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10 凶星の告げるもの

── 大神殿・奥の小部屋 ──


薄暗い部屋に、古い香がわずかに残っていた。

壁には古き神代の図が掛けられ、窓のない空間は、外界の光さえ遮られている。


大神官長は卓上の燭台に火を移した。

小さな灯がひとつ、またひとつと点り、長い影が壁を這う。

その明かりを確かめてから、老人は静かに扉を閉めた。


「……ここなら、人目も耳も届きませぬ」


そう言うと、大神官長は近くの椅子を引き、王女たちに座るよう促した。

王女とミレイユが静かに腰を下ろすと、老人も向かいに腰かけ、掌を膝の上で重ねる。


わずかな沈黙が落ちた。

老人は深く息を吐き、静かに顔を上げる。

「殿下。あの日――叙勲祭の前夜、天に“凶星”が昇りました」


言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。

王女は瞬きをし、息を整えて問い返す。

「……凶星?」


老人は祈るように手を組み、慎重に言葉を紡ぐ。

「星読みの記録によれば、凶星は“秩序の均衡が揺らぐ前”にのみ姿を見せる、と」


「……秩序?」

意味を測りかねるまま、王女はその言葉を繰り返した。

内容よりも響きだけを追うような、かすかな問いかけ。


「はい。そして、星は東へ昇りました」


「東……」

その一語に、胸の奥がざわりと波立つ。


老いた声が続いた。

「――そう、かつて殿下の御故国があった方角にございます」


王女は息を呑んだ。

老人は、もはや退くまいとするように、重く口を開いた。


「古き書には、凶星が昇る方角に“災いの理”を示す、と記されております。

 つまり、この凶兆が告げているのは……殿下のお身に連なる禍、ということ」


重い沈黙が落ちた。

王女はゆっくりと目を伏せる。

(……私に、連なる禍)


暗殺者の影が胸によぎる。


大神官長は、なお言葉を重ねた。

「ゆえに私は、午後の式典へのご出席をお控え願えぬかと、殿下に申し上げました。せめて災いの理を和らげ、陛下やこの国へ及ぶ禍を遠ざけられぬかと……その一念にて」


老人の手は震えたままだった。

それは恐れではなく、後悔の色に見えた。


沈黙が一度、部屋の隅に落ちた。王女はゆっくりと息を吸い、声を整える。

「……この凶星について、陛下は何と……?」


大神官長は目を伏せ、長く息を吐いた。蝋燭の火が揺れ、その陰が老人の皺を深く刻む。

「……陛下は、星を信じられませぬ。天はただ巡るだけで、乱すのも整えるのも人の手だと、仰いました」


ダリオスらしい――。

王女は胸の前で指を組み、そっと問いを重ねた。

「……その凶星は、今はどうなっているのですか?」


大神官長はしばし口を閉ざし、揺れる灯を見つめた。

やがて、ためらうように言葉を落とす。

「……叙勲祭の後、空から姿を消しました」


王女の胸の奥が、かすかに締めつけられる。

(……やはり、あの出来事を指していたのだろうか)


暗殺者の刃、流れた血、凍りつくような喧噪。

すべてが“秩序の揺らぎ”という言葉に吸い込まれていく。


それでも王女は息を整え、問いを絞り出した。

「……凶星が消えたということは、これで災厄は終わり――ということでしょうか?」


もしもこれで全てが終わったのなら――

あの“影”がダリオスに迫ることはないかもしれない。

そんな淡い期待が、無意識のうちに声の端をかすめる。


けれど、大神官長は静かに首を振る。

「いいえ、殿下。星が沈んだのは、ただ“ひとつの兆しが果たされた”ということ。終わりではなく……むしろ“これから始まるもの”を告げる合図かもしれませぬ」


王女は息を呑み、老人の眼差しを見つめた。

「……始まり、ですか」


老人はわずかに目を伏せ、言葉を継いだ。

「星が示すのは、まだ形を持たぬ事象――芽吹く前の“種”でございます。

 その種はすでに空に蒔かれている。どのような形で芽吹くかは、人の心と行いに委ねられましょうが……芽吹くことそのものを止めることはできませぬ」


老人の声は、淡く滲む灯のように揺れた。


「ゆえに――我らにできるのは、“どう現れるか”を見極め、その現れが人を滅ぼすものとならぬよう備えること。星の示す理を否むのではなく、受け止めたうえで整えることです」


しばしの沈黙。

王女は、胸の奥に生まれる鈍い痛みを抱えながら、その言葉をひとつずつ飲み込んだ。


(避けられない……けれど、形は変えられる――)


蝋燭の炎がひときわ強く揺れ、その光の輪が、王女の瞳にかすかに映った。




 * * *




王女は重い扉を押して部屋を出た。

石造りの廊を抜ける空気はひんやりとしていて、外の光はすでに薄い。


後ろから、杖をつく音がそっと近づいた。

「神殿の外までお送りいたしましょう」


王女は振り返り、柔らかく微笑んだ。

「いいえ、ここで結構です。……お話を聞かせてくださって、ありがとうございました」


老神官は深く礼をした。

そこには、ただの礼儀ではない、どこか沈んだ祈りのようなものが宿っていた。


語るべきことはすべて語った――だが、その先を背負う者の肩が、あまりに細く見えて。

それでも口には出さず、老人は黙したまま王女の背を見送った。


王女は、長い回廊を歩き始める。ミレイユがすぐ後ろを無言で歩く。二人の足音が、石の床に乾いた調子で響く。

高窓の外では、冬の空が淡く色を変えつつあった。


──その先で。


淡い香をまとった影が、緩やかに回廊の角を曲がって現れた。


「まあ……王女殿下。こんなところでお会いできるなんて」


艶やかな声。

夜会で軽く挨拶を交わしたことのある女侯爵だった。そのときと変わらず、微笑みの奥に熱のようなものが潜んでいる。


王女は礼を取った。

「ご無沙汰しております、侯爵様」


「ご健勝そうで、何よりですわ」

女侯爵は瞳に柔らかな光を宿しながら、王女を見つめた。

「殿下がこうして大神殿にお越しくださるのを拝見して、嬉しゅうございます。……祈りを忘れぬ方がまだいてくださることが、何よりの救いですもの」


女侯爵は静かに声を落とす。

「近ごろの帝都は――信仰の火が、ずいぶんと弱っております。人々は豊かさに慣れ、神々を遠くに押しやってしまった。私はそれを、いつも胸痛く思うのです」


その声音には、熱を抑えた哀しみのような響きがあった。


「……それゆえでしょうか、凶星が現れたのは。神々が、信仰を薄めたこの帝国に警めを示しておられるのかもしれません」


王女は息を呑み、思わず問い返す。

「凶星のことを……ご存じなのですか?」


女侯爵はわずかに目を瞬かせ、やがて穏やかに微笑んだ。

「ええ、もちろん。信仰の深い者たちの間では、知られていることですわ。

 ――けれど、殿下がお気づきになったということは……やはり、神々が特別にお心を向けておられるのでしょうね」


王女は言葉を失い、その微笑を見つめたまま立ち尽くした。

女侯爵は柔らかく微笑みながら続ける。


「神々は慈悲深い。信仰が蘇れば、災いも鎮まるでしょう。……それが、人の祈りの力ですもの」


その瞳には、熱と慈愛が奇妙に交じり合っていた。

だがその奥には、どこか陶酔にも似た光が宿っている。


「それでも――もしも、祈りが届かぬほどの罪が積もってしまったときは……

 昔から、人々は“聖なる血”の犠牲によって禍を鎮めてきたと申します。神々はいつも、最も清らかな魂を通して、地の穢れを洗い清められる。それは、哀しくも尊い――祈りのかたちなのです」


その声音は静かで、微笑みは崇高さすら帯びていた。

しかし、言葉の底に潜む熱が、王女の背筋をかすかに冷やした。


王女は丁寧に礼を取る。

「……深いお話を、ありがとうございます。侯爵様のご信仰の深さには、いつも頭が下がります」


女侯爵は優雅に微笑んだ。

「恐れ入りますわ。どうか殿下も、これからも祈りをお絶やしにならぬように。そのお心が、この国を救う灯になると、私は信じております」


女侯爵は優雅に一礼し、「神々の祝福を」と囁いて去っていく。


女侯爵の纏う甘やかな香りが、ゆっくりと空気から薄れていく。

足音が消え、回廊に再び静寂が戻ったところで、王女はそっと隣りのミレイユに声をかけた。


「ミレイユも、凶星のことを……知っていた?」


ミレイユは一瞬だけまばたきをし、それから淡々と答えた。

「……そういった星が空に出たらしい、というくらいでしたら」


王女は小さく息を吐いた。

(……やはり、皆、知っていたのね)


遠くから向けられる、人々のひそやかな視線。

人々のあいだから聞こえる、「災いをもたらす姫」という囁き。

あれは――ただ、故国の暗殺者のせいだけではなかったのだ。この凶星の噂も重なっていたのだ。


世界は知っていたのに――また自分だけが、何も知らなかった。

自分に連なることなのに、誰も教えてはくれなかった。

語られた凶星の話よりも、知らされなかったという事実の方が、王女の胸に痛かった。


少しの沈黙ののち、王女は口を開いた。

「……ミレイユは、その……凶星の話をどう思う?」


「星読みのことは、私にはよくわかりません」

淡々とした声。


ミレイユなら、やはりそういう答えか……

そう思った王女の耳に、続く言葉が静かに落ちた。

「けれど、もしそれが“当たるもの”だとするなら――

 凶星の示す災いは、叙勲祭の日に、あの形で現れたのでしょう」


王女の胸の奥が、重く沈んだ。


ミレイユは表情を変えぬまま、淡々と続ける。

「そして、芽吹くことそのものを止めることはできない――という大神官長様のお言葉に従うなら、陛下が仮に姫様の列席を見送られたとしても、災いは別の形で起きていたのでしょう」


王女はその横顔を見つめた。

「……別の形で……」


「ええ。そして、その“仮に”の結果が、あの日よりも穏やかな災いだったかどうか――それは誰にもわかりません」


ミレイユは、回廊に落ちる冬の光を見つめながら続けた。


「叙勲祭の日のことは、確かに痛ましいことです。でも、全ての人にとっての災いも、全ての人にとっての幸いも、この世界には存在しません」


王女は息を止めた。

ミレイユは王女の方を見ようともせず、ただ前を向いたまま静かに言葉を重ねる。


「そのどちらも、人によって違います。

 ですから“凶星が当たっていたのかどうか”は、私には判断できません」


陽の光が回廊の石床を斜めに照らし、ふたりの影を細く伸ばしている。

その影の先で、まだ遠い鐘の音がかすかに響いた。


王女はゆっくりとまぶたを閉じ、その音を聞きながら――

ミレイユの言葉の、冷たく澄んだ響きを、胸の奥で反芻した。

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