7 影の種
── 帝城・大広間 ──
杯を傾けながら、ダリオスは広間の一角を見やった。
音楽の波の向こう、王女とアシェルが並んで立っている。深い会話に沈むようなその横顔に、王女はわずかに影を宿していた。
その表情の揺れ方は、何か深いところを突かれた時のもの。
そして、それが誰に関わる話なのか、察するのは難しくなかった。
おそらく、あの王子が暗殺者カイムの正体を明かしたのだろう。
その推察に、ダリオスの眉はわずかに動いただけだった。
想定の範囲内。
むしろ、アシェルがその切り口を選ぶのは自然ですらある。
千年王家に連なる影。
彼女の故国が抱えていた闇。
王女がそれを知らぬままに済むはずがない。いずれどこかで向き合う必要のある痛みだった。
(……その役をあの男が担うなら、手間が省ける)
杯の縁をゆるく指で叩きながら、彼は静かな余裕で思う。
叙勲祭で自らが犯した“判断の誤り”──
王女に影の存在を隠し、それがあの惨劇を生んだこと。
あれを境に、ダリオスの中で王女の扱いはひそかに方向を変えた。
危険を覆い隠して守ろうとするのではなく、
あえて見せ、そこを踏ませ、そのうえで鍛える。
その方が彼女も帝国も、より確かな形に近づくのではないか──
そう思い始めていた。
王女自身も、あの夜に言ったのだ。
──自分の背負うべき罪に向き合う、と。
その覚悟が本物かどうか。
どこまで歩き、どこで痛みに沈み、それでも立ち上がれるのか。
今のダリオスは、それを見極めようとしている。
そしてもうひとつ。
アシェルが王女を介し、どこを揺さぶり、帝国に何を仕掛けようとしているのか。
それを測るには──あえて王女に触れさせる方が確実だ。
(揺らせるものなら揺らしてみろ。王女がどこへ傾き、帝国がどれだけ揺れようと──最後に収めるのは俺だ)
大広間の灯りに照らされながら、ダリオスは王女の背を静かに見つめた。
弱く見えて、折れない女。
無知で、無防備で、それでも怯まずに世界へ手を伸ばす女。
暗殺者の真実程度で壊れるような器ではない。その底力を、彼は誰よりも知っている。
杯を口元へ運びながら、ほんのわずかに目を細めた。
王女の肩越しに、アシェルの笑みがちらりと映った。
挑む者と、試される者。
揺らす者と、揺らされる者。
だが──どれほど揺らされようとも、あの女の内にある火は自分が消させない。
その静かな決意が、ダリオスの瞳の奥に淡く宿っていた。
* * *
王女の胸の奥は、静かな水面に無数の石を落とされたようにざわついていた。
千年王家の影。
王家の名を汚す芽を摘むために、どこまでも手を伸ばす存在。
(……本当に、そんな者が……?)
アシェルはそれを“当たり前の歴史”として語った。
だが王女の知る父王は、厳格で冷徹ではあったが、決して人の命を軽んじる人物ではなかった。
(そんな……暗い者たちを……操っていた? 父上が……?)
否定の言葉が胸の奥で浮かんでは、形を保てず沈む。
けれど──叙勲祭で見た“影”の動きが、それを否応なく裏づける。
故国の滅びた今なお、その影が動いている理由はわからないが──。
王女の喉がかすかに震えた。
(もし……父上が、本当にあんな者を使っていたのだとしたら──)
その思いがかたちを結ぶ前に、アシェルの声がふっと空気をかすめた。
彼は王女の沈黙を見つめ、そのまま、風を撫でるような柔らかさで口を開く。
「……あなたが知らなくても。たとえ王家が滅びても──」
その声音とともに、アシェルはわずかに微笑んだ。
だが、その奥にはどこか他人事の静けさがあった。熱を伴わない笑み。
そっと王女の耳へささやく。
「世界は、あなたの王家の物語を覚えていますよ?」
王女は、すぐには息を吸えなかった。
(……覚えている?)
その言葉が、優しさとして届いたのか、
それとも刃のように触れたのか──王女には分からない。
ただ。
自分の足元にあったはずのものが、静かに、形を失っていく感覚だけがあった。
父王が語らなかった歴史。
自分が知らされなかったまま失われた千年の積層。
王家の娘であったはずの自分は──王家そのものを、知らなかったのではないか。
やがて、胸の奥がじわりと冷えていく。
アシェルは知っている。そして、おそらく──ダリオスも知っている。
世界は知っているのに。
当の自分だけが、何も知らない。
自分の故国は、なぜ滅びたのか。
あの王国に何が起き、何を背負い、何を抱えてきたのか。
王家が残した闇と、あの滅びの理由は……もしかすると、どこかで繋がっているのかもしれない。
思い至った瞬間、胸の底が冷たく震えた。
王女にとって、知ることはこれまで世界を広げる行為だった。
けれど、その先にあるのは──足元が崩れ落ちる音かもしれない。
知ってしまえばもう、何も知らなかった頃には戻れない。
光を求めた手が、初めて震えた。
気づけば、王女の視線は無意識に背後を探していた。
心の奥で、誰かの確かさを求めるように。
人々のざわめきの向こう、金と影の灯が揺れる一角に、ダリオスの姿が見えた。
彼は何も言わず、ただじっと王女を見ていた。
その視線には、咎めも憐れみもない。
あるのは、見届ける者の静かな眼差し。
王女は、ふと息を呑んだ。
自分が“知ること”を、あの男は最初から否定していないのだと、遅れて気づく。
そして、いつか聞いた言葉が胸によみがえった。
──『知ることを恐れるなら、何も選べぬ。知らぬままに立つ象徴など、いずれ風に崩れるだけだ』
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
音楽も声も遠のき、灯のゆらめきだけが視界に残った。
まるで、世界のすべてが一瞬だけ息を潜めたようだった。
深く息を吸い込む。
怖れと痛みの隙間に、かすかな決意の灯が生まれていく。
王女は再び前を向き、アシェルの言葉を受け止めるように、まっすぐにその瞳を見返した。
アシェルは王女の様子に、微かに瞳を細めた。
そして──まるで宝石を見つけた者のように、静かに、うっとりと笑んだ。
(……なんて、壊しがいのある女だろう)
その歓喜は、表に出ない。
ただ、柔らかな笑みの奥底で、密やかにきらめいていた。
その危うい熱に気づかぬ王女は、静かな声で口を開いた。
「……影のことを、教えて……もらえないかしら」
その言葉は、求めてはいけないものに手を伸ばすような、かすかな震えを帯びていた。
アシェルはほんの一瞬だけ目を見開き──すぐに、残念そうに柔らかく首を振った。
「この場で詳しく話すのは難しい。それに、私はもう帰国の身。こうしてあなたと話せる時間も……残念ながら、あまりありません」
その声音は惜しむようでいて、どこか甘やかだった。
王女の胸の奥で、何かがそっと沈んだ。
勇気を出して踏み出したその一歩が、そっと受け流されていく感触に、胸の奥がかすかに冷えていく。
アシェルは、ふっと微笑んだ。
「けれど……やはり、あなたは強い人ですね、殿下」
その声音に、王女の胸が揺れる。
「どれほど痛みや闇があろうと、あなたはそれを見ようとする。その勇気がある。
だからこそ──ダリオス殿はあなたを“生かす”と決められたのでしょう」
褒めるような、敬意を示すような声音。けれど、胸の底に、言葉とは別の何かが触れた気がした。
王女は思わず瞬きをする。
唐突に話の調子が変わった気がして、思考がわずかに追いつかない。
胸の奥で、戸惑いとわずかな警戒が交わり、視線が揺れた。
光がわずかに揺れ、空気が一瞬、凪いだ。
アシェルは王女の反応を、愛でるように受け止める。
微笑みを深め、まるで優雅な賛辞を贈るように言葉を重ねていく。
「あなたが背負うものは、あなた一人で抱えるには重すぎる。あなたを“生かす”と決められたということは、ダリオス殿は、それを共に背負う覚悟をされたということ」
「……共に……背負う……?」
「ええ。あなたの血に連なる闇も、滅びの理由も、あなたが知ってしまえば抱えることになる痛みも──彼は引き受けようとしている」
言葉を区切り、アシェルは軽く息を吐いた。
その瞳に淡い光が宿る。
まるで舞台の幕が落ちる瞬間のように、空気がひとしずく静まる。
そして、低く艶のある声で囁く。
「……それは称賛すべきことですよ、殿下」
王女は、かすかに首を振った。
「……そんなはずは、ありません。陛下にとって、私は……ただの駒です。
利用価値があるから帝国に留められているだけで──もし価値がなくなれば、きっと容易く手放されるでしょう」
アシェルは一瞬、意外そうに眉を上げ、すぐに柔らかく笑った。
「……本当に、そうお思いですか?」
王女の唇が、かすかに動いて止まった。
その沈黙を楽しむように、アシェルはゆるやかに杯を傾ける。
「実を言えば、私が帝都を訪れた理由のひとつは──
もしも許されるなら、あなたを南洋王国に迎え入れるためでした」
「……え?」
「あなたの故国が滅ぶ前に、私たちのあいだには縁談の話があったのですよ。まだ正式なものではありませんでしたが、王家同士の間で話が上がっていた」
王女は言葉を失った。
アシェルは視線を杯の底に落とし、静かに続ける。
「この帝国にとって、あなたは“千年王家の最後の血統”としての価値がある。
けれど──先日の叙勲祭での出来事を受けて、その価値が揺らぎ始めているのです。あなたを“象徴”として掲げ続けるべきか、それとも、いっそ他国へ出すべきか。帝国の臣下のあいだでも、意見が割れていると聞きます」
その言葉が落ちた瞬間、王女の肩がわずかに強ばった。
アシェルは王女の沈黙を読み取るように、わずかに笑った。
「だから私は──そうした状況も踏まえて、もし許されるならば、あなたを貰い受けたいと思ったのです。
南洋王国の王子の正妃としてあなたを迎えるなら、あなたの故国の民たちもきっと喜び、あなたが“裏切り者”と呼ばれることもないだろう、と」
「……あなたが……私を……?」
王女の声は震えていた。
「ええ。実際、私がそう申し出た時、帝国の貴族の中には悪くないと考える者もいました。あなたを手放すことで、我が国に貸しを作れるし、帝国も“象徴としての役割”を終わらせられると。ですが──」
アシェルは小さく息を吐き、ほんのわずかに、感嘆のような笑みを浮かべた。
「ダリオス殿は、決して首を縦には振られなかった。あなたを手放そうとなさらなかったのです。そのことに眉根を寄せる臣下の方もおられましたが……。
だから、私は帰国を決めました。……彼が、それほどの覚悟をもってあなたを引き受けようとしているのだと理解したから」
その言葉の余韻が、ゆるやかに場の空気を静めた。
世界の音が一瞬遠のく。
王女は息を詰めた。そんな馬鹿な、と思う。
けれど──同時に、アシェルの言葉が真実であることを、どこかで確信してもいた。
──『俺はお前を生かすと決めている』
その言葉の意味を。
その重みを。
自分はもう、とっくに気づいている──。
思考が、ゆるやかに沈んでいく。
王女にとって、ダリオスという存在は、何があろうと揺らがぬ“絶対”だった。
自分の存在が帝国にもたらす災い──
それはずっと、“帝国の民を巻き込みうる危険”として理解していた。
民を巻き込むなら、当然、その中心に立つ皇帝もまた火の粉を浴びるのは自明のはずなのに、王女は一度たりとも、彼自身が傷つく未来を思い描いたことがなかった。
──けれど、旧都で。
ルガードや民たちの口から語られた“人としてのダリオス”の姿。
完璧でも万能でもない、一人の男としての顔。
その断片が、王女の胸のどこかに微かなざらつきを残していた。
そして今、アシェルの言葉が胸に沈むにつれ、その“絶対”に確かにひびが入る。
「けれど……」
アシェルが、杯を軽く傾けながら、何気ない調子で続けた。
「“影”というものは、主を失っても長く彷徨うものです。誰かが止めなければ、やがてその刃は、新たな光を求めて動き出す」
淡々とした声音。けれど、その終わり際に、ほんの微かな愉悦が混じった気がした。
まるで……“次の光”が誰なのかを、すでに知っているかのように。
空気がひやりと冷えた。
王女の肌が粟立ち、胸の奥で心臓が小さく跳ねる。
ほんの一瞬、あり得ぬ光景が閃いた。
──血に染まる玉座。
──崩れ落ちる黒衣の影。
帝国という器の揺らぎだけでなく、もっと近く、もっと直接的な災い──
「……あぁ、でもね──」
凍りつく王女の耳に、柔らかな声が滑り込む。
悲しみとも、愉悦ともつかぬ、曖昧な揺らめき。
「もしも、あなたの背負う闇が、ダリオス殿を呑み込むほど強いものだったとしても……」
その声音は、ほとんど囁きに近い。
「あなたの故国の民にとっては──それは、喜ばしいことかもしれませんよね?」
ぞくりとするような視線が、まっすぐ王女を射抜く。
脈が、ひときわ強く打った。
影の刃が、ダリオスを穿つ未来。
──その時、自分はどこに立つのか。
アシェルが落とした言葉は、静かに、しかし鋭く、王女の心へ染み込んでいった。
その王女を、アシェルは微笑みを崩さずに見つめていた。
瞳に宿るのは、慈しみとも狂気ともつかぬ光──壊れる瞬間を待ち望む者だけが持つ、甘やかな陶酔だった。




