4 象徴の帰還
── 帝城・正門前 ──
冬の光は白く薄く、帝都の空に霞んでいた。
遠くに見える高塔の尖端は、淡く陽を受けて鈍く光り、城門前の石畳には凍てつく風がすべる。
白壁と高塔が連なる帝城は、変わらぬ姿で遠くから王女を迎えていた――
はずだった。
その輪郭はどこか張り詰め、空気は薄くざわめいている。
陽の光を浴びた塔の窓には、侍従たちの影がちらりと揺れ、城門脇の衛士たちも、どこか緊張をまとっているように見えた。
馬車が門前で止まり、車輪の音が乾いた空気に吸い込まれる。
扉が開き、王女が一歩、外へ降り立つ。
途端、空気がわずかに揺れた。
城門脇の衛士、回廊の陰にいた侍従、奥の階段から降りてきた書記官――
誰もが一瞬だけ動きを止め、こちらへ視線を寄せ、何かを囁き合う気配を落とした。
(……やはり、何かが起きている)
王女は胸の奥で、確信にも似たざわつきを覚える。
すれ違う侍女たちも、どこか落ち着かない様子で目を伏せる。
柔らかい微笑の裏に、隠しきれぬ好奇と緊張が滲んでいた。
廊下に響く靴音が、やけに大きく感じられる。
── 控えの間 ──
出迎えの侍女に案内された先は控えの間だった。
薄く開かれた窓から、冷たい昼の光が流れ込んでいた。灰白の石壁に反射した光は淡く揺れ、磨かれた床の上で静かな波をつくる。
「……謁見の間、で?」
思わず王女の口から驚きの声が漏れる。
てっきり、いつものように執務室で――ダリオスとセヴランに、旅の報告を簡潔に述べて終わるのだと思っていた。
思わず漏れた問いに、侍女は深く頭を下げただけだった。
理由は告げられない。ただ「すぐにご準備を」とだけ。
戸惑う間もなく、侍女たちが動く。
旅装を解かれ、冷たい指先が髪を整え、白と灰青の正装が肩に掛けられる。
帝国式の、清冷な儀礼衣。
そして胸元には――薄く光る一つのブローチが置かれた。
故国の紋章をかたどった、あの飾り。
「……これを、つけるの?」
問いかけは、誰に向けたものでもなかった。
侍女はただ、静かに頷くだけ。
事情は呑み込めない。
なぜ謁見なのか。
なぜ今、この装いなのか。
けれど、一つだけはわかる。
――自分はこれから、“帝国の象徴”として立たされるのだ。
鏡に映った己の姿は、旅の疲れを消し去られ、まるで別の人間のように整えられていた。
肩にかかる薄衣が、窓から射す昼の光をすべらせる。
控えの間の扉の向こうでは、足音と低い声が交錯していた。
急遽、予定を繰り上げての帰還命令。
何か落ち着かない空気の帝城。
そして、この“謁見”の場。
(いったい、何が起きているの……)
胸の奥に不安が宿り、衣の裾を握りしめる指が、かすかに震えた。
だが、次の瞬間。
『――逃げるなよ』
あの低く、乾いた声が脳裏に蘇る。
冬の風よりも冷たく、それでいて、なぜか背を押すような響き。
胸の奥に、ひどく静かな覚悟が広がっていく。
王女はそっと息を吸い込んだ。
逃げない。
逃げられない。
ならば――立つしかない。
扉の向こうでは、廷臣たちの息遣いが待っている。
その中央に、あの男がいる。
王女は胸元のブローチにそっと触れ、静かに目を閉じ、心を整えた。
そして、控えの間の扉が叩かれる。
「――殿下、謁見の間へ」
彼女は一歩、ゆるやかに前へ進んだ。
── 謁見の間 ──
高い天井から落ちる白い光が、赤い絨毯を長く照らしていた。
左右に並ぶ廷臣たちの衣擦れの音が、かすかな波のように広がる。
王女はその中央を、静かに歩を進めた。
一歩ごとに視線が集まり、空気がわずかに揺れる。胸元の小さな光が揺れ、淡い影を落とした。
玉座の前に至ると、澄んだ声が落ちる。
「よく戻ったな」
王女は静かに膝を折り、頭を垂れた。
一拍ののち、玉座から声が落ちる。
「顔を上げよ」
王女はゆるやかに視線を上げる。皇帝の眼差しが、光を背にしてまっすぐに落ちてきた。
「旧都での務め、ご苦労だった」
儀礼的な問答が交わされる。
形式は冷たく、しかし滑らかに流れていく。だがその裏で、帝国の視線が王女を測り続けていた。
王女はそっと、空気の温度を探る。
左右の廷臣たちは、誰もが控えめに息を潜め、まるで何かを待っているようだった。
(……これは、ただの帰還の謁見ではない)
胸の奥が、かすかに強張る。
いったい、どんな“用件”の幕が開くのか――。
やがて、ダリオスがわずかに顎を動かす。
「南洋王国の王子が、お前の安否を案じて来ている。礼の一つでも返しておけ。象徴としての務めだ」
(……南洋の王子? 安否? 私の?)
王女の心に疑問符が浮かんだ。
廷臣たちの列が静かに割れ、その奥から、柔らかな光をまとった影が歩み出た。
その姿を見た瞬間、王女は小さく息を吸った。
(……あの時の……)
脳裏に、遠い夜の断片がよみがえる。
煌めく灯火、胸を締めつけた礼装の紐、慣れない香の匂い――。
初めての社交界で、幾人もの名を告げられるたびに、どの言葉も霞のように過ぎていった。
ただ一人、その中で不思議に印象に残った面影。
金と白の光を纏い、穏やかに名を告げた青年。
その名は、胸の奥に柔らかく沈んでいた。
――アシェル=セ・イェル。
南洋王国の第二王子。
陽光を溶かしたような髪が揺れ、その瞳は、記憶の中よりもずっと澄んだ碧に見えた。微笑みは音もなく咲き、空気をふわりと撫でていく。
「王女殿下。お戻りくださったこと、心より安堵しております」
声は穏やかで、社交辞令そのもののはずなのに、遠い記憶のどこかを撫でる響きがあった。
王女は、わずかに礼を返す。
「……ご懸念をいただき、ありがとうございます」
その声に震えはない。
だが胸の奥では、微かな波が立っていた。
(なぜ――この人が、私の“安否”を?)
記憶にある彼は、ただ礼を交わしただけの遠い客人。
それ以上でも、それ以下でもなかったはずだ。
王女はまっすぐに彼を見返した。
その目の奥に、わずかな戸惑いと確かめるような光があった。
アシェルの微笑が、ごくかすかに揺らぐ。
周囲には気づかれないほどの、ほんの一瞬の違和。光の角度に目を細めただけにも見える、ごく自然な仕草。
王女は、柔らかく、礼を保ちながら視線を落とした。彼女自身は、アシェルのわずかな反応の変化に気づかない。ただ、廷臣たちの視線の重さと、玉座から注がれる黒い瞳の存在だけが、背筋に冷たく張りついていた。
アシェルの微笑のわずかな乱れは、すぐに、深く――どこか甘い光を孕んだ笑みに変わる。
柔らかく、丁寧で、礼節に満ちた笑み。
だが、その奥に宿る熱だけが、ほのかに色を変えていた。
まるで、“何か”を見つけた者の眼。
静かな愉悦が水面の下で波打つように、表情の端にかすかな影を落とす。
王女は気づかない。
だがダリオスの瞳だけは、微細な変化を逃さない。
玉座から、冷ややかな声が落ちる。
「王女の顔も見られたのなら――これで心置きなく帰国できるな」
アシェルはその言葉にも、微塵の乱れも見せず、穏やかに頭を垂れた。
「ええ。もちろんでございます、陛下。ただ……」
言葉の端に、わずかな間が生まれる。
その続きを飲み込ませるように、一歩、廷臣のひとりが前へ出た。
老齢の貴族が、慎ましげに手を胸に当て、恭しく声を上げる。
「陛下。せっかく遠国の王子が誠意を示しに来られたのです。ほんの少しでも、王女殿下と言葉を交わせるお時間を賜っては如何でしょうか」
その言葉に、すかさず別の廷臣が同調する。
「王子殿下の餞として、ささやかな宴を設けては。公の席であれば、礼を失すこともございませんし……殿下方にも、ごゆるりとお話しいただけましょう」
大広間の空気に、かすかなざわめきが走る。
表向きは礼儀と歓待の提案。
だが底では、皇帝の決定に楔を打ち、第二王子との“接点”を広げようとする意図が静かに滲んでいた。
アシェルは、わずかに目を伏せ、その影で口元だけをやわらかく歪める。
そして、そっと王女の方へ流した視線は、
ただの礼ではなく――
静かに、“値踏み”の色を帯びていた。
謁見の間の空気がわずかに揺れた時――
玉座の上で、ダリオスの指先が肘掛を一度だけ静かに叩いた。
短く、しかし鋭い音。
「……よかろう」
声は淡々としていた。
だが、その淡さこそが、彼の内に沈む不快の深さを物語っていた。
「宴は形式に則って行え。王女の負担にならぬ範囲でな」
廷臣たちは一斉に頭を垂れた。
アシェルは微笑を崩さぬまま、その影に潜む温度を、確かに楽しんでいた。




