6 闇の名を囁く月
── 翌夜 帝城・大広間 ──
灯りの数を増した大広間は、金と白の光に満ちていた。
ほんの一か月足らずの滞在にもかかわらず、帝国貴族たちのあいだではアシェルの名が自然と飛び交い、その周囲には絶えず人の輪ができていた。
南洋王国の第二王子。
遠来の賓客でありながら気取らず、しかし品位を損なわぬ物腰。
軽やかな会話が帝都の硬い空気に新しい風を通し、笑いを含んだ声が起こるたび、近くの貴婦人たちがほほ笑んだ。
やがてアシェルは杯を置き、ゆるやかに人垣を抜けて歩き出した。
視線の先──大広間の中央で列席者を見渡すダリオスと、その隣りに立つ王女。
彼は歩みを止めることなく、まっすぐに二人へ向かう。
周囲が潮のように道を開いた。
「陛下、そして王女殿下。短い滞在ではありましたが、数々のご厚情に深く感謝いたします」
恭しい一礼。
ダリオスは顎をわずかに傾け、余裕の笑みを浮かべて受けた。
「道中の面倒がないよう、整えておいた。……無事に戻られよ」
隣りの王女も儀礼の所作で頭を下げる。
「このたびは、ようこそお越しくださいました。どうか、ご無事の旅路を」
言って、顔を上げた瞬間──
揺れる燭光がアシェルの瞳を照らし、その色が淡く変わった。
(……琥珀?)
王女は息を呑む。
先日の謁見では確かに、海のような碧だったはず。光の加減にしては、変化が大きすぎた。
戸惑う王女に気づいたように、アシェルは「ああ」と微笑む。
「不思議に映りましたか? 光や見るものの角度で、こうなるのです。……祖の血のせいだと、幼い頃から言われてきました」
「祖……?」
問い返した王女に、アシェルはわずかに声を落とした。
「南洋王国の始まりは──かつて、現在の南州一帯に勢力を持っていた王家の末子の王子と、千年王家の姫君。その二人の間に生まれた子が、最初の王だと──王家の内でのみ、密かに語り継がれています」
一拍、間を置く。
「王子は、碧の瞳。姫君は──王女殿下と同じ、琥珀の瞳だったと」
王女は目を見開いた。
ダリオスもわずかに眉を寄せる。
「南洋王国と南州が祖を同じくするという話は、聞いたことがある。だが……千年王家の姫君の話は、聞いた覚えがないな」
アシェルは肩をすくめ、唇に淡い笑みを浮かべた。
「当然です。これは南洋王家の者にだけ伝えられてきた話ですから。……その姫君は、王が奴隷に産ませた庶子だったそうで。ある夜、王子とともに宮を抜け出し──誰にも告げぬまま、姿を消した」
その声には、語り手のような静けさがあった。
「正式な系譜に乗らぬゆえ、千年王国の側も姫を探しはせず、“最初からいなかった者”として扱ったのだと」
燭火が揺れ、三人の影が大理石の床に長く伸びた。
王女は言葉を失う。
アシェルの瞳は再び碧に戻りつつあったが、琥珀色の名残が奥底に沈んでいた。
まるで帝国と故国、二つの色がひとつの眼の中で溶け合っているように見えた。
アシェルは穏やかな笑みを保ったまま言う。
「……ですから、殿下。私にとって千年王家の物語は、少しだけ他人事ではないのです」
そこで言葉を切ると、杯を軽く掲げ、礼を尽くした姿勢へ戻る。
「陛下、殿下。南洋王国は、これからも帝国と良き友であらんことを願っております」
音楽が流れを変え、香の煙が大広間を薄く漂う。
アシェルが去った方へ貴族たちが再び集まり、彼の周囲には再び軽やかな笑いと声が戻っていった。
王女はその光景を見つめながら、胸の奥で静かに息を整えた。
(……形式の中であれば、咎められずに動けるはず)
あの女の声が脳裏をかすめる。
──『籠の中で、与えられた餌だけをついばんでる鳥じゃん』
挑発めいた響き。
けれど、それが悔しいほどに、正しかった。
──『籠の中の鳥のままでいたくないなら、自分で頑張って“外の風”に手を伸ばしてみなよ』
胸の奥で、かすかな火が灯る。
誰かに与えられるのを待つのではなく、自分の意志で掴みに行く──
その小さな反発が、静かな決意へと変わっていった。
そっと隣りに立つダリオスを仰ぐ。
「陛下」
澄んだ声が、音楽の合間に落ちた。
「この夜会の席にて、私からも来賓の皆さまへご挨拶を申し上げに回ってもよろしいでしょうか」
ダリオスの視線がゆるやかに向けられる。
その黒い瞳の奥で、ほんの一瞬、何かを測るように光が揺れた。
「……好きにしろ」
低く、乾いた声だった。
拒まない。ただ、送り出す。
王女はわずかに息を詰めたまま、その言葉を胸の奥で確かめる。
静かに頭を垂れ、裾を整える。
──許された。
その思いが、ほのかな安堵とともに胸の奥に広がる。
王女はゆるやかに人々の間を渡り、一人ひとりに丁寧に言葉をかけながら、円を描くように大広間を進んでいく。
進むたび、衣の裾が金の灯をすくう。
儀礼としては正しい動線。
誰からも咎められず、何も怪しまれない。
けれど、その歩みの奥底には──
ただひとつの場所へ向かう意志が静かに灯っていた。
杯と笑声が渦を巻くその先、南洋の王子がいる方角へと、王女の影は確かに近づいていく。
人垣がわずかに割れ、アシェルが柔らかく目を細めた。
「……殿下?」
アシェルは周囲に会釈をし、自然な動きで二人きりの会話ができる距離をつくる。
「こちらへ来てくださったのですね」
穏やかな声音。
王女は頷き、礼を返した。
刹那、背後の空気がわずかに揺れる。
ダリオスが杯を傾けながら、ほんの一瞬だけ視線を送っていた。
王女は気づかない。
けれど──アシェルのまなざしは、それを確かに捉えていた。
彼は微かに笑みを保ったまま、視線を返す。
火花と呼ぶには静かすぎる──ただ互いの出方を測るための、短い交錯。
アシェルは、ふっと唇を緩め、
「──陛下は、あなたのことをとても大切にされていますね」
囁くように、王女の耳元に言葉を落とした。
「……え?」
アシェルは微笑を崩さず続けた。
「表情には出されませんが……あの方の目に、ほんの少しだけ“揺らぎ”が見えます。あなたを送り出しておきながら」
王女は戸惑いにまばたきを落とす。
──あの男が揺らぐなど、ありえない。
自分を送り出す時、ダリオスはそんな気配を見せなかった。
あの男はいつも、自分をどう扱うかで揺らぎなどしない。
王女がアシェルと言葉を交わす、その少し離れた位置で──
ダリオスは杯を傾け、赤い液面の揺らぎを見つめながら、低く呟いた。
「……外の風、か」
嘲りとも微笑ともつかぬ、唇のわずかな動き。
それは、氷の底に灯る火のような、かすかな熱を孕んでいた。
(──揺らせるものなら、揺らしてみろ)
視線の先で、南洋の王子が穏やかに笑っている。
その笑みの裏に潜むものを測りながら、ダリオスの口端に淡い影が走った。
アシェルは王女の肩越しに、杯を傾ける皇帝へと視線を滑らせた。
黒い瞳は無関心を装うでもなく、監視の色を見せるでもない。
ただ、己の立場を微塵も疑わぬ者だけが持つ圧倒的な静けさがそこにあった。声なき支配者の自信が、空気の奥底に滲む。
アシェルは、その沈黙の中に潜む力を見透かすように目を細め、次の瞬間、わずかに唇を弧にした。
「……でも、大切にするがゆえに、彼はあなたに教えていないこともたくさんあるのでしょうね」
視線を王女へ戻し、低く囁く。
「……大切にするが、ゆえ……?」
アシェルの言葉に、王女は戸惑いを深くする。
自分が色々なことを知らされていないのは、
“亡国の姫だから”
“知らない方が帝国に都合がいいから”
ではないのか。
アシェルは静かに言葉を重ねる。
「ええ。あなたを危険から遠ざけるため……というよりは、“あなたが世界をどう見るか”を、陛下が慎重に選んでおられる……そんな印象を受けます」
その口元に、かすかな笑みが浮かぶ。それは慰めのようにも、観察者の余裕のようにも見えた。
光の角度で瞳の色が変わり、碧の底に琥珀の熱が揺らぐ。
その瞬間、王女の胸の奥に、微かなざらつきが走った。
この男は、ただ言葉を並べているのではない──こちらの心の奥を探り、揺らそうとしている。
どこか危うい。
けれど、目を逸らせば大切な何かを見失うような気がして、王女は知らず知らずのうちに、その瞳を追っていた。
アシェルの瞳が、わずかに細められる。
そして、声が一段、低く、柔らかく沈んだ。
「あなたに世界の闇を見せないように……あなたにとって世界が“優しい”ものであるように──と」
王女の胸に、鋭い反論が突き上がる。
(そんな馬鹿な……)
ダリオスの手に落ちたあの日から、彼女の世界は決して優しいものなどではなかった。
言葉にならない思いが胸の内で渦を巻き、呼吸が浅くなる。
アシェルは首をわずかに傾け、唇の端をやわらかく歪めた。
まるで、王女の反発すら予期していたかのように。
「──あなたは強い人なのにね、殿下」
「……強い?」
言葉の意味が、王女にはすぐには掴めなかった。
胸の内に渦を巻いていた反論が、不意にその一言で押しとどめられ、形を失う。
「ええ。あなたがどれほど理不尽に晒されても、折れずに立っているのを、私は知っている」
アシェルはゆっくり息を吐き、言葉を沈めた。
その微笑は穏やかで──だが、どこかで他者を試す者の色を帯びていた。
「だからこそ……この世界の闇を知らないまま傷つくより、知った上で立ち向かう方が、あなたには、きっと似合う」
王女は一歩退きそうになる足を踏みとどめた。
胸の奥がざわめく。
目の前の青年は──
まるで、王女の中に眠る“望み”を知っているかのようだった。
未来を自分で選びたいという願い。
そのために“知ること”を渇望している心の奥の影。
誰の掌の内でもなく、自分の意思で立ちたいという想い。
アシェルは、それを見抜いているのか。
あるいは、最初から知っていたのではないか──
そんな錯覚すら覚える。
王女の胸の鼓動が、ほんの一拍、早まった。
しかし彼は、王女の揺れに触れた素振りも見せず、杯の中の液面をひとつ揺らすと、まるで何事もなかったかのように口を開いた。
「……さて。先ほどの祖の話ですが。気になって、こちらへ来てくださったのでしょう?」
一瞬、時間がずれる。
王女の思考が追いつくより早く、会話の流れだけが軽やかに先へ進む。
「え、あ……」
狼狽える王女に、アシェルは微笑む。
「初めて聞く話だったのでしょう?」
王女は息を整え、小さく頷いた。
「……えぇ。まったく。そんな伝承があるなんて……」
アシェルは杯の縁を指でなぞりながら、穏やかに言葉を落とす。
「それも当然です。あれは──千年王家には、絶対に知られてはならない話でしたから」
王女の眉がかすかに寄る。
アシェルは、少し声を低くして続けた。
「だからこそ、南洋王家の者だけに密やかに伝えられてきたのです。……ですが、千年王家は滅びた。今だからこそ、こうしてあなたに話すことができるのですよ」
“滅びた今だから”。
その言葉が落ちた瞬間、王女の胸の奥がひやりと強張った。
アシェルの目が、かすかに彼女の反応を掠める。
けれど、何事もなかったように微笑を整え、そのまま話を続けた。
「もしこの伝えが千年王家に漏れていたなら……」
ふっと笑みが陰る。
「きっと、王家の“影”によって、我が王国は容易く断たれていたでしょうね」
「影……?」
王女が首を傾げると、アシェルは意味深に微笑む。
「ご存知ない? 千年王家には昔から、“そういう者たち”がいたのですよ。王家の名を汚す芽を摘むためなら、どこまでも届く暗い手を持つ──影の者たちが」
その言葉に、王女の胸の奥で何かがひやりと動いた。
(……“王家の名を汚す芽”……)
アシェルの声が静まる。
楽の音が遠のき、杯の触れ合う音だけが薄く響いた。
王女はわずかに息を止め、言葉の輪郭を追うように思考を凝らす。
そのとき──
叙勲祭の刃と声が脳裏に蘇った。
──『裏切り者』
尋常の者と異なる身のこなしの男。
(……まさか……)
言葉にはしないまま、その像が重なってゆく。
アシェルは、王女がそれを思い出したことすら読んでいるように──
柔らかく、言葉を重ねた。
「殿下。あなたの国は……そういう力を持っていたのです。そして、王家が途絶えてなお……“影”だけは最後まで消えなかった」
王女の喉の奥が小さく鳴った。
言葉は静かに落ちていくのに、胸の奥だけが深い水に沈んでいくように重くなっていく。
アシェルは、その沈みゆく輪郭を見透かしながらも、あえて触れず、ただ静かに微笑んだ。
まるで──王女自身の手でその“闇”を結ばせるために。




