5 風の誘い
── 帝城・客人用居室 ──
薄明かりの中、南国から運ばれた香がゆるやかに満ちていた。
帝都の石造りとは不釣り合いなほど、空気には甘く乾いた熱が漂う。
寝台の上では、薄布がゆるく乱れ、一組の男女が互いの体温を重ねながら横たわっていた。
褐色の肩が布の隙間からのぞき、金の光を宿した瞳が楽しげに細められる。
赤銅色の長い髪は、寝台の上でほどけて乱れ、ひと筋がアシェルの胸元に落ちていた。
「……アシェル様、楽しそうな顔してるじゃん」
湿った夜気のように、柔らかな声。
甘えるでも、探るでもなく――ただ、男の心の温度を確かめるような響き。
女は身を起こし、アシェルの胸の上に片肘を預ける。
アシェルは枕に頭を沈めたまま、指で彼女の髪をひと房つまみ、弄ぶように揺らした。
「……面白いだろう?」
低く、歌うような声が落ちる。
「壊れたと聞いていたのに――壊れていなかった」
女は唇の端を上げた。
「ふぅん。じゃあ、連れ帰る予定だった“壊れもの”は、どうするわけ?」
「予定どおりだよ」
アシェルは笑った。真昼の熱砂がきらめくような、乾いた笑み。
「僕の手で壊して――連れ帰るまでさ」
言葉はやさしい。
なのに、壊すという響きだけが妙に甘く残る。
女は、くすりと笑う。
「やっぱり、そうなるんだ」
アシェルの胸には、女がつけた小さな噛み跡がいくつも残っている。
女はそのひとつに指先をなぞり、ゆっくりと顔を寄せた。
「アシェル様なら、きっと綺麗に壊すんだろうね」
アシェルは喉の奥でふっと笑う。
「お前は壊れなくてつまらん」
「壊せないものが、少しくらいないと退屈でしょ?」
女の声が、夜の闇に溶けていく。
アシェルは彼女の髪を指で束ねながら、
その瞳の奥で――帝国の心臓に灯った光を思い返していた。
(あの“象徴”は、まだ壊れる)
確信というより、愉悦に近い響きで。
薄い笑みが寝台に落ち、南国の香りを漂わせながら、夜は深く沈んでいった。
── 三日後 王女の居室 ──
静かな部屋に、旅路の名残のような疲れがまだ薄く漂っていた。
王女は、窓際の椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で重ねる。
結局――
なぜ自分が、こんなにも急いで旧都から戻されたのか。
先日の謁見は、何を意味していたのか。
誰も、何も説明してくれない。
あの日、王女はダリオスにもセヴランにも面会を求めた。
だが「今は多忙だ」とやわらかく断られ、
ミレイユに尋ねても、ただ静かに首を横に振られただけだった。
あの南洋王国の第二王子――アシェル=セ・イェルが関わっているのだろう、ということだけは朧げに察していた。
王女は視線を落とし、遠い記憶をたぐる。
故国での社交界デビューの日。
緊張で指が冷たくなっていた、あの華やかな夜。
大勢の視線に押されるようにして立っていた王女の周囲で、ひときわ人々の気を惹いていた南洋の王子。
何を話したのか――正直、よく覚えていない。
けれど、あの蠱惑的な笑みと、周囲の人々の吸い寄せられるような眼差しだけは、今も印象に残っていた。
(……なぜ、あの方が帝都に)
記憶の中で、ただ一度、礼を交わしただけの人。
なぜ彼が自分の“安否”を案じ、わざわざこの帝都にまで来ているのか――。
第二王子を送るための夜会は明日の夜。
城内はその準備のために慌ただしく、人々が行き交っている。
ミレイユも準備に呼ばれ、この部屋には王女ひとり。
静寂ばかりが胸に積もり、どこか落ち着かない。
王女はゆっくりと立ち上がった。
「……少し、外の空気を」
気晴らしのように呟き、薄手のショールを羽織ると、部屋を出た。
── 回廊 ──
白い石造りの回廊は、昼の光を受けて淡く輝いている。
王女が歩みを進めたその先で、ふいに異国の色彩が目に留まった。
赤銅色の髪を揺らし、南洋風の軽装の女が、大きな包みを両腕で抱えて歩いている。包みが視界を遮っているのか、足取りがやや危うい。
次の瞬間、女の足が裾に引っかかり、体が傾いた。
「あっ――」
王女は咄嗟に手を伸ばし、彼女の腕を掴んで支えた。
女は驚いたように瞬きをし、それからぱっと笑顔をこぼす。
「わっ、ありがと。危うく転ぶとこだった」
快活で、陽に焼けたような温かさを含んだ声。
王女は胸を撫で下ろした。
「大丈夫ですか?」
「うん、平気平気」
女は軽く包みを持ち直して、王女の顔をのぞき込む。
しばし見つめ合って――ふと、女が目を丸くした。
「……もしかして、王女様?」
王女は少し戸惑いながらも「ええ」と頷く。
すると女は、あぁ、よかった、見つけた、と包みを掲げた。
「これ、王女様にお届けするよう言われててね。南洋王国からの贈り物。布なんだって」
その言い回しは、侍女というより下働きの娘のようで、王族に仕える者の口としては、いささかくだけていた。
けれど、どこか懐かしい素朴さがあり、耳に不思議と心地よかった。
「私に……?」
「そうそう。アシェル様が“ぜひ渡してほしい”って。でも侍女さんたちがお忙しそうで、誰も掴まらなくてさ」
確かに、城内は夜会の準備で慌ただしかった。この女に声をかける侍女もいなかったのだろう。
王女は一瞬だけ逡巡した。本来なら、しかるべき侍女に任せるべきだ。
見知らぬ女を部屋に通すなど、普段なら考えもしない。
けれど、包みを抱えたままの彼女を立ち往生させるのも不自然だし――
女の人懐こさと裏表のなさそうな笑顔に、懐かしいリシェルの面影が重なった。
人をまっすぐ見つめ、警戒や壁をやわらかく溶かしてしまう娘――。
その記憶が、王女の心の警戒をゆるやかに溶かす。
「……よろしければ、私の部屋へ。そこで受け取ります」
女の顔がぱっと明るくなる。
「助かる。王女様の部屋なんて、ちょっと楽しみだな」
王女は、わずかに目を瞬かせ、それから小さく微笑んで歩き出した。
その隣りを、包みを抱えた異国の女が、軽い足取りでついていく。
── 王女の居室 ──
扉を閉めると、外のざわめきがすっと遠ざかり、静けさが戻った。
王女は卓の方へ手を向けた。
「……こちらに置いてください」
女は「はいよ」と軽く返し、大きな包みを卓にどさりと置いた。
仕草は雑なのに、不思議と不快ではなかった。
包みを置いた女は、顔を上げると、部屋をゆっくり見回した。
寝台下に敷かれた薄布。
最低限の調度。
そして、部屋の奥にある格子窓。
外からの光が細い筋になって、床に格子模様を落としている。
その光景に、女がぴたりと静止した。
「あー……」
口の中で何かを噛むような間のあと、彼女は本気とも皮肉ともつかぬ声でぽつりと言った。
「籠の中の鳥って話、本当なんだね」
悪びれた様子は一切ない。
ただ、“見たまま”を口にしただけの声音。
王女の体が、きゅっと固まった。
(……籠の、鳥……)
その言葉を、帝国の誰も王女に対して直接口にすることはない。
けれど――陰でそう思われていても、不思議ではないと感じてはいた。
そして今、南洋の侍女がさらりと口にした。
その一言で、王女は悟ってしまう。
帝国で、そう囁かれているのだと。
そして、その呼び名は異国にまで届いているのだと。
王女の指先が震え、俯きかけたその時――
ふと、旧都でのミレイユの言葉が蘇った。
『まあ、帝都の格子も演出みたいなものですし。なくても、あそこから飛び降りたりはなさらないでしょう、姫様』
演出。
そう、これは“象徴としての演出”。
本当に閉じ込められているわけではない。
王女はゆっくりと顔を上げた。
「……籠の中、ではありません。」
女が「へぇ?」と眉を上げる。
「確かに、自由とは言い難いけれど……
庭にも出られますし、こうして回廊を歩いたからこそ――あなたにも会えたのです」
王女はかすかに微笑んでみせる。
女は一度、まばたきをした。
その瞳の奥に、わずかな驚きと、どこか試すような光が過った。
女は肩をすくめ、悪戯っぽく笑う。
「ふぅん……じゃあさ」
女は、ひょいと王女の正面に回り込む。
距離が少し近い。まるで潮風のように、異国の香りがふっと鼻先をかすめた。
「うちの王子様が、わざわざ遥々ここまで来た理由――知ってる?」
唐突な問いかけ。
王女の胸がひゅっと縮む。
答えを探そうとしても、言葉が浮かばない。
誰に尋ねても扉は開かなかった――その感覚が、胸の奥でひそかに疼いた。
王女は口を閉ざし、ほんの一拍だけ視線が揺れる。
女はその沈黙を待つこともせず、細めた瞳のまま、軽い声で言い放つ。
「ほらね」
軽やかに無邪気に笑う。けれど、その言葉だけが妙に鋭い。
「籠の中で、与えられた餌だけをついばんでる鳥じゃん」
王女の胸の奥が、かすかに痛む。
否定したいのに、言葉が出てこない自分が情けなく思えた。
女はやや乱れた髪をかき上げ、ゆるく腕を組んだ。
「別に責めてないよ。鳥は鳥で十分かわいいしさ。
でも――『なぜ自分が呼び戻されたのか』くらい、本当は気になって仕方ないんじゃない?」
王女の喉が、かすかに震えた。
女は、にこっと子どものように笑った。
「知りたいなら、ちょっとくらい外の風、吸ってみたら?」
その声は挑発ではなく、どこか陽気で、どこまでも自由だった。
王女の胸の奥で、何かが小さく揺らいだ。
女は、まるで秘密を打ち明けるように身を寄せた。
「……ねぇ、王女様」
声はひどく柔らかいのに、その下には潮の匂いを帯びた熱があった。
「うちの王子様はさ――きっと、あんたに“外の風”を浴びせてくれるよ」
王女は瞬きをした。
外の、風。
女はにやりと笑う。
「アシェル様、言ってたもん。
“帝都の空気は重くて息が詰まるから、王女に風を届けてやりたいけど――”」
そこで、女は肩をすくめた。
「“あの皇帝が怖い顔で睨んでるから、なかなか届かないんだよね”って」
王女の胸がきゅっと縮まった。
――自分だけが知らされていない世界が、確かにある。
玉座の掌の内に置かれ、見えない境に遮られた“外側”の世界。
それをわかっていながら、踏み出す術を持たぬ自分。
女はお構いなしに続ける。
「でもさ――もし、籠の中の鳥のままでいたくないなら」
夕陽の色を含んだ金の瞳が、真っ直ぐ王女を捉える。
「明日の夜会で、自分で頑張って“外の風”に手を伸ばしてみなよ」
その声音には、挑発でも憐れみでもない。
ただ、世界の端で自由に笑ってきた者だけが持つ軽やかさがあった。
そのとき――
扉が、控えめに二度叩かれた。
女がひょいと顔をそちらへ向け、王女も思わず姿勢を正した。
扉が静かに開き、ミレイユが姿を現す。
「……失礼いたします」
淡々とした声。その手には、夜会の準備に関する書状が抱えられている。
王女が口を開く前に、ミレイユの無機質な視線が女に向く。
「その方との用件は、お済みでしょうか、姫様」
柔らかな風は、すっと途切れた。
「時間切れみたいだね」
女は悪戯を見つかった猫のように肩をすくめて笑うと、王女へ軽く手を振る。
「……またね、王女様」
ひらりと身を翻し、ミレイユをすり抜けるように廊下へ出ていく。
扉が閉まる音が、部屋の空気をひとつに結ぶ。
残されたのは、静けさだけだった。




