第2話 音の届く距離
放課後の廊下は、思ったより静かだった。
部活の勧誘ポスターが、昨日と同じ場所に貼られている。
何も変わっていないはずなのに、足取りだけが妙に重い。
音楽室の前で、足が止まる。
入る理由はない。
文化祭から一ヶ月。
時間は経ったのに、あの一拍だけが妙に鮮明だ。
ステージの上。
司会が何度も呼んだ自分の名前。
――健太郎。
だから背後からその名を呼ばれたとき、驚きはしなかった。
「健太郎くん」
振り向く前に分かる。
昨日の声だ。
ゆっくり振り向く。
昨日と同じ顔。
昨日と同じ、まっすぐな目。
昨日、音楽室で話した声。
それに、同じクラスだ。
出席番号も近い。
藤田さくら
名前くらい、知っている。
「入らないの?」
「……別に」
便利な言葉だと思う。
別に、で大抵のことは片づく。
「昨日あんなに弾いてたのに?」
さくらは首をかしげる。
事件みたいに扱われるかと思った。
でも違う。
ただの事実みたいな言い方だった。
昨日の出来事は、俺の中では大きすぎるくらいなのに。
彼女の中では、放課後のひとつらしい。
「たまたまだよ」
「たまたまであんな顔する?」
「どんな顔?」
「音に必死な顔」
少し笑いながら言う。
からかわれている感じは、しない。
ただ、見たままを言っているだけだ。
それが余計に落ち着かない。
扉の前に立ったまま、沈黙が流れる。
「入らないなら、私入っちゃおうかな」
さくらがドアノブに手をかける。
「おい」
「何?」
「……別に」
さくらが小さく吹き出す。
「その“別に”、今日もう二回目」
言い返せない。
別に、じゃない。
入るのが怖いわけじゃない。
でも、ふと体育館のざわめきがよみがえることがある。
あの瞬間。
リズムがズレた。
指が遅れた。
頭が真っ白になった。
「そんなに人に見られるの、苦手?」
軽い声。
苦手、というより。
見られた瞬間、
音が自分の手を離れていく。
そんな感覚。
「……別に」
三回目。
情けない。
さくらは少しだけ考えてから言う。
「昨日は平気だったよ?」
胸の奥がわずかにざわつく。
文化祭では止まった。
崩れた。
でも昨日、音楽室で弾いたときは違った。
「……あれは」
言いかけて、やめる。
何が違ったのか、まだ分からない。
ただ。
彼女の視線は重くなかった。
「私は音聴いてただけだもん」
当たり前みたいに言う。
「入ろ?」
今度は少し柔らかい声。
さくらはドアを開け、迷いなく中に入っていく。
……置いていくなよ。
心の中で呟き、あとに続いた。
音楽室は昨日と同じ匂いがした。
ワックスと古い木の匂い。
ギターケースを椅子の横に置く。
「弾かないの、健太郎くん?」
窓際に座るさくら。
昨日より少し距離がある。
「……まだ」
「目、閉じて弾けば?」
「は?」
「人がいるとズレるんでしょ?」
核心を、普通に触る。
「……別に」
「四回目」
数えてるのかよ。
「私のこと見なくていいよ。ちゃんとそっち向かないから」
本当に視線を逸らす。
「私は聴くだけ」
ゆっくり目を閉じる。
弦に触れる。
冷たい。
息を吸う。
ここは体育館じゃない。
観客もいない。
右手を振る。
一音。
響く。
二音、三音。
コードをつなぐ。
遅れてない。
走ってない。
ちゃんと指がついてくる。
サビに入る。
少しだけ強く弾く。
音が、戻ってくる。
最後のコードを鳴らして止める。
静寂。
目を開ける。
さくらはまっすぐ見ていた。
「今の、ちゃんと最後まで安定してた」
事実みたいな言い方。
「……そっか」
自分でも分かる。
声が少しだけ軽い。
「うん」
少し間を置いてから。
「やっぱ健太郎くんの音、好きだな」
「…えっ?」
間の抜けた声が出る。
「嘘ついてない感じする」
その言葉が、胸の奥に残る。
「……文化祭のときは」
気づけば口にしていた。
「音が揺れたんだよ。遅れて、止まって」
一ヶ月、飲み込んでいた言葉。
「見られてるって思った瞬間、何も分かんなくなった」
さくらは静かに聞いている。
少し考えてから言う。
「じゃあさ」
軽い声。
「私で慣れればいいんじゃない?」
「は?」
「毎日私の隣で弾いてたら、そのうち平気になるでしょ」
無茶だ。
でも、どこか可笑しい。
「勝手に決めるなよ」
「だめ?」
「……別に」
五回目。
さくらが笑う。
音楽室の空気が、少しだけ柔らかくなる。
まだ決して音が揺れなくなったわけじゃない。
遅れる。
止まるかもしれない。
でも。
その音を聴いている誰かがいる。
それだけで。
ほんの少しだけ、
弾ける気がした。




