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3 宮廷を揺らす風

── 帝都 ──


帝都での滞在を引き延ばした南洋王国の第二王子アシェルは、静かに宮廷に根を下ろしていった。

連日のように、帝国貴族たちから夜会や晩餐、茶会への招待が舞い込む。

彼はそのいずれにも顔を出し、飄々とした笑みを崩さなかった。

南洋の香とともに現れ、異国の音楽や舞踊を披露させ、贈り物と軽やかな冗談を絶妙に織り交ぜる。


気づけば、異国の客人は、“優雅な風” 、“密使を救った情ある王子” として受け入れられ、帝国貴族たちの間に、静かな熱を流し込み始めていた。


ある夜会の片隅――

帝国の古参貴族たちが、杯を傾けながらひそやかに語り合っていた。


「――あの若者は、なかなかのものだな。配下を救うために、わざわざ自ら帝都に乗り込むとは」

「密使が嵌められたという話は胡散臭いが……“情”で動く気概は見事なものよ」

「斬り捨てる方が容易い世でな。“救う”という選択を選べる者は、もう我らには少ない」


声を潜めつつも、どこか羨望を含む響き。


「陛下は正しい。帝国も正しい。だが――理ばかりでは国は乾く」

「……ああいう若者が、かつては我らにもいたものだ。情を知り、誇りを知り、そして道理も知る者が」


杯が揺れ、紅い液体が灯りの中で沈んだ光を放つ。

楽団の弦が静かに揺れる。


「……もっとも」

ひとりが、声をさらに落とした。

「あの殿下、宮廷で育った方ではないとも聞く」


「港を渡り歩いていた、という噂だな」

「まぁ、南の海は話が誇張されやすいからな」


ちょうどその時、宴の流れの中でアシェルが近くを通りかかった。

古参のひとりが軽く手を上げ、自然な挨拶のように彼を輪へと引き入れる。


「殿下。配下を救うため直々に帝都へ来られたとか。勇気のあることですな」

「陛下の御前で嘆願とは……いやはや、大した気概だ」


アシェルはわずかに首を傾げ、柔らかく微笑んだ。

「お褒めにあずかるほどのことではありません。たまたま、手を伸ばせる距離にいた――それだけの話ですよ」


場の空気が、ほのかに和らぐ。

しかし古参の眼差しはどこか深い。


「そうは言われてもな。我らは、理ばかりで国を測る癖がついてしまった。

 殿下のような情の気配を、久しく忘れていた気がします」


老貴族の言葉に、アシェルは一瞬だけ視線を伏せ、やがて、さらりと返す。

「帝国の皆さまは、理想に真っ直ぐでいらっしゃる。

 けれど――時には、欲や情を赦すことも、国には必要ですよね」


その声は、柔らかく響きながらも、どこかで温度を変えた。

貴族たちが、吸い寄せられるように顔を向ける。


アシェルは続ける。

「力の均衡は、美しい音楽のようなものです。ひとつの音が高すぎれば、全体が壊れてしまう。――時には調律も要ると思われませんか?」


楽団の奏でる弦が、まるでその言葉に呼応して色を変えたように聞こえた。


アシェルは笑みを崩さず、最後に柔らかく囁く。

「国というのは、人の信仰で立っています。でも、信仰を疑うこともまた、立派な信仰なんですよ」


その言葉は、誰もが解釈できるようでいて、誰一人として真意を掴めない。

貴族たちの胸に、複雑な熱だけを残して、アシェルは次の輪へと、軽やかに歩み去っていった。


燭台の炎がゆらめき、琥珀色の酒が光を返す。

音楽が一段落した後、広間の奥のほうで、別の一団がひそやかに声を潜めていた。


この輪にいる者たちは、政務も現場も任されていない。

宮廷で許されているのは、言葉だけだった。


「……殿下と王女殿下のあいだに、かつて縁談があったというのは、本当かね?」

問いは、好奇心を装っていたが、その底には別の温度があった。


「縁談もさることながら……」

別の声が、杯の縁越しに低く混じった。

「南洋では、殿下が玉座を狙っているという噂もあるそうだな」


「第二王子が玉座を望むなど、珍しい話ではない」

「問題は――その噂が、どこまで許されているか、だ」


短い沈黙。

南洋王国の宮廷図が、言葉にされぬまま思い描かれる。


「もし、殿下が玉座に近いお立場であれば――」

「王女殿下を迎える意味も、変わってくるな」

「もしその話が真であれば――今回の帝都訪問、“密使の件”よりも、王女殿下に会うためだったのでは?」


ざわめきは抑えられていたが、

その輪の中心には、確かにひとつの仮説が芽を出していた。


「もしも、あの方が王女殿下を――」

一人が、そこまで言いかけた時、背後を通りかかった柔らかな声が、静かにその輪へ滑り込んだ。

「もしも、私が王女殿下を――?」


振り向くと、アシェルが立っていた。

金の髪に燭光が滲み、微笑の形だけが光の中に浮かぶ。


貴族たちが慌てて姿勢を正した。

「い、いや、殿下。少々、行き過ぎた話を――」

「構いませんよ」

アシェルは軽く手を上げて、笑った。

「噂話はどこの国でも花のようなものです。咲くのを止めることはできませんからね」


一人が、酔いの勢いを借りて口を開く。

「では殿下。お尋ねしても? 王女殿下との“ご縁談”というのは――真実なのでしょうか?」


アシェルは一瞬だけ目を伏せ、すぐに穏やかに頷いた。


「ええ。かつて、そんな話があったのは事実です。

 まだ私が若く、王女殿下が夜会にお出ましになられていた頃……旧王国の宮廷で一度だけ、お目にかかったことがございます。それはそれは、月明かりのような方でした」


「では――殿下は、王女殿下にお心を?」

誰かが探るように問いかける。


アシェルは、少しだけ思案する素振りを見せた。

笑みがゆるやかに戻る。

「……心を寄せたかどうか、というのは難しい質問ですね。

 けれど、叙勲祭の話を聞いたとき、“もし許されるなら、彼女を貰い受けられぬだろうか”と――そう思ったのは事実です」


ざわ、と円卓の周縁が波立つ。誰もが声を失い、次の言葉を待った。


アシェルは平然として続けた。

「かつて縁談のあった私であれば、王女殿下が旧王国の民から“裏切り者”と見なされることもありますまい。それに――」

軽く笑い、杯を傾ける。

「帝国の方々も、お困りではありませんか? “千年王家の最後の血統”という象徴を抱えながら、あの叙勲祭の事件を経て、どう扱うべきか……」


数人の貴族が、無言のまま目を伏せた。


アシェルの声は淡々と続く。

「もちろん、帝国が他国に血統を譲り渡すというのは大きな決断です。

 ですが――南洋王国の第二王子、そして帝国の交易相手である私に“下賜”という形であれば、帝国の覇が揺らぐこともないでしょう」


「な、何と……」

息を呑む声が、あちこちから漏れた。


アシェルはその反応を楽しむように目を細めた。

「帝国が“妃”の称号を与えなかった姫を、南洋王国が“正妃”として迎える。周辺諸国から見れば、その力の均衡は明らかでしょう?」


静寂の中、楽団の音だけが遠くで鳴っていた。炎がゆらぎ、杯の中の酒が微かに震える。


アシェルは軽く息を吐き、その沈黙をやわらげるように微笑した。

「……もっとも、これは単なる夢想の話です。私は南の海で育った人間ですからね。思いつきが潮風のように口をついて出ることもあるのです」


貴族たちはまだ反応をまとめきれず、それでも誰もが――この男が放った柔らかな波紋の正体を探ろうとしていた。


アシェルは軽やかに頭を下げる。

その笑みは、何も否定せず、何も肯定しなかった。





── 翌朝 帝城 ──


夜のざわめきは、一晩で帝都を満たしていた。

朝の回廊を渡る廷臣たちの囁きが、まるで潮のように押し寄せる。


「……聞いたか? アシェル殿下の話を」

「“王女を迎えたい”と仰ったとか」

「ただの冗談ではあるまい。口調は本気だったらしい」


声を潜めつつも、笑みを含んだ囁きが続く。


「密使を救い出したばかりか、王女殿下に情を寄せるとは……なかなかどうして、見上げた若者よ」

「帝国の利も弁えた上での言葉だ。軽々に“恋”などと笑えぬな」


噂は美談の形をとり、耳に心地よく整えられていく。

一方で、少し離れた柱の陰では、別の声が落ちる。


「しかし密使の件は、やはりきな臭い――王女を手に入れるために、南洋が仕組んでいたのでは?」

「噂では、殿下は玉座を狙っているとか。もしそれが真なら、王女を得るのは“冠”を得るのと同じ意味だ」

「それほど王女を欲しているのなら、与えてしまえばいい。帝国の臣下として“下賜”するのならば、帝国の威も揺らぐまい」


低い笑いが交わる。


「むしろ得策だろう。“災厄を呼ぶ姫”を外に出し、南を懐柔できるのなら」

「どうせ陛下は、あの姫を正妃になさるおつもりもあるまい。帝国の度量を示す良い機会だ」


冷ややかな言葉の応酬に、周囲の廷臣が目を逸らす。

そのすぐ隣の一団では、また別の温度を帯びた囁きが交わされていた。


「王女殿下も、故国の民を命を賭して救おうとした情の方だ」

「情のアシェル殿下と――お似合いでは?」

「ふむ。確かに。帝国より、むしろ南の国の方が幸せにおなりかもしれぬ。……これも一つの慈悲だろう」


短い笑いがいくつも散り、回廊にさざ波のように広がる。

誰もが、他人の言葉の裏に己の計算を忍ばせていた。


帝国の空気は冷ややかに澄み、その下では確かに――南からの風が流れていた。





── 執務室 ──


冬の午後。

白い光が斜めに差し込む執務室には、紙の匂いと墨の静かな気配が漂っていた。


「……宮廷が、少々騒がしくなっております」

セヴランの声は淡々としていたが、その下にわずかな疲労と警戒が混ざっていた。


「騒がしい?」

「はい。昨夜の夜会での噂が、一気に広まりました。アシェル殿下が、“王女殿下を正妃として迎えたい”と仰ったとか」


ダリオスの手が、紙の上で止まる。

ほんの一瞬の沈黙。

すぐにまた書面へと視線を戻す。

「……続けろ」


セヴランは頷き、静かに報告を重ねる。


「殿下の言葉を本気と見る者は多くはありませんが――“情ある王子”という印象が宮廷内で定着しつつあります。

 “災厄を呼ぶ姫を南洋に嫁がせるのも一つの慈悲”――そんな声まで上がっています」


筆の音が止まる。

窓辺の光がわずかに揺れ、部屋の空気が固く沈んだ。


ようやくダリオスは顔を上げ、机上の文書を指先で叩いた。

「……人の心とは、つくづく扱いやすいものだな。迷いや不安の中に、たやすく異国の風が入り込む」


セヴランが静かに続ける。

「……陛下を通さず、夜会の席で発言されたのも計算のうちでしょう。

 正式な場であれば拒むことも反論することもできる。ですが“社交の空気”に落とされた言葉には、陛下の沈黙そのものが意味を持つ」


ダリオスは薄く笑った。

「つまり、俺が沈黙を選ぶことまで読んでいる、というわけだ」


静寂が、白い光の中に長く伸びていた。

窓の外では、冬の雲が鈍く流れ、塔の影が床を渡っていく。


セヴランは控えめに息を吸い、声を落とした。

「……王女殿下のご帰還を、少し早めては如何かと存じます。殿下がお戻りになれば、第二王子は滞在の大義を失い、宮中の空気も自然と収まるでしょう」


ダリオスは無言のまま視線を落とす。

やがて、低く短い声が落ちる。

「……そうだな。退屈しのぎにしては上出来だが、もう潮時だ」


その声音には、感情の欠片すらなかった。だが、その無感情さこそが、内に潜む熱を物語っていた。


「……あの男の言葉は風だが、風は火を運ぶ。どこに火種が落ちるかまでは、誰にも制御できぬ」

そしてわずかに目を細めた。

「――ならば風向きは、こちらで変える」


一拍の間を置き、ダリオスは続けた。

「……それに、もうひとつ厄介な可能性がある」


セヴランがわずかに眉を寄せる。

「可能性、とは」


「旧都から帝都までの帰路――もしあの男が“刺客”を潜ませる気なら、王女が予定どおり戻るのを待つより、逆に“早めて動く”方が安全だ」


その声は低く、どこまでも理性的だった。

だが、その理性の底にあるのは、明確な警戒の熱だった。


「……暗殺者カイム。やつの消息は未だ不明だな」


「はい。密使の捕縛以降、足取りは完全に絶たれております」


ダリオスは筆を置き、肘掛けに指先を叩きつけた。

短い音が、冷たい石壁に反響する。


「王女には、予定を繰り上げて帝都へ戻るよう伝えろ。

 ――そして、ルガードには帰路の警護を万全に整えるよう命じろ。影ひとつ近づけるな」


セヴランが軽く頷く。

「承知しました。すぐに伝令を出します」


短い返答ののち、室内に再び静けさが満ちた。

窓の外では、薄い雲が陽を遮り、光が一瞬だけ鈍る。

その瞬間、部屋の空気までがわずかに軋むようだった。


ダリオスは視線をその光の変化に向け、しばし動かなかった。

やがて、低く呟く。

「……所詮、風だ」

黒い瞳が白い光の中に浮かぶ。

「――王女が戻れば、その風も止む」


そう告げる声には、抑え込まれた苛立ちと、静かに研がれた冷ややかさがあった。





── 帝都外郭・南門前 ──


冬の風が、石畳の上を滑っていた。

灰色の空の下、門前に停められた馬車の帆がはためく。

城壁の外には、霜に白くくぐもった道が、遠くまで冷たい光を返していた。


馬車の脇で、男が深々と頭を下げる。

かつて帝城の牢に繋がれていた密使だった。顔にはまだ痣が残り、手は震えていた。


「殿下……。このたびは、私の不覚によりご迷惑を……。そして……お救いいただき、まことに――」


アシェルは軽く片手を上げ、言葉を遮った。

曇天の下、指先の金の輪が、冷たい空気の中でかすかに光を含む。

「そういうのは、いいよ」

声は柔らかく、風の中に溶けるようだった。

「死なれると、そこで幕が閉じてしまうだろう? 舞台は続いていた方が面白い。だから助けただけさ」


アシェルは一歩近づき、声を落とした。

「でも――次は、ちゃんとやれよ? 捕まって終わり、なんて幕切れじゃ、僕が退屈するだろう?」

笑っているのに、体温のない声だった。


密使は蒼白になりながらも、必死に頷いた。

「は、はい……! 次は、必ず……!」


アシェルは満足そうに手を叩いた。

「うん、それでいい。君はまだ使える。舞台に戻りなよ」


その横には、ひとりの女がいた。

肌は日に焼けた褐色で、赤銅色の髪を無造作に結い、南洋風の軽装の上に帝都仕立ての上衣を羽織っている。琥珀より明るい瞳が、寒気の中で軽く光った。


彼女は馬の背を掌で撫でながら、ひょいと密使を見やる。

「……あんた、次に殿下の足引っ張ったら降板よ?」


声音は淡々としていた。

叱責でも、脅しでもなく、ただ事実を告げただけのように。


密使は震え上がり、まるで吹雪の中に放り込まれたような顔で馬車に乗り込んだ。


アシェルはその背を眺め、ふっと微笑む。

「――行ってらっしゃい。今度はもう少し、長い曲を弾いてくれ」


馬車がゆっくりと動き出す。

曇り空の下を南へ向かうその車輪の音が、冷たい朝の気配の中に消えていく。


冬の風が彼の髪を揺らし、白い空に、金の光が一瞬だけ差した。

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