8 象徴の行方
── 帝城・執務室 ──
灰の絨毯の上に、傾きかけた陽が淡く伸びていた。
窓の外では、まだ冬の冷気が石壁を包み、遠い空に薄い雲が漂っている。
南洋王国の第二王子が帰国してから、数日が経つ。
帝城は長らく張り詰めていた空気をようやくほどき、緊張の残響だけが静かに漂っていた。
書類を手にしたセヴランが、静かに報告を始めた。
「……南洋王国は、しばらく表立っては動かないでしょう。
宰相の書簡は明らかに沈静化を意図したものでした。国としては事態をこのまま収めたいはずです」
ダリオスは黙したまま、指先で机上の書簡を軽く叩く。
淡い音がひとつ響き、静かな空気が場を満たした。
セヴランは視線を戻し、言葉を継ぐ。
「ただ――第二王子は“内部を洗う”と称して、あの密使を自らの手で連れ帰った。
いずれは『調査の結果』と称する何らかの報せを、こちらへ寄越してくるでしょう。帝国への“誠意”という名目で貸しを作りつつ、自らに都合のよい筋書きを固めるために」
ダリオスは椅子の肘掛に指を軽く当て、冷ややかに息を吐いた。
「……ふん。さぞ都合のよい“真相”が出来上がるだろうな」
セヴランは短く頷いた。
「ええ。ゆえに、こちらも備えが要ります。
王子に影響された廷臣たちを洗い出し、帝国の体制に不満を抱く層を整理しています。
内外の資金の流れを再確認し――南洋との交易を装った裏の資金ルートも、監視を強化いたします」
「海路を通じる商は南州が主だ。……エルディナに任せるか」
ダリオスは机上の地図の端を指で押さえながら、南州総督の名を挙げた。
「そうですね。南州総督なら交渉と商才に長けています。王族相手にも臆せず、かといって敵を作らぬ。……適任かと」
セヴランはさらに言葉を重ねた。
「総督には、南洋王国との交易網を“自然な形で”揺らしてもらいましょう」
ダリオスは短く頷いた。
「悪くない」
そこで会話が途切れる。
灰の絨毯に、午後の光が淡く差していた。
静寂の中、紙を滑るペンの音がかすかに響く。
「……殿下の様子が、少しおかしかったですね」
書類を閉じながらセヴランが、控えめに口を開いた。
数刻前、この執務室で二人は王女から旧都の視察の報告を受けていた。
「何かこちらに尋ねたいことがあるようで……けれど、結局は言葉を飲み込まれた」
セヴランの脳裏に、そのときの王女の表情がよみがえる。
沈黙の奥に、何かを測るような光があった。
問いを恐れているのではなく、口にした瞬間に崩れてしまう“何か”を抱えているように見えた。
机上のペン先が、かすかに音を立てて止まる。
ダリオスは筆を置き、低く息を吐いた。
「暗殺者の正体を知ったからだろう」
セヴランの眉がわずかに動く。
「……まさか」
その反応を横目に、ダリオスは視線を窓へと向けた。
「おそらく、南洋の王子が夜会の席で明かした」
短い沈黙。
執務室を満たす冬の光が、ゆるやかに壁を滑り落ちていく。
やがてセヴランが、抑えた声で問う。
「……大丈夫なのですか」
「大丈夫だ」
ダリオスは即答した。
その声音には揺らぎがなく、だが短い呼吸の奥に、測るような静けさが沈んでいた。
「これくらいで沈むようなら、それまでの器だったということだ」
セヴランは口を閉ざし、わずかに目を伏せた。
その沈黙が長すぎるのを感じたのか、ダリオスが視線を向ける。
「……どうした」
セヴランは逡巡ののち、慎重に言葉を選んだ。
「実は――宮廷で、新しい噂が広がっております」
「噂?」
「はい。あの夜会で、陛下が王女殿下をアシェル殿下と二人きりで会話させた、と。それを見た貴族たちは、“陛下が王女を南洋王国の第二王子に下賜する心づもりなのでは”と囁いております」
ダリオスの眉がわずかに動く。
セヴランは続けた。
「これまで、陛下は夜会では常に王女殿下を傍らに置いておられた。それがあの日に限って、自ら距離を許されたのです。……彼らは、それを“兆し”と受け取ったのでしょう」
セヴランは言い終えて、わずかに息を整えた。
静かな間が落ち、冬の光がふたりの間を斜めに横切った。
「――それでお前も、俺が王女をあの王子に下賜するつもりがあるのでは、と?」
「……はい」
短い間の後、ダリオスは鼻で笑った。
「あるわけがないだろう。あれを他国にくれてやるなど、冗談にもならん」
セヴランは再び黙した。
その沈黙には、何か言い淀むような重さがあった。
「……歯切れが悪いな」
ダリオスの視線が鋭く向けられる。
セヴランはしばし黙したまま、窓の外に目を向けた。
西日が石壁を淡く染め、長く伸びた影が机上を横切っていく。
「……陛下」
低く落ちた声は、いつもより慎重だった。
「もし、仮に――の話です」
ダリオスが眉を上げる。
セヴランは続けた。
「王女殿下を“南洋に嫁がせる”というのは、必ずしも悪手ではないかもしれません」
室内の空気が、わずかに張り詰めた。
ダリオスの指先が机上で止まり、冷たい声が返る。
「……理由を聞こう」
「アシェル殿下に影響された貴族たちを洗い出す中で、思った以上に――陛下を支持してきた者たちの中にも、揺らぎが見られました」
セヴランは淡々と告げる。
「叙勲祭の件以来、王女殿下を“象徴として据え続けること”に不安を抱いている者が少なくありません。彼らにとって殿下の存在は、帝国の威信を高める象徴であると同時に、陛下を危うくする火種にも映っているのです」
「……象徴の重みに怯えるような者たちが、帝国を支えているとはな」
ダリオスは鼻先で笑った。だが、その瞳の奥にわずかな光が走る。
セヴランは短く息を吐き、静かに視線を伏せた。
「怯えは、必ずしも無用とは言い切れません。
反帝派が騒ぐのはいつものことですが、問題は――陛下を信奉してきた者たちの心まで揺らいでいる点です。このまま王女殿下を置き続ければ、貴族たちはいずれ“陛下が情を優先している”と解釈するでしょう。
……秩序を保つためには、殿下の存在をより厳しく管理する必要がある」
「管理、か」
ダリオスの口角がわずかに上がる。
「お前の言う“管理”は、どの程度の枷を意味する?」
「最低限、行動の制限と、公的な露出の抑制は避けられません」
セヴランは一拍の間を置き、静かに言葉を続けた。
「ですが……それが、あの方にとって幸せとは思えない」
窓辺の光がわずかに傾き、机上の影が静かに形を変える。
セヴランは顔を上げず、声をさらに落とした。
「――ゆえに、“南洋王国の第二王子に下賜する”という案は、理としては成り立つのです。帝国内の不安は静まり、他国への牽制にもなる。……そして、もしかすると、王女殿下ご自身にとっても、それが安寧となる可能性がある」
「……ほう」
ダリオスの声が低く響く。
「お前の口から“安寧”などという言葉を聞くとはな」
わずかに皮肉が混じるが、怒気はなかった。
むしろ、その目は静かにセヴランを観察している。
セヴランは視線を落としたまま、口を閉ざす。
やがて、短い沈黙ののちに言った。
「……もちろん、陛下がそれをお認めになるとは思っておりません」
「当然だ」
ダリオスは淡々と答えた。
「お前も気づいているはずだ。――あの男は“安全”ではない」
「はい。私もそう思います。ですが、危険の質が違う」
セヴランは顔を上げる。
「アシェル殿下の危うさは、国を直接乱す類のものではありません。あの男が崩すのは秩序ではなく、人の心です。
ゆえに、王女殿下個人が不幸になる可能性はあっても――帝国そのものにとっては、致命にはならない。我らが体制を保ち、舵を誤らなければ、国としては揺るがぬでしょう」
「だから、あの男に預ける方がましだと?」
ダリオスの声にわずかな棘が走る。
「……“まし”とは申しません。
ただ――この国に留めておくよりは、誰にとっても穏やかな結末になるかもしれないと。陛下に刃を向ける者を減らすためには、そうした形も、ひとつの手段かと」
しばしの沈黙。
窓の外で風が鳴り、書簡の端がめくれる。
やがてダリオスは、椅子の背にもたれたまま、ゆるやかに口を開いた。
「……お前らしくないな、セヴラン」
「は?」
「情で策を立てるとは思わなかった。“穏やかな結末”などという言葉は、お前の口には似合わん」
その声は、冷ややかでありながら、どこか探るような響きを帯びていた。
セヴランは一瞬、息を詰める。
そして、かすかに笑って肩を落とした。
「……かもしれません。ですが、“穏やかさ”もまた、秩序の一形です。戦よりも、静かな崩壊のほうが厄介なこともある」
「静かな崩壊、か」
ダリオスはわずかに目を細め、机上の地図に視線を落とした。
「ならば――いっそ俺の手で盛大に壊してしまおうか。……どうせ建て直すのも俺だ」
セヴランはわずかに息を呑み、そして苦く笑った。
「……陛下らしいお言葉です」
ダリオスは軽く肩をすくめる。
「壊れるものを惜しむより、いっそ組み直してしまう方が早い。
形が崩れようと、意が残るなら、何度でも組み直せる」
その声音には冗談めいた響きがあったが、瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
セヴランはわずかに姿勢を正し、その光を真正面から受け止めた。
窓の外では雲が流れ、冬の陽がゆるやかに広がっていく。
淡い光が二人の影を並べ、長い静寂だけが部屋に満ちていた。




