13 風の見送り
── 旧都・総督城・離れの邸 ──
朝の光が、凍てついた空気の中に淡く滲んでいた。
庭の木々は霜をまとい、枝先からは細かな氷片がきらめきながら落ちていく。
貧民街での炊き出しから一夜明けた朝。
離れの邸では、侍女や侍従たちがぱたぱたと行き交い、衣装箱を運ぶ音が絶えない。
「帝都への帰還命令、ですか……?」
朝早く、ルガードが訪れて告げた言葉に、王女は驚きながらそう問い返した。
旧都での滞在は、まだ七日ほど残っていたはずだ。
ルガードは軽く肩を竦めて笑った。
「伝書鳩で至急帰還せよとの早便が届いた。詳しいことはまだわからんがな。
続報は早馬で届くだろうが――いずれにしろ、殿下にはすぐにお発ちいただかねばならん」
その声音には、必要以上の重さはなかったが、事実としての緊張がかすかに滲んでいた。
王女はわずかに眉を寄せた。
「……何か、起きたのですね」
ルガードは一瞬だけ目を細め、ゆるやかに首を振る。
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。だが、今は命に従うだけだ。
道中は私の麾下の精鋭を付ける。安心してくれ」
その穏やかな言葉から、隠し事の気配は感じられなかった。
それでも胸の奥に、淡い不安が残る。
王女は外の光に目を向けた。
冬の陽が、白い息のように庭の雪を淡く包み込んでいる。
帝都――あの乾いた石の城が、自分を呼び戻そうとしている。
何が、あの場所で待っているのだろう。
胸の奥に、薄く冷たい風が吹いた。
── 総督城・門前 ──
急ぎの支度を終え、王女の一行は昼前には出立の準備を整えていた。荷は積み込まれ、馬車の車輪には新しい油が差されている。
城門の前では護衛の兵たちが列をなし、冬めいた風が旗を鳴らしていた。
馬車の扉が開かれ、ミレイユが黙って乗車の準備を整えている。
王女は外套の裾を押さえ、総督城の門前に立っていた。
そこへ、ルガードがゆるやかな足取りで歩み寄る。
老将の顔には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいた。
「まったく、せわしない話だ。……まぁ、帝都というところは、いつも何かしら動いておりますからな」
軽く肩を竦め、柔らかく続ける。
「今度は、もう少し穏やかな日和にいらしてください。できれば、陛下とご一緒に――。とはいえ、あの男と一緒では、殿下もゆっくり羽根を伸ばせませんかね」
最後の一言に、冗談めかした響きが混じる。
王女はわずかに目を丸くしたが、すぐに小さく笑みを返した。
短い沈黙が、ふたりの間を通り過ぎる。
馬の嘶きが上がり、旗が冬風に鳴った。
ルガードは、ふと空を仰ぎ、低く呟くように続ける。
「帝都は……真面目な若者たちで動いている。良くも悪くも、な」
声には、どこか遠くを懐かしむような響きがあった。
「私のような老骨には、思うところもありますが――まあ、やってみろや、と思ってますよ。俺たちの世代が何かを成したように、今は彼らが、自分たちのやり方で時代を切り拓く番なんでしょう」
王女は小首を傾げるように視線を向け、ルガードの言葉の意味を測る。
“彼ら”――おそらく、ダリオスらを指しているのだろう。
だが、あの冷徹で揺るがない男を「時代を切り拓く真面目な若者」と呼ぶ声に、胸の奥で小さな違和が生まれる。
ルガードはその様子に気づいたのか、ふっと目を細め、静かに笑った。
「……ただな。まっすぐすぎるんですよ、あいつらは」
低く、少しだけ寂しげに笑う。
「一直線に突き進むのは悪くない。だが、風を読む余裕も要る。――殿下。
時には、立ち止まってもいいんですよ。焦って進むより、風に吹かれる時間の方が役に立つこともある」
王女の目が、わずかに揺れた。
その奥に、何かを確かめるような光が宿る。
ルガードは、その瞳をまっすぐに見つめながら言った。
「迷い、惑う時には――その胸の中にある灯火を確かめなさい。どれほど小さくても、それだけが、あんた自身を導く光になる」
その眼差しには、戦場をくぐり抜けた者の厳しさと、歳月を越えた深い温もりが混じっていた。
言い終えると、ルガードは周囲の景色へ目を向けた。
眼下に広がる冬の陽を受けた屋根瓦、石畳を渡る風、遠く霞む山影。
そのすべてをゆっくりと見渡しながら、穏やかに言葉を落とす。
「この旧都はな。帰れる故郷を持たない者たちの、せめてもの“拠り所”みたいなものであってくれればと、そう思ってるんですよ」
帰れる故郷を持たない者たち――。
王女はその言葉を胸の内で反芻する。
なぜか、ダリオスやセヴラン、そしてミレイユの顔が浮かんだ。
そばの気配がかすかに揺れた。
王女の背後で、ミレイユが視線を落としながら、静かに外套の裾を整えていた。
王女の表情を見て、ルガードはふっと口元を緩めた。
「……だから、その灯が揺らぎそうになったら――ここへ来りゃいい。風の中でも、火の守り方くらいは教えてやれますよ」
その声に呼応するように、風が吹いた。
総督城の高い城壁を越え、遠く山脈の方角から吹きおろす冬の風だった。
王女はその風の中で、ゆっくりと頭を下げる。
「……はい。ありがとうございます、ルガード閣下」
老将は、わずかに目を細めて笑い、
それから小さく、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。
「……あいつは、自分にも人にも厳しいからな」
ぽつりと落とされた言葉は、冬の風に溶け、静かに消えていった。
ルガードの背後に控えていた副官カリスが一歩進み出た。
「殿下、道中の警護はすべて整っております。雪もそれほど深くはないようです。ご安心を」
その声音は端正で落ち着いていたが、どこか名残惜しさが滲む。
王女は小さく頷き、柔らかく微笑んだ。
「滞在中は、何かとお世話になりました。……ありがとうございました、カリス殿」
カリスは胸に手を当て、恭しく頭を垂れた。
「身に余るお言葉です。――どうか道中、ご無事で」
王女が裾を整えて、静かに馬車に乗り込む。
その背を見届けてから、ミレイユが一歩遅れて続いた。
扉が閉じる音がして、御者が手綱を鳴らす。車輪が雪を踏みしめ、白い息を吐きながらゆるやかに動き出した。
ルガードとカリスは並んで、しばらく遠ざかる馬車を見送っていた。
白い息が二人の間に立ちのぼり、冬の光の中で溶けていく。
老将の灰青の眼差しは、どこか遠い場所をも見つめているようだった。若い副官は、その視線の先を追うように、静かに目を細める。
── 帝都へ、再び灯火が向かう。
それを送り出す旧都の風は、凛として、どこか懐かしく温かかった。




