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現代に残る聖杯伝説について  作者: 乙黒


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20/22

喰う

「……ねえ、向日葵さん。なんか、おかしいとは思わない?」


 僕は灰崎君の異変に気づいた。

 灰崎くんの体の動きが変わったからだ。先程までゆっくり歩いていたのに、向日葵さんをじっと見つめると引きずっていた右足もしっかりと地面に立ち、足の速さが徐々に上がった。


「ねえ、ちょっと――」


 向日葵さんも灰崎君の視線が恐ろしくなったのだろう。

 何故なら灰崎君の目は向日葵さんから外すことがなく、両手を向日葵さんへと伸ばしながら近づいてきた。


「なんか! やばいかもしれない!」


 僕はすぐに向日葵さんの手を引いて、その場から逃げ出そうとした。例え鬼の先に自分たちの目指す洋館があったとしてもまずは鬼の脅威から遠ざかろうと後ろを向くが、何故か向日葵さんの手が動かず、僕は前のめりにこけそうになるが、大きく右足を出して踏ん張った。

 そして、僕は後ろを見た。

 動かない。いや、動けずにいる向日葵さんの姿を。

 何故なら彼女は、既に這いつくばるような灰崎君の赤い手によって左足を掴まれていたからだ。何度も何度も向日葵さんは右足を使って、灰崎君の顔を蹴って右足を掴んでいる手を払おうとするが、灰崎君はにたにたと嗤いながらゆっくりと向日葵さんの足を握る。


「いぃうぅ――」


 灰崎君は喜びの呻き声を上げた。

 向日葵さんを捕まえたからだろうか。

 そう言えば、と以前に中学校の時のあれはプールの時間の更衣室だっただろうか。男子しかいない場所で、灰崎君が学校の中で誰が好きかの話題になった時、他クラスである向日葵さんの名前を宣言していたことを思い出す。その時は気にも止めなかったが、今でも灰崎君は向日葵さんの事が好きなのだろうか。その執着心が、向日葵さんを求めているのだろうか。


「止めて……止めて……」


 向日葵さんは涙ぐみながら小さな声で呟いて、必死の抵抗を試みるが、やはり何をやっても灰崎君は強い力で向日葵さんを離すつもりはないらしく、鬼の圧倒的な力で足首を締め付ける。一目で分かるほど、鬼の手で握られている足首は、周辺が青白く変色していた。おそらく内出血だろう。それでも向日葵さんの足がまだ握り潰されないのは、他の鬼と比べて灰崎君の力がまだ弱いからだろうか。

僕も向日葵さんの手をすぐに放し、灰崎君の頭をサッカーボールのように蹴るが、びくともしなかった。まるでボーリング玉を殴っているかのような固い衝撃が足を伝わり、それでも向日葵さんを助けようと今度は両手で灰崎君の腕を掴んで引き離そうとする。

 その時、鬱陶しそうに灰崎君は言った。


「いぃうぅ」


 それは怒りの声だっただろうか。

 向日葵さんとの間を邪魔された怒りの声だっただろうか。

 この時、初めて灰崎君は僕を視界に入れると、余っていた方の腕を振るう。僕は脇腹を殴られた。地面に這いつくばっている状態であるにも限らず、灰崎君の放った拳は僕の体をくの字に折り曲げ、思わず膝を地面についてしまうほどの衝撃だった。そして灰崎君はそのまま――腕を伸ばし僕襟を掴むと、遠くへと投げ捨てる。

 僕は腹を殴られた痛みにより何の抵抗が出来ぬまま、空中を漂うことになる。その時、涙ぐみながら笑う向日葵さんの顔が、天地が逆転する世界の中で目に入った。


「秋空君――ありがとう」


 そしてまた視界が回転し、やがて僕は硬いアスファルトの上へと頭から落ちた。

 もちろん、向日葵さんのことは全く見えなかったが、音だけは耳の中に入る。声にならない向日葵さんの悲鳴と、骨が折れるような音。さらに鬼が人を食べる時の、おそらく肉を噛み切り、骨を噛み砕く不快な咀嚼音。「いぃうぅ」と歓喜の声を上げながら、ずずず、と薄汚く何か液体を啜る音。それは僕が地面に落ちて、その時の衝撃によって起き上がれないたった数十秒の間に聞こえた。

 そして僕が何とか気合で立ち上がろうとした時には、既に向日葵さんの悲鳴は聞こえなかった。代わりに聞こえるのは、灰崎君の声だ。


「いぃうぅ」


「いぃうぅ」


「いぃうぅ」


 何度も繰り返す灰崎君の声の合間に、咀嚼音が聞こえる。最早何を食べているか知りたくもない。聞きたくも無かった。だが、それは音から簡単に想像できたからだ。骨を食べやすいように折り、まるでクッキーのように砕く音。血の生々しい啜る音と共に、もきゅもきゅとまるでゴムのような感触をする肉を必死に噛みちぎろうとする音。今はどこを食べているのか分からない。

 しかしながら確実に分かったことは、同じ人である僕には灰崎君は興味がなく、大切に大切に向日葵さんを食べる音だけだった。どれだけ灰崎君は向日葵さんを食べたのだろうか。その現実を見たくなくて、視線を灰崎君の方に向けることはしない。

 何故なら、最早既に声も出せないほど向日葵さんの原型は留めていないのだ。そんな状態でどうして彼女が生きていると言えるのだろうか。

 頭の中には、数分前までのはきはきとした向日葵さんの声が脳内に蘇り、唇から血が出るほど噛み締めた。両手にも力が入り、爪が手の平に食い込む。だが、鬼となった灰崎君に立ち向かっていこうという無謀さは生まれなかった。

 僕は――ただの人である。

 それが、鬼に勝てるはずが無いのだと悟ったのだから。

 それから僕は先程の鬼のダメージが残る体を何とか起き上がらせると、未だに咀嚼音の聞こえる灰崎君には目もくれず、彼が向日葵さんに注目している間に山の方向を目指した。片足を引きずるようにして、必死に足のスピードを高めて、生前に向日葵さんと約束していた目的地へと向かう。


「僕は――生き残りたい」


 小さな声で呟いて決意した。

 この先、何があろうと生きてこの世界から帰ると。それは向日葵さんと伊集院君の死を無駄にしない唯一の方法であると思い、また鬼に食われると言う根本的な恐怖が生存本能を呼び起こし、この場で最も優先する行動をもう一度再確認したのだ。

 だが、胸の傷は消えない。最後の向日葵さんの声は何度も頭のなかでリフレインする。それを掻き消すように全力で走る。


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