1 南からの風
── 帝城 ──
白石の壁に囲まれた回廊を、足音がかすかに響く。
冬空の下、城の空気はいつもより澄んでいたが――
ここ数日、侍女たちの間には、妙な熱が渦巻いていた。
「……ご覧になった? あのお方……」「ええ、夢に出そうなくらい…」
「……あの話、聞いた?」「まるで物語の騎士みたいよね…」
手桶を運ぶ手が緩み、針仕事の針先が止まる。
押し殺したささやきと、微かに染まる頬。
原因は先日からこの帝城に滞在している、ある“客人”の存在だった。
風のように現れ、香のように記憶に残るその人物に――
侍女たちは誰もが、少なからず浮足立っていた。
だがそれは、決して軽薄なときめきではなく、
むしろ、畏れにも似た、得体の知れない酩酊。
その熱が、いつしか帝城の空気にまで染み渡っていく。
── 執務室 ──
重厚な扉の内側、石壁に囲まれた空間には、いつもどおりの沈黙があった。
机上に積まれた文書の山を前に、皇帝ダリオスは筆を置き、わずかに眉間を寄せる。
「……まさか、俺の城の者どもが浮足立つことがあるとはな」
不機嫌そうな低音が、冷えた空気に沈んだ。
すぐ傍らに控えていたセヴランが、微妙な間を挟んで言葉を返す。
「……そうですね。なかなか、貴重な光景です」
乾いた吐息とともに、ダリオスは背もたれに身を預ける。
「……王女の帰還は、いつになりそうだ」
セヴランは素早く視線を滑らせ、控えの書簡に目を通す。
「昨日、旧都を出立したとの報。途中、雪道があるので……あと六日ほどかと」
「……六日、か」
ダリオスは短く唸るように呟いた。
机上の筆が、掌の中で転がされ、乾いた音を立てる。
「とっとと会わせて、とっとと追い返すぞ。――あの客人をな」
「心得ております」
応えるセヴランの声音には、わずかな硬さが滲んでいた。
ふと、室内を冷たい風が通り抜けるような錯覚が落ちる。
光の差し込む南窓の向こうで、冬の雲がゆるやかに流れていた。
ダリオスは短く息を吐いた。
(――あの男は、確かにただ者ではない)
姿を見せるだけで、人の心を静かに揺らしていく。
その波はどこからともなく広がり、
帝都の空気を、わずかに――しかし確実に変えつつある。
沈黙の中で、ダリオスの目が細められた。
その瞳には、流れを乱す風の気配を見据える、冷ややかな警戒が宿っていた。
* * *
叙勲祭の後、暗殺者カイムと繋がりのあった南洋王国の密使を捕縛すると、帝国はすぐに南洋王国へ正式抗議書を送った。
『帝国南辺において、貴国に所属すると見られる者を拘束した。所持品の一部に、貴国王族の印章に酷似する文書が確認されている――』
出したのは、外務院と軍の連名。外交儀礼の建前として、皇帝の名は明記されなかった。
しかし、冷ややかな筆致の裏には、明白な怒りと警告が潜んでいた。
「敵対行為」との断定を避けて、あくまで外交上の形式を守りつつ、静かに刃を突きつける。
――関与を否定するのであれば、その証を示せ。
帝国はそう突きつける形で、沈黙を許さぬ駒を盤上に置いたのである。
さらにその二日後、内通の罪で元・元老院筆頭を公に処断すると、即座にその旨も南洋王国へ通告した。
――こちらは自らの膿を切り捨てた。貴国はどう応じるのか。
という無言の圧力である。
そうして翌月初旬、南洋王国からの返書が帝都に届く。
筆頭宰相の名を冠し、文面は丁寧かつ冷静、格式に則ったものであった。
『当該人物は、わが国に正式な身分を持たぬ者であり、いかなる王族・貴族とも関係はない。印章の類似があるとすれば、それは偽造の疑いが濃い』
文末には、形式的ながらこう添えられていた。
『王家としても調査を進める』
表向きは礼を尽くした弁明でありながら、
裏には――これ以上の追及は望まない、という静かな意志がにじんでいた。
南洋王国が関与を否定しつつ、表立った敵意を見せない。
それは、ダリオスとセヴランにとって予想通りの展開だった。
読み終えたダリオスは、短く「想定通りだ」とだけ言い、
セヴランもまた、淡く頷いた。
「これで十分です。――あちらは“借り”を作った。次に動けば、口実はこちらにあります」
これで牽制は果たされた。
相手が無駄な動きを見せない限り、これで終わるはずだった。
外交戦の駒は、ひとまず静止したかに見えた。
ほどなくして、王女が旧都へ発つ。
南洋王国への牽制を果たしたダリオスとセヴランは、帝国内部の不穏分子らへの対処を粛々と進めていた。
そこへ、予想外の報せが帝都に届く。
南洋王国の第二王子が、自ら帝都を訪れると表明したのである。
名目は――
『捕縛された者が、私の名を騙ったとの報を受け、王家として遺憾に思う。
帝国に誠意を示すため、私自身が弁明に伺う』
一見、潔白を示すための“誠意”の姿勢。
だが、その裏には明らかな賭けが潜んでいた。
異国の王族が、自らの足で帝国の首都に踏み入れる――
それは、通常の外交儀礼を超えた、王権を帯びた存在の直接的な介入であり、帝国側にとっては決して軽く扱えるものではなかった。
外務院は慎重な立場を崩さず、一度は入国を渋ったが、
「王族の弁明を拒めば、帝国が不当な疑いを持っていると宣伝されかねない」という懸念から、最終的にダリオスの裁可によって、“客人”としての受け入れが決まらざるを得なかった。
ダリオスとセヴランにとって、それはまさに――想定外の一手だった。
謝罪を口実にして、南洋王国の“風”が、帝国の心臓部へと吹き込まれてくる。
── 謁見の間 ──
年が明け、新年の行事が一段落した頃。
南洋王国の第二王子、アシェル=セ・イェルはついに帝都へ到着した。
大理石の床が光を返し、列柱の間に冷たい気が張りつめている。
玉座の背後から射す冬の陽が、壇上に立つ皇帝の影を長く落としていた。
居並ぶ廷臣たちは、一様に息を詰め、異国の客人を見守っている。
その男は、まるで光と影の綾をまとって現れた幻のようだった。
陽を受けて溶ける金の髪が風をはらみ、歩を進めるたびにゆるやかに揺れる。
琥珀にも碧にも見える瞳は、見る者によって色を変え、その微笑は、温もりと冷たさの境界に咲くかのようだった。
南洋でも、他国の港でも、彼を見た者たちは、ひそやかにこう呼ぶという。
「陽の衣を纏った月」――と。
その名のとおり、彼の気配は光の中にあってなお、どこか影を孕んでいた。
静謐でありながら、触れれば乱れる風のような美。
その気配が今、帝国の玉座の間に静かに降り立った。
アシェルは深く一礼し、静かな声で言葉を発した。
「陛下の御前にて、南洋王国を代表し、深甚なるお詫びを申し上げます。
わが国に属する者ではございませんが、帝国において不穏の疑いを招いたこと、遺憾の至りにございます」
声は穏やかに響き、わずかな余韻が広い空間を満たす。
まるで、謝罪の言葉そのものが香を放つようだった。
ひと呼吸ののち、ダリオスの傍らからセヴランが一歩進み出た。
「……謝意は拝受いたしました。
当該事案については、帝国としても慎重に対応を進めております」
礼儀を崩さぬ声だったが、その語尾は、“越境するな”という警告の刃をわずかに含んでいた。
ダリオスは依然として動かぬまま、アシェルを正面から見据えていた。
その視線は、冷たく澄んだ刃のようでありながら、奥底に測り知れぬ圧を秘めている。
アシェルはその視線をまっすぐ受け止め、穏やかな微笑を保ったまま、わずかに顔を上げた。
「ご丁寧な対応、痛み入ります。……ですが、ひとつだけ」
微笑の奥に、淡い熱が灯る。
「もし許されるのであれば、お願いがございます」
その声音は柔らかいが、引く力を帯びていた。
関係のない者まで、思わず耳を傾けたくなるような緩やかな誘導。
ダリオスの黒い瞳が、わずかに細まった。
「……申してみよ」
その低い声が響いた瞬間、アシェルが一歩踏み出すように声を落とす。
「――“名を騙った者”を、この目で確かめたく存じます」
ざわり、と廷臣の間に目に見えない波が走った。言葉の端に潜む意図を探るように、幾つもの視線が揺れる。
ダリオスは微動だにしなかった。ただ、ゆっくりと瞼をひとつ落とし、低く言葉を返す。
「……確認したところで、貴殿の潔白が証明されるとは思えぬが」
「ええ。ですが、知りたいのです。“私の名で何が行われたのか”を」
微笑んだままの声。
光に濡れる金の髪が、小さく揺れた。
しばしの沈黙ののち、ダリオスは玉座の側に控えるセヴランへと視線を動かした。
セヴランが静かに首を傾けたのを確認し、皇帝は言う。
「……よかろう」
── 牢内 ──
冷気が石の壁に張りつき、足音だけが淡く反響していく。差し込む光はなく、廊下は等間隔の松明だけが赤い揺らぎを落としていた。
アシェルは警護の兵の後ろを、軽やかな足取りで進む。
セヴランが先を歩きながら、低く言う。
「……殿下。こちらが、今回の件に関与したとされる者です」
鉄格子の向こう。
粗末な椅子に縛られた男がいた。
痩せた頬、乾いた唇。
しかし瞳だけが、怯えとも諦念ともつかぬ色でアシェルを見返した。
アシェルは一歩進み、格子越しにその男を見つめた。
わずか数秒。
その短い沈黙の中に、何かが落ちる。
「……あなたでしたか」
小さな息のような声だった。
驚愕でも怒りでもなく、
まるで予期せぬ再会を前にしたかのような柔らかさ。
男の肩が震えた。
「で、殿下……っ」
アシェルは首を振り、静かに目を伏せた。
「困りましたね。どうして、こんな場所に――あなたが」
その声は、聞く者の心に“矛盾”を残す。
知っていたのか、知らなかったのか。
セヴランは、眉をわずかに寄せた。
アシェルは格子に手を添え、男の瞳を覗き込む。
「……誰に命じられたのです? 私の名で動けと?」
男は何かを言おうとしたが、喉が震えるだけだった。
アシェルは、ただ静かに微笑んだ。
「……なるほど。 本当に“嵌められた”のですね」
その一言で、密使の表情が崩れた。
否定でも肯定でもない。
セヴランはそのやり取りの意味を即座に読み取った。
――密使を“嵌められた者”へとすり替え、帝国の矛先をぼかすための布石。
密使の沈黙も、否定の意思ではなく、むしろその“物語”を受け入れる迷いに見えた。
アシェルが格子から手を離す。
「セヴラン殿。 彼は――こんな稚拙な真似をする男ではございません」
「……それは何を根拠に?」
「彼は、忠義深いが臆病な性質で。私の名を騙るなど、誰かに唆されねばできないことです」
セヴランの眉間に、静かな皺が刻まれた。
アシェルは一歩下がり、淡々と続ける。
「陛下は無益な殺生を嫌われる方と聞きます。彼を処罰しても、この件の真相は闇に沈むだけです」
地下回廊に、アシェルの声が静かに落ちる。
「どうか彼を、お返しいただけませんか。 南洋王国で“内側”を洗ってまいりましょう。この騒動を仕掛けた本当の者を、必ず突き止めます」
その言葉は、信じられるものではなかった。
けれど――、理屈としては整っていた。
セヴランは、微かに息を吸い、無言のままアシェルを見据えた。
その眼差しは、冷たい計算の光を帯びている。
(……うまい。“理”で包んで、情を装うか)
彼は理解していた。これは弁明ではなく、帝国に“拒む理由を失わせる策”だと。
反論の糸口を探しながらも、即座には切り返せない。
冷えた石壁すら、その場の空気に呼応したように沈黙する。
松明の炎がわずかに揺れ、影が長く伸びて絡み合う。
その中心に立つ二人の間を、見えぬ風だけが、静かに通り抜けていった。




