2 陽の衣を纏った月
── 謁見の間 ──
アシェルがセヴランに伴われ、再び高天井の広間に戻ると、冬の光はすでに傾きを深め、玉座の背後から射す陽は、皇帝の影をいっそう長く、濃く落としていた。
ゆるやかな足取りで、アシェルは玉座の前へと進む。
列柱の影に沈んでいた廷臣たちが揃って息をのみ、謁見の間の空気は、先ほどよりさらに硬く張りつめる。
ダリオスは玉座に座したまま、光の中に沈む影のような眼でアシェルを見下ろした。
セヴランが一歩進み出て、簡潔に報告した。
「――陛下。捕縛した者に対面した結果、第二王子殿下の配下であることが判明いたしました」
広間が、ざわりと揺れる。
セヴランは続けた。
「殿下は、“密使が第三者により誘導された可能性が高い”と主張しております」
アシェルは微笑を崩さず、恭しく一礼する。
「陛下。彼は、愚かではありますが、悪意に満ちた者ではございません。
誰かに利用され、追い詰められたのでしょう」
その声音は穏やかに響き、場の空気をわずかに和らげた。
だが、その言い方は相手を庇っているようでいて、
“真実はまだ奥にある”ことだけを淡く示唆する、絶妙な曖昧さを含んでいた。
ダリオスは短く息を吐く。
冷えた空気がわずかに揺れただけで、表情は変わらない。
「……その者が貴殿の配下である以上、責任は貴殿の側にあるはずだが?」
アシェルは肩をすくめるように、ごくかすかな動きを見せた。
「お叱りは甘んじて受けましょう。
ただ――陛下。あの男を処罰して得られるものが、帝国にございますか?」
広間が静まり返った。
アシェルの声音は静かで、丁寧で、しかし鋭利だった。
「彼を断じても、“黒幕”がいるのなら、その者が笑うだけ。情報は断たれ、真実は闇に沈みます。貴国の秩序に資する結果ではございませんでしょう?」
セヴランの目が細められる。
論理としては破綻していない。しかし真実かどうかも分からない。
だが、ここで処罰すれば――“帝国が南洋王国の人間を一方的に断罪した”という事実だけが残る。
周囲の貴族たちも、その損得を瞬時に読んだ。
謁見の間の気配が、微かに揺れる。
ダリオスの声が落ちてきた。
「……南洋王国は、この件への関与を全面否定している。そのうえで貴殿は、“密使は他者に嵌められた”と主張するのだな」
「はい。国としては関与を一度否定いたしましたが――
王家の一員として、この男を引き取り、内側を徹底的に洗う責務を感じております」
微笑をつくるアシェルの眼は、湖のように澄み切りながら、底がまったく見えなかった。
ダリオスはしばし沈黙し、玉座の肘掛に置いた指を二度、静かに叩いた。
そして――
「……よかろう。あの者の身柄は南洋王国側に返還する」
その言葉が落ちた瞬間、謁見の間の空気がわずかに緩む。
しかし緩んだのは廷臣たちの呼吸だけで、皇帝の影とアシェルの微笑の温度は、全く変わらなかった。
アシェルは深く礼をとった。
「陛下のご寛恕、痛み入ります。恩義を忘れることはございません」
その姿は、まるで礼儀正しい外交使節のようでもあり、どこか舞台の幕間で静かに笑う役者のようでもあった。
密使返還の決定が下され、広間に束の間の静けさが戻る。
しかしその静寂は、休符のようなものに過ぎなかった。
アシェルは深い礼を終え、姿勢を正す。
その仕草は優雅で、あまりにも自然で、まるで次に何かを続けることが最初から織り込まれていたかのようだった。
そして、柔らかく空気を揺らすような声が落とされる。
「――陛下。実は、もう一つだけ気がかりがございます」
玉座の前で、わずかに人々が身じろぎをする。
密使の件が終わり、もう退席すると思ったその矢先の“次の一手”。
ダリオスの眼が、わずかに細まった。
その表情は読み取れない。
ただ、アシェルがここに来た本当の理由が、ようやく姿を現しつつある気配だけが漂った。
アシェルはゆるやかに視線を巡らせ、そして、何でもない雑談のように――問いを落とした。
「……王女殿下は、お見えではないのですか?」
空気が揺れる。
まるで、硝子の水面に小石を落としたように、静かな波紋が広がった。
アシェルは申し訳なさそうに肩をすくめる。
「今回の件、帝国に混乱を招いた以上、名を騙られたとはいえ……殿下をも煩わせたことは、私の不徳にございます。もし叶うなら、直接お詫び申し上げたく存じます」
その声音は柔らかく、絹を撫でるように滑らかだった。
だがその意図は、微笑と同じく底が見えなかった。
玉座の上、ダリオスはわずかに顎を引く。
「王女は、旧都での務めに就いている。――不在だ」
アシェルは頬にかすかな影を落とし、静かに問い返す。
「お戻りは、いつ頃でございましょう?」
その問いは穏やかだが、沈んだ水の底で、確信じみた重みを持っていた。
ダリオスは内心で短く息を吐く。
(……帝都の噂を、掴んでいるな)
“王女が心を病み、旧都で静養している”という流言。
それを承知の上で、探りを入れてきたのだ。
「三週ほどで戻る予定だ」
声は平板に落とされた。
その返答を受けて、アシェルはふっと目を細める。
柔らかく、しかしどこか含みのある微笑。
「それは何より……。では、殿下がお戻りになるまで、私めをこの都に滞在させてはいただけませんか。せめてもの誠意として、直接お詫びを申し上げる機会を得たく思います」
傍らの廷臣たちが、わずかに息を呑んだ。
外交儀礼の範囲を一歩踏み越える申し出。
だが、アシェルの声音には角がなく、穏やかな誠意だけが漂っていた。
ダリオスは一拍の沈黙を置き、静かに言葉を返す。
「ただ名を騙られただけの貴殿が、責任を感じる必要はない。王女のことは案じずともよい。――国へ戻るがいい」
それは柔らかながら、退ける言葉。
だがアシェルは、困ったように小さく笑った。
その笑みは、風が頬を撫でるように曖昧で――しかし、妙に人を引き込む。
「……実は、少しばかり事情がありまして」
声がわずかに落ちる。
そして、次に告げられた言葉に、廷臣たちは思わずざわめきを漏らした。
「殿下の故国がまだ滅びる前のこと――
内々にではありますが、私は、王女殿下の縁談の候補として打診を受けておりました。
もちろん、国の情勢の変化とともに立ち消えとなりましたが……
かつてそうした縁を頂いた身としては、殿下のご無事をこの目で確かめずには、どうにも落ち着かず」
その声音には芝居じみたところがなく、むしろ淡々としていた。
だが、そこに込められた熱は、誰の耳にも明らかだった。
「――殿下がお戻りになるまで、この都に留まることをお許しいただければ」
アシェルはそう言って、穏やかに頭を垂れた。
冷たい陽光の中、その金の髪が揺れ、光を散らす。
アシェルの言葉が落ちた瞬間、謁見の間の空気が凍りついた。
帝国の内において、王女は“旧王家の最後の血統”にして、“征服の象徴”である。
その王女に対し、“縁談の候補だった”などと語ることは――
たとえ婉曲であろうと、征服者の掌中の玉に指を伸ばすに等しい、許されざる無礼だった。
だが、アシェルの顔には一片の悪びれもなく、ただ、柔らかな微笑が浮かんでいた。まるで、氷を撫でる指先のような笑み。
玉座の上で、ダリオスの黒い瞳が細まる。
その奥で、理性が鋭く研ぎ澄まされていく。
(――挑発か。それとも、探りか)
沈黙の中、玉座の背後から差す光が彼の輪郭を鋭く縁取る。
「……そうか」
低い声が、壇上から落ちた。
わずかな間を置き、続く言葉は冷たく整っている。
「だが、その縁はすでに過去のものだ。我が帝国において、王女は“象徴”として立っている。私的な想いも旧き契りも、そこには存在しない。――ゆえに、貴殿が気にかける必要はない」
一刀のような言葉。
刃を抜く音すらなく、空気だけが切り裂かれた。
アシェルは一瞬まばたきをし、それから小さく笑った。
「……なるほど。陛下の“慈悲”は、実に厳正にございますね」
皮肉とも賛辞ともつかぬ言葉。その柔らかさの奥に、細く光る棘。
廷臣たちは息を詰め、空気が一段と冷え込んだ。
その時、沈黙を裂くように、列の端から一人の廷臣が進み出た。老齢の廷臣が、慎ましげに頭を垂れながら言葉を選ぶ。
「若き王子の誠意を退けることは、帝国の度量を疑われかねませぬ。陛下の寛容をお示しになる、よき機会かと存じます」
続けて、別の声が重なる。
「王女殿下は“慈悲の象徴”にてあらせられます。その御身を案じる心を遠ざけるは、帝国の掲げる信と理に背くことになりましょう」
声色はあくまで恭しく、理屈は整っていた。
だがその裏には、皇帝の独断にくさびを打ち込みたいという欲の影がちらつく。
壇上の皇帝は、しばし無言だった。沈黙が、石のように重く積もる。
アシェルは微笑を崩さず、ただ静かに待っていた。まるで、この沈黙そのものを試すかのように。
やがて――
ダリオスは、低く、短く息を吐いた。
「……よかろう。滞在を許す」
冬の光が玉座の背後から差し込み、皇帝の影を長く伸ばす。
アシェルはその光の中で、静かに頭を垂れた。
柔らかな輝きが彼の肩をかすめ、まるで陽を纏った月が、帝国の光を借りて微笑むかのようだった。
そして、その光とともに浮かぶ笑みが――
帝国の中枢に、かすかな揺らぎの兆しを残した。




