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9 知るという祈り

── 帝城・王女の居室 ──


薄闇の中で灯が揺れていた。

机の上には、開きかけた羊皮紙と羽根筆。

けれど王女の手は、もう長く動いていなかった。


胸の奥で、ゆっくりと、沈むようにひとつの問いが浮かんでは沈んでいく。


──もしも、故国の影がダリオスに刃を向けたとしたら、その時、自分はどちらの側に立つのか。


考えるたびに、胸の奥で何かがざらつく。

どちらを選んでも、何かを裏切る──その確信だけが、静かに沈殿していく。


何度考えても、答えは出なかった。

出ないということ自体が、もう裏切りなのだと分かっていながら。


蝋燭の火が一度、かすかに揺らいだ。

その明滅がまるで、自分の迷いの呼吸のように思えた。


(……それならば、せめて)


そんなことの起こらぬようにするための選択が、

ほんの少しでもできはしないか──。


胸の奥で、アシェルの声が蘇る。

『私が帝都を訪れた理由のひとつは──

 もしも許されるなら、あなたを南洋王国に迎え入れるためでした』


南洋王国へ嫁ぐという選択。


アシェルという人物は、どこか掴みどころがない。

穏やかな微笑の下に、深い海の底のような冷たさを宿し、

人の心を撫でるように言葉を選びながら、肝心な内側は決して見せない──

そんな“危うい静けさ”をまとっていた。


けれど、その提案だけは妙に現実味を帯びていた。

もし自分が南洋王国へ正妃として嫁げば、帝国と故国の間に残る火種──故国の者たちの帝国に対する憎しみ──も、やがて静かに沈んでいくかもしれない。

自分がいなくなれば、故国の名を掲げて戦おうとする者も、帝国がその芽を刈ろうと刃を交える理由も、失われる。


それは確かに、“そんなことの起こらぬようにするため”の理にかなった道──自分の手で“未来を動かす”ための手段に見えた。


アシェルという男を信じきることはできない。

けれど、信じられない相手の差し出す手であっても、掴まねばならない時があるのかもしれない。


もちろん、ダリオスの許しがなければ叶わないが……。


それでも、王女は彼に伝えなければならないと思った。

この考えを胸の内に留めておけば、いつか必ず誰かによって自分の未来を“定められる”。

誰かの決定に従うのではなく、自分の意志として示したい──


今日の昼、執務室で旧都の視察の報告をした時。

王女はこの話を切り出そうとした。


だが、その瞬間、言葉が喉の奥で凍った。


(なぜ……怖いのだろう)


問えば、怒りを買うからか。

あるいは──「それならば」と、静かに手放されることが、怖いのか。


分からない。

口を開けなかった自分を、王女は小さく笑った。


王女はゆるく息を吐き、視線を窓の外へ向けた。凍りつく夜気の彼方に、答えのない影が揺れているように見えた。


(……私は、これまで“見ようとしなかった”だけなのだ)


確かに、ダリオスが語らないことは多い。

けれどそれを理由にして、自分は──本当は、知ろうとしなかった。


暗殺者の正体。

あの異様な気配、常人とは明らかに異なる動き。

ダリオスやセヴランに問いさえすれば何かを引き出せたかもしれないのに、それを一度も口にしようとしなかった。


そして、自分という存在がダリオスに災いを招きうること。

民を巻き込むということは、帝国に、その中心にいるダリオスに火の粉が及ぶということ。

そんなことは分かりきったことのはずなのに──

一度も、そこへ思考を伸ばさなかった。


教えてもらえないことを言い訳にして、見たくないものに蓋をした。

「知らなかった」のではない。「知らずにいたかった」だけ。


そうして、守られる形に甘えてきた。

その蓋の向こうで、どれほどの兆しが積み重なっていたのだろう。


胸の奥に、ふと、叙勲祭の回廊の記憶が滲み出した。


──『午後のご出席を、見送られることは……できませぬか』

蒼ざめた大神官長の顔。震える掌。


すぐに現れた皇帝の影。

──『なるほど。星の話を続けているらしいな』


そして──その午後の式で、惨劇は起きた。


あの日の光景を、これまでにも幾度となく思い返してきた。

けれど、そのたびに王女の心は、ダリオスの沈黙ばかりを追っていた。


(あの方は……何を、知っていたのだろう)


大神官長の立場を思えば、暗殺者の存在を知っていたとは考えにくい。


王女は、机の端に置かれた呼び鈴へ手を伸ばした。

小さな音が、夜気に溶けて響く。


(……確かめなければ)


知らずにいることは、もはや自分を救ってはくれない。

それどころか、また新たな災いを呼び寄せるかもしれない。


「お呼びでしょうか」

扉の向こうから、ミレイユが静かに現れる。

その無機質な黒瞳に、蝋燭の光が揺れた。


「……ミレイユ。明日、大神殿に行きたいの」

淡い炎の中で、その言葉だけが、確かな輪郭を持って響いた。





── 翌朝 執務室 ──


書簡の山の向こうで、扉が静かに開く。

入ってきたミレイユが、淡々と告げた。

「姫様が、大神殿にて祈りを捧げたいとのことです」


筆を走らせていたダリオスが、短く視線を上げる。

「……祈り?」

「叙勲祭で命を落とした民の冥福を、と」


少しの沈黙。

ダリオスは軽く息を吐き、再び書面に目を戻した。


「……構わん。行かせろ」

「承知しました」


ミレイユは頭を下げて、すぐに踵を返す。去り際にふと振り向き、淡い声でつけ加えた。

「姫様は、少し思い詰めておられるように見えました」


ダリオスは筆を止めずに答える。

「放っておけ。考えることも、務めのうちだ」

「かしこまりました」


扉が閉まる。

静かな紙の音が、また部屋を満たした。





── 大神殿 ──


高窓から落ちる光は冷たく、白い壁にほのかな金の反射をつくっていた。


王女は静かに手を合わせ、祭壇の前で長く祈りを捧げた。

この地の神の名を心に置くことにはまだ慣れない。

けれど──亡くなった帝都の民に対してなら、ここで祈るのが自然なのだと感じられた。


祈り終えると、王女はゆるやかに目を開ける。

背後で控えていたミレイユが一歩近づいた。

「お戻りになりますか」

王女は首を横に振った。

「……少し、歩きたいわ」


ミレイユは淡々と頷き、一定の距離を保ちながらついてくる。

大神殿の回廊には、僅かな足音しか響かない。

光を受けた聖具が沈黙の中で鈍く光り、どこか遠い世界にいるような静けさがあった。


回廊を抜け、陽の差す中庭に差しかかった時──王女の視界の先に、見覚えのある姿があった。

白衣をまとった老人。

その背中を見て、王女の胸の奥がきゅっと縮む。


一瞬ためらったが、ゆっくりと歩み寄った。

「……大神官長様」


名を呼ばれた老人が、驚いたように振り返る。

その顔が見る間に蒼白になり、杖を握る手が震えた。

「……殿下……」


王女は微笑もうと努めたが、大神官長は一歩退き、視線を宙に泳がせるばかりだった。

「叙勲祭の日のことを……伺いたいのです」


言った瞬間、老人の喉がかすかに鳴った。

唇が震え、ゆっくり首を振る。

「……申し上げられませぬ……」


王女は、老人が“語れない”のではなく、“語ることを恐れている”のだと悟った。

その恐れの先にあるのは、ひとりの名しか思い浮かばない。


肩越しにミレイユを振り返る。

侍女は一歩下がった位置で、変わらぬ表情のままこちらを見ていた。


──ミレイユが見聞きしたことは、すべてダリオスに報告される。

それを止めることはできない。


王女は小さく息を吸い、ミレイユに向き直った。

「……ミレイユ」

「はい、姫様」

「わたくしが今、大神官長様から伺いたいと思っているのは……この国で、生きていくために知らなければならないことだと、わたくしは思っています」


言葉を選びながら、ひとつひとつ確かめるように続ける。

「ですから──あなたが陛下に報告する時は、わたくしの意志で、それを“生きるために必要だと思ったから”お尋ねしたのだと……そのことを、必ずお伝えしてほしいの」


ミレイユは瞬きを一度だけし、すぐに頷いた。

「承りました。そのとおりに、お伝えいたします」


王女は、ほんのわずかに肩の力を抜き、再び大神官長へ向き直る。

「……ですから、どうか恐れないでください」

声を落とし、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「陛下は、わたくしを“生かす”ことを重んじておいでです。わたくしが生きるために必要なことを知ろうとして、そのために大神官長様のお力を借りたのだとお伝えすれば──むやみにお咎めを受けることは、きっとありません」


老人の肩が、わずかに震えた。

それでもまだ、視線は床に落ちたまま動かない。


王女は一歩近づき、深く頭を下げた。

「……どうしても、知りたいのです。あの日、なぜ、午後の式に出ないよう仰ったのか。同じようなことを、二度と起こさないために」


長い沈黙が落ちる。

大神殿の奥から聞こえる祈りのざわめきが、遠い波のように揺れた。


やがて──

大神官長は、観念したように大きく息を吐いた。


「……殿下」


掠れた声で名を呼び、ゆっくりと顔を上げる。

そこには、諦めとも覚悟ともつかぬ影が宿っていた。


「……こちらへ。人目につかぬ場所の方がよろしゅうございます」


そう言って、老人は脇の小さな扉を指し示した。

王女はミレイユと短く目を合わせ、静かに頷くと、その後に続いた。


扉の向こうに待つのは、知らぬままではいられない何か。

王女はその闇に、静かに足を踏み入れた。

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