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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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13 風の見送り

── 旧都・総督城・離れの邸 ──


朝の光が、凍てついた空気の中に淡く滲んでいた。

庭の木々は霜をまとい、枝先からは細かな氷片がきらめきながら落ちていく。


貧民街での炊き出しから一夜明けた朝。

離れの邸では、侍女や侍従たちがぱたぱたと行き交い、衣装箱を運ぶ音が絶えない。


「帝都への帰還命令、ですか……?」


朝早く、ルガードが訪れて告げた言葉に、王女は驚きながらそう問い返した。

旧都での滞在は、まだ七日ほど残っていたはずだ。


ルガードは軽く肩を竦めて笑った。

「伝書鳩で至急帰還せよとの早便が届いた。詳しいことはまだわからんがな。

 続報は早馬で届くだろうが――いずれにしろ、殿下にはすぐにお発ちいただかねばならん」


その声音には、必要以上の重さはなかったが、事実としての緊張がかすかに滲んでいた。


王女はわずかに眉を寄せた。

「……何か、起きたのですね」


ルガードは一瞬だけ目を細め、ゆるやかに首を振る。

「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。だが、今は命に従うだけだ。

 道中は私の麾下の精鋭を付ける。安心してくれ」


その穏やかな言葉から、隠し事の気配は感じられなかった。

それでも胸の奥に、淡い不安が残る。


王女は外の光に目を向けた。

冬の陽が、白い息のように庭の雪を淡く包み込んでいる。


帝都――あの乾いた石の城が、自分を呼び戻そうとしている。


何が、あの場所で待っているのだろう。

胸の奥に、薄く冷たい風が吹いた。





── 総督城・門前 ──


急ぎの支度を終え、王女の一行は昼前には出立の準備を整えていた。荷は積み込まれ、馬車の車輪には新しい油が差されている。

城門の前では護衛の兵たちが列をなし、冬めいた風が旗を鳴らしていた。


馬車の扉が開かれ、ミレイユが黙って乗車の準備を整えている。

王女は外套の裾を押さえ、総督城の門前に立っていた。

そこへ、ルガードがゆるやかな足取りで歩み寄る。


老将の顔には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいた。

「まったく、せわしない話だ。……まぁ、帝都というところは、いつも何かしら動いておりますからな」


軽く肩を竦め、柔らかく続ける。

「今度は、もう少し穏やかな日和にいらしてください。できれば、陛下とご一緒に――。とはいえ、あの男と一緒では、殿下もゆっくり羽根を伸ばせませんかね」


最後の一言に、冗談めかした響きが混じる。

王女はわずかに目を丸くしたが、すぐに小さく笑みを返した。


短い沈黙が、ふたりの間を通り過ぎる。

馬の嘶きが上がり、旗が冬風に鳴った。


ルガードは、ふと空を仰ぎ、低く呟くように続ける。

「帝都は……真面目な若者たちで動いている。良くも悪くも、な」


声には、どこか遠くを懐かしむような響きがあった。

「私のような老骨には、思うところもありますが――まあ、やってみろや、と思ってますよ。俺たちの世代が何かを成したように、今は彼らが、自分たちのやり方で時代を切り拓く番なんでしょう」


王女は小首を傾げるように視線を向け、ルガードの言葉の意味を測る。


“彼ら”――おそらく、ダリオスらを指しているのだろう。

だが、あの冷徹で揺るがない男を「時代を切り拓く真面目な若者」と呼ぶ声に、胸の奥で小さな違和が生まれる。


ルガードはその様子に気づいたのか、ふっと目を細め、静かに笑った。


「……ただな。まっすぐすぎるんですよ、あいつらは」

低く、少しだけ寂しげに笑う。

「一直線に突き進むのは悪くない。だが、風を読む余裕も要る。――殿下。

 時には、立ち止まってもいいんですよ。焦って進むより、風に吹かれる時間の方が役に立つこともある」


王女の目が、わずかに揺れた。

その奥に、何かを確かめるような光が宿る。


ルガードは、その瞳をまっすぐに見つめながら言った。

「迷い、惑う時には――その胸の中にある灯火を確かめなさい。どれほど小さくても、それだけが、あんた自身を導く光になる」


その眼差しには、戦場をくぐり抜けた者の厳しさと、歳月を越えた深い温もりが混じっていた。


言い終えると、ルガードは周囲の景色へ目を向けた。

眼下に広がる冬の陽を受けた屋根瓦、石畳を渡る風、遠く霞む山影。

そのすべてをゆっくりと見渡しながら、穏やかに言葉を落とす。


「この旧都はな。帰れる故郷を持たない者たちの、せめてもの“拠り所”みたいなものであってくれればと、そう思ってるんですよ」


帰れる故郷を持たない者たち――。

王女はその言葉を胸の内で反芻する。

なぜか、ダリオスやセヴラン、そしてミレイユの顔が浮かんだ。


そばの気配がかすかに揺れた。

王女の背後で、ミレイユが視線を落としながら、静かに外套の裾を整えていた。


王女の表情を見て、ルガードはふっと口元を緩めた。

「……だから、その灯が揺らぎそうになったら――ここへ来りゃいい。風の中でも、火の守り方くらいは教えてやれますよ」


その声に呼応するように、風が吹いた。

総督城の高い城壁を越え、遠く山脈の方角から吹きおろす冬の風だった。


王女はその風の中で、ゆっくりと頭を下げる。

「……はい。ありがとうございます、ルガード閣下」


老将は、わずかに目を細めて笑い、

それから小さく、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。

「……あいつは、自分にも人にも厳しいからな」


ぽつりと落とされた言葉は、冬の風に溶け、静かに消えていった。




ルガードの背後に控えていた副官カリスが一歩進み出た。

「殿下、道中の警護はすべて整っております。雪もそれほど深くはないようです。ご安心を」

その声音は端正で落ち着いていたが、どこか名残惜しさが滲む。


王女は小さく頷き、柔らかく微笑んだ。

「滞在中は、何かとお世話になりました。……ありがとうございました、カリス殿」

カリスは胸に手を当て、恭しく頭を垂れた。

「身に余るお言葉です。――どうか道中、ご無事で」


王女が裾を整えて、静かに馬車に乗り込む。

その背を見届けてから、ミレイユが一歩遅れて続いた。

扉が閉じる音がして、御者が手綱を鳴らす。車輪が雪を踏みしめ、白い息を吐きながらゆるやかに動き出した。


ルガードとカリスは並んで、しばらく遠ざかる馬車を見送っていた。

白い息が二人の間に立ちのぼり、冬の光の中で溶けていく。

老将の灰青の眼差しは、どこか遠い場所をも見つめているようだった。若い副官は、その視線の先を追うように、静かに目を細める。


── 帝都へ、再び灯火が向かう。


それを送り出す旧都の風は、凛として、どこか懐かしく温かかった。

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