第1話 揺れた一拍
あの日の体育館は、やけに明るかった。
ステージ袖に立った瞬間、照明の白さが目に刺さる。
まだ出番前だというのに、喉の奥が少し乾いていた。
ギターを抱え直す。
ストラップの重みは、いつもと同じはずなのに、肩に食い込む感覚だけがやけに鮮明だった。
弦に触れる。
冷たい。
指先に伝わる金属の感触だけは、裏切らない。
押さえれば鳴る。弾けば応える。
それだけは、ずっと信じてきた。
大丈夫だ。
何百回も合わせてきた。
あのイントロも、あの繋ぎも、身体が覚えている。
ステージに出る。
歓声というほどでもないざわめき。
クラスメイトの顔。
見慣れたはずの体育館の天井。
深呼吸。
カウント。
——最初の一音。
綺麗に鳴った。
アンプ越しに広がる音が、体育館の空気を震わせる。
ベースが入り、ドラムが続く。
いける。
指は滑らかに動く。
コード進行も問題ない。
難しくないフレーズだ。何度も弾いてきた。
客席を見ないようにしながら、
それでも視界の端に、人影が揺れる。
その瞬間だった。
ほんのわずかに、左手が遅れた。
押さえるはずの弦を、指先が正確に捉え損ねる。
一瞬だけ、音が濁る。
ほんの僅かなズレ。
——今、音が揺れた。
心臓の音が大きくなる。
次のコードへ移る。
取り戻せる。
そう思って、いつもより少し強く弦を押さえる。
音が、硬い。
呼吸が浅い。
左手をスライドさせる。
位置が、ほんの僅かに甘い。
鳴るはずの音が、また濁る。
——さっきと同じだ。
遅れは、遅れを呼ぶ。
ドラムは続いている。
ベースも、止まらない。
自分だけが、置いていかれる。
取り戻さなきゃ。
そう思った瞬間——
音が、出なかった。
押さえたはずの弦は、
指の下で正しく鳴らない。
アンプから零れたのは、
輪郭を失った、曖昧な音。
それは一瞬だった。
けれど、永遠みたいに長かった。
体育館の空気が、薄くなる。
耳鳴り。
自分の呼吸だけが、やけに大きい。
続けなければいけないのに、
左手が、動かない。
指が、形を思い出せない。
頭の中は真っ白なのに、
失敗したという事実だけが、はっきりと残る。
そのとき。
客席の奥。
まっすぐこちらを見ている視線があった。
責めるわけでもなく、
驚くわけでもなく、
ただ、逸らさない目。
誰だったのか、今もはっきりしない。
けれど、その視線だけが、
音の消えたステージに、
静かに突き刺さっていた。
気づけば、弦を押さえる指先に力が入りすぎていた。
音楽室の窓から、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
埃が、ゆっくりと漂っていた。
体育館の匂いはない。
ざわめきもない。
あるのは、アンプを通さない生の音だけ。
指を離す。
余韻が、静かに消える。
あの日から、人前で弾いていない。
弾けなくなった、というほうが正しいのかもしれない。
一人なら問題ない。
コードも、フレーズも、ちゃんと形になる。
左手は遅れない。
視線がなければ、揺れない。
ギターケースは、いつもより少しだけ重い。
理由は分かっている。
分かっているのに、うまく言葉にならない。
あのとき、何が怖かったのか。
失敗か。
視線か。
それとも——
そこまで考えて、やめる。
答えの出ない問いを繰り返しても、意味はない。
弦に触れる。
静かなアルペジオ。
指は、正確に動く。
音は、綺麗だ。
綺麗すぎるくらいに。
そのとき。
廊下の向こうから、微かな声がした。
最初は空調の音かと思った。
けれど違う。
旋律。
自分が今弾いているコード進行を、
なぞるように。
一音遅れでも、先走りでもなく。
ただ、自然に重なる。
指が止まらない。
止められない。
確かめるように、次のフレーズへ進む。
歌声も、ついてくる。
偶然じゃない。
合わせている。
いや——
聴いている。
自分の音を。
心臓が、変な鳴り方をする。
怖さとは違う。
けれど、似ている。
最後のコードを鳴らす。
余韻。
同時に、歌も止まった。
……今、合わせた?
小さく、ノックの音。
カチャ、と扉が開く。
逆光の中に、ひとり。
見覚えのない女子。
肩までの髪が、夕方の光に透けている。
「ごめん、勝手に歌っちゃった」
第一声がそれだった。
思っていたより、普通の声。
「……聴いてたのか?」
「うん。だって、音が廊下まで漏れてたし」
「ああ、それは普通に防音が甘いだけだろ」
「違うよ」
きっぱり。
「ちゃんと、呼んでた」
少しだけ眉をひそめる。
「え、気づいてなかったの?」
「何に」
「自分の音に」
……会話が成立しているようで、していない。
「俺、別に上手くないし」
「うん。まだ伸びる」
「おい」
即答するな。
でも彼女は悪びれない。
「でもね、嘘ついてない音だった」
心臓が、また変な音を立てる。
あの日、音が揺れた。
止まった。
あれを見ていたら、そんな言葉は出ないはずだ。
「あの日、ちゃんと弾けなかったけど」
無意識に口が動いていた。
彼女は少しだけ考えるように視線を上げて、
「けど、逃げてなかった」
静かに言った。
——逃げてない?
意味が分からない。
分からないのに、胸の奥が少し熱い。
「もう一回、弾いてよ」
「え?」
「さっきの続き」
強引だ。
でも、不思議と嫌じゃない。
弦に触れる。
同じコード。
彼女は歌わない。
ただ、聴いている。
視線を感じる。
左手は遅れない。
音は揺れない。
でも、さっきよりほんの少しだけ、音が前を向いている気がした。
演奏が終わる。
沈黙。
彼女が、小さく笑った。
「ほらね」
その一言が、
悔しいくらい、嬉しかった。




