったのだ。
偽りの愛や、利害関係で結ばれた百人の味方よりも──私という人間そのものを愛し、信じてくれる「たった一人」の味方がいれば、人間はどこでだって幸せになれる。
「セシリア様! 俺、一生セシリア様についていきますからね!」
「ええ、期待しているわ。ルーカス」
夕暮れ時の赤く染まる工房の中に、私たちの笑い声が、いつまでも優しく響き渡っていたのだった。




