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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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12 理の外の温もり

── 午前 旧都・総督城 ──


朝の光が、白石の回廊をまっすぐに満たしていた。

窓の外では、昨夜の雪が薄く積もり、庭の枝から白いかけらが静かに落ちている。

光が床に淡い筋を描き、静けさだけが城内に漂う。

その静寂を断ち割るように、ミレイユの硬い声が響いた。


「ルガード様が非番の日に、個人的に炊き出しを行うことまでは――百歩譲って認めましょう。

 ですが、その“非番のルガード様”に姫様が付き添うなど、到底なりません」


ルガードは腕を組み、面白そうに笑う。

「殿下が希望されているんだ。旧都の民の一人である俺個人の行いを、王女殿下が“視察”なさる――立派な仕事じゃないか」


ミレイユの眉間に深い皺が刻まれる。

ルガードは悪びれもせず笑って続けた。

「お役目の合間に民の暮らしを見る。陛下も本望だろうよ」


しばしの沈黙。

ミレイユは唇を結んだまま、ルガードを見上げていたが――やがて、静かに息を吐いた。

「……姫様の身の安全は、責任をもってお守りください」

「おう、もちろんだ」

ルガードは愉快そうに笑い、軽く顎をしゃくった。

「久しぶりにやってみるか?」


示された先、朝の光を浴びる中庭には、今朝仕留められ、血抜きだけ済ませた猪が置かれていた。


「……私が、ですか」

ミレイユは無表情のまま、わずかに眉を寄せた。


「昔みたいに手際が残ってるか、確かめてみようと思ってな。それに、二人でやった方が早い」


ふぅ、とミレイユは短く息を吐いた。

「……承知しました。では、着替えて参ります」

そう応じると踵を返す。


「姫様は奥でお待ちを」

そう言い残す声に、王女は静かに首を振る。

「邪魔でなければ――見せて」


その言葉に、ミレイユがわずかに振り返る。

「血の匂いに慣れておられないでしょう。お気を悪くなさらぬよう」





淡い朝の光が、刃に鈍く反射していた。

手際よく吊るされた猪の前で、ルガードとミレイユは言葉少なに動いている。


皮を剥ぎ、脚を落とし、肉を削ぎ落とし、肋骨を折る。

刃が静かに走るたび、白い息だけが冷えた空気に溶けていく。

動きは淀みなく、互いの手が自然に流れを補っていた。


「……腕は鈍っちゃいねぇな」

ルガードがぽつりと漏らす。

ミレイユは答えず、刃を洗った。指先から、氷のような水が滴り落ちた。


王女はその光景を見つめながら、胸の奥に言葉にしがたい感覚を覚えていた。


――これは、貴族の嗜みとしての“狩猟”ではない。


生きるための技。

飢えと寒さの中を生き抜いた者だけが、身に刻む動き。


なぜか、そんな確信めいた思いが、王女の胸に静かに広がっていった。





── 昼 貧民街 ──


降り積もった雪が道の端に固まり、踏みしめるたびにかすかな音を立てた。

石畳の途切れた先、崩れかけた家々が肩を寄せ合うように並んでいる。その一角で、煙と煮汁の匂いが、低い空の下にゆるやかに漂っていた。


広場の片隅に据えられた大鍋から、白い湯気が立ちのぼる。

ルガードが腕をまくり、木杓を振るうたび、湯気の向こうに淡い陽が滲んだ。


「ほらよ、こぼすなよ!」

豪快な声が響き、木杓で掬われた汁が木椀へと注がれていく。

皺だらけの老人や、骨ばった手の子どもたちが列をなし、両手で器を受け取っていった。


ルガードの隣りで、王女は黙々と木椀を並べていた。

袖を捲り上げた手元に、かすかな蒸気が触れては消える。


その傍らで、カリスが穏やかな声で人数を数える。

「ひと鍋分は――あと三十。……水をもう少し足しましょう、ミレイユ殿」


「はい」

短く応じたミレイユが、重い水桶を軽々と持ち上げ、鍋へと注ぎ入れる。

熱気が立ちのぼり、空気の層が揺らいだ。


やがて、ミレイユが冷ややかに口を開く。

「……カリス様も、“非番の日の個人的な活動”ということでよろしいですか?」


「……本日は、視察中の殿下の警護ということで」

苦笑を浮かべたカリスが、肩をすくめて答える。


鍋の湯気の向こうに、炊き出しの手伝いに集まった人々の姿があった。

貧民街の住人ではなく、少し離れた職人街や商家の者たち――旧都の市民。


「ルガード様の炊き出しなら、手伝わないわけにはいきませんよ」

笑いながら木皿を運ぶ青年、火の番を交代する老女、配るための器を拭く娘。

袋に詰めた穀物や干し肉を抱えてやって来る者たちの姿もある。


ルガードの“個人的な炊き出し”では、こうして毎回、食材を持ち寄る者や手を貸す者が、自然と集まってくるという。


やがて鍋の底が見え、最後の一椀が子どもの手に渡ると、人々は小さく息をつき、後片づけを始めた。

湯気が薄れ、風が通り抜けていく。


王女は手元の木椀を片づけ終えると、濡れた指先をそっと拭い、少し離れた場所から、人々の様子を静かに見守った。


――施療院で見てきた「仕組みとしての救い」とは違う。

ここには帳簿も規定もなく、それでも人が動き、食が分けられていく。


「――どうでしたか、殿下。貧民街の炊き出しの感想は」

背後から低い声がかかった。


振り向くと、ルガードが逆光の中に立っていた。


王女は少し考えてから、ゆるやかに言葉を選ぶ。

「……帝国でも、このように人々が自然に集まって助け合うのですね。少し驚きました。けれど……こういう形の方が、私には馴染みがあります」


ダリオスの治める帝国では、どこでも施療院のようなやり方が主なのかと思っていた。


「旧都は古くからの街なんでね。もともと助け合いの風土があるんですよ」

ルガードは穏やかに笑い、続けた。

「古い住民たちは、皆、身内みてぇな繋がりで、自然と支え合ってきた。流れ者が増えて貧民街もできたが――長い年月のうちに、そいつらとも不思議と繋がりができていく」


「……身内、ですか」

王女の問いに、ルガードはうなずく。


「ああ。誰かを“助ける”っていうより、“放っとけねぇ”んです」


王女はふと、故国の光景を思い出した。

神殿での炊き出し、祈りと共に配られる施し――あれも確かに慈しみではあったが、この“身内のような結びつき”とは、少し違っていた。


(本当に、場所が変われば、人の繋がりの形も変わるのだ……)


王女は、胸の奥で静かにそう実感した。


ルガードは腕を組み、穏やかに続けた。

「……だからまぁ、帝都の施療院の仕組みを、そのまま旧都に持ち込んだら、うまくは回らねぇでしょうな」


王女は、問いを含むようにその横顔を見上げる。


「“放っとけねぇ”って気持ちでやってきたことを、命令や制度にされちまったら……さて、どうなるか、って話ですよ」

ルガードは口の端を上げ、どこか試すような笑みを見せた。


その言葉に、王女の脳裏に、帝都の施療院を初めて視察した日のことがよぎった。

――ユリオが言っていた。

制度が整う前は、薬屋が余った薬草を分けてくれたり、近所の女たちが手伝いに来てくれたりしていた。

けれど今は、それがない。

制度ができたことで、そういう“つながり”は、切れてしまったのだと。


王女は少し逡巡し、ためらいがちに口を開いた。

「……私は、制度や規律で救うよりも、このように人の手で支え合う方が、ずっと“人らしい”気がするのですが……。それでは、いけないのでしょうか」


ルガードは目を細め、軽く肩をすくめた。

「さて、どうでしょうな。――そういったことを考えて、陛下に報告するのも殿下のお役目ですぜ」

にやりと笑う視線には、どこか意地の悪いようでいて、少しの期待の色があった。


王女は息を呑む。

確かに、「疑念を覚えたら報告せよ」とダリオスから最初に言われていたが――。


目の前では、集まった人々が、炊き出しの片づけを手際よく終えようとしている。

笑い声が風に混じり、湯気の残る鍋を囲む姿が、穏やかな温度でその場を満たしていた。


(これでいいのではないか……)


そう思う。けれど、あの男の前で“これでいい”と言い切るだけの確信は、まだ自分の中に育っていないことに気づく。


「陛下からは、『善意や慈善は続かない』と、そう言われたのです……」


その言葉にルガードは、懐かしそうに目を細めた。

湯気の向こうに、別の景色が滲みはじめる。




── かつて、この旧都がまだ共和国の首都だった頃。


同じこの広場で、大鍋を囲んでいた。

あの日も冬の盛りで、風は冷たかったが、鍋の匂いが街をあたためていた。


人々が器を手に笑い合う様子を、ルガードは少し離れた場所から眺めていた。

焚き火のそばに立ち、手元で煙草に火をつけながら、隣に立つ青年へと目をやる。


「お前は、なんでそうやって、何でも“決まり”にして縛らねぇと気が済まねぇのかね。人ってのは、こういう風に勝手に動くもんだろうが。これでいいじゃねぇかよ」


煙をくゆらせながら、ルガードは笑った。

焚き火の火花が、ぱちりと弾けた。


青年――若き日のダリオスは、腕を組んだまま火を見つめ、静かに応じた。

「お前のこうやって、人を巻き込んで、人を助けてやれるところはすごいさ。

 だけど、それは“お前”という人間だからできることだ。誰にでもできることじゃない」


ルガードは鼻を鳴らした。

「誰にでもできねぇからって、やらねぇ理由にはならんだろ。むしろ、なおのこと――できる人間がやるのがいいだろ」


焚き火の光が、ダリオスの横顔を赤く照らした。

「けどな――もしお前がいなくなったら?

 お前によって助けられていた者たちは、どうなる?」


「そんなの、ここにいる誰かがきっと続けるさ」


ダリオスは小さくため息をついた。

「最初は誰かが続けるだろう。だが、長くは持たん。

 お前だからこそできることを、誰かが真似て続けられるものではない」


その言葉に、ルガードは一瞬だけ口を閉ざした。

焚き火の音が、やけに大きく聞こえる。


(……自分は、ただの自己満足のためにやっているのかもしれんな)


そんな思いが、胸の底をかすめた。

別にそれが悪いとも思わなかったが――。


(……助け“続けられる”かどうか、か)


明日も、来年も、その先、自分がいなくなった後も――。


(……そんな考え方があるのか)


火の粉が、ぱちりと弾けて闇に消える。

その一瞬の光の中で、ルガードは隣りの若者を見た。

若いのに、どこか遠くを見ている眼。


その刹那、直感が、言葉にならぬまま心臓を打った。


――目の前のこの若者は、己のいない“先”を見ている。


長く戦場を渡ってきた彼にとって、それは初めて触れる種類の衝撃だった。


この若者は、自分が消えた後こそを見据えて国を編もうとしている。

人を惹きつけるだけの力を持ちながら、自らを要としない仕組みを築こうとしている――。


“主がいなくとも立つ国”――そんなものを、本気で。


胸の奥に、ゆっくりと熱が広がっていく。

息子か弟のように思っていたこの男が、どんな国を築こうとしているのか。

それは到底想像もつかなかったが――見てみたいと思った。


その時、ルガードはダリオスに力を貸すことを決めたのだった。



―――・・・



記憶が遠のくと、再び灰色の空が戻ってきた。


「……陛下の言うことは、もちろん、その通りでしょうな」

ルガードは空を仰ぎ、ゆるやかに口調を落とした。


「たとえば帝都は、もともと要塞を無理やり街にした場所だ。北や東から人がどっと流れ込んできて、土地にも人にも余裕がねぇ。繋がりも浅く、生きるのに精一杯な者が多い。だからこそ、善意や慈善に頼らず回る仕組みってのが、大事になるんです」


少し間を置いて、ルガードは苦味を帯びた笑みを浮かべた。

「他にも、たとえば南州なんかは――」

肩を竦めながら続ける。

「あそこは商売人気質ですからね。制度と利害をうまく絡めりゃ、案外うまく回るんじゃないですかね。“善意”より“損得”で動く方が早い連中だ」


軽口のようでいて、その言葉には土地ごとの空気を知る者ならではの確信があった。

ルガードは少し間を置き、再び王女の方へ視線を戻す。


「……ですが」

低く、ゆるやかに言葉を継ぐ。

「すべての場所に通じる“仕組み”なんてものは、ないんじゃないですかね。少なくとも私は、そう思いますよ。土地によって、人の根っこが違うんですから」


風が吹き抜け、凍てた地面の上を薄い雪片が転がっていった。

王女は静かにその言葉を聞きながら、胸の奥に広がる感覚を言葉にできずにいた。


「そして――」

ルガードは穏やかに目を細めた。

「それは陛下も重々承知の上で、模索されてるんじゃないですかね。……だからこそ、根っこの違う殿下に、施療院の仕事をお任せになったんでしょう」


風が吹き、雪の舞う広場に落ち葉が混じって回る。


思いがけない言葉に、王女の胸の奥がかすかに揺れた。

あの男が――模索など、するだろうか。

すべてを見通すように振る舞い、揺らがぬ支配者として在り続ける、あの人が。


ましてや、自分に彼の足りぬものを補わせるなど――そんなはずがない。

だがその否定は、どこか頼りなく、胸の中でほどけていく。


そのとき、不意に記憶がよみがえった。

いつかの夕餉の席。灯の下で、彼が語った言葉。


――『だからこそ、お前をここに座らせた。仕組みの中で、人がまだ“人”であると証す者――その役を担えるのは、俺ではない』


あの時は、ただの“役割”の話だと思っていた。自分に向けられた“期待”などではなく。

けれど今、ルガードの言葉が、その解釈を静かに揺らしていく。


煙の筋が空にほどけ、灰色の雲の間に吸い込まれていった。

その下で、広場の熱だけが、まだかすかに残っていた。




 * * *




王女とルガードが言葉を交わす少し離れた場所で、

ひとり路地の奥へと視線を落とすミレイユの姿があった。


その先――崩れかけた石壁の隙間に、首の欠けた女神像が静かに佇んでいる。


――まだ幼かった頃。

冷たい石畳の上で身を縮め、ミレイユはその像を見つめていた。

飢えた腹を押さえながら、人々が祈る姿をただ真似して、細い指を組んだ。


お腹を満たすパンを。

冷たい夜をしのぐ寝床を。

せめて、明日の朝まで生きていられますように――。


(……それでも、何かを期待していたわけではなかった)


祈っても、日々は飢えと寒さの繰り返し。

祈りは答えをくれず、明日を約束することもなかった。

それが、この街の“常”だった。


けれど――あの日。


差し伸べられたのだ。

大きく、力強い手が。

痩せこけた幼い身体を、容赦なくも確かに引き上げた。


風が通り過ぎ、欠けた女神像の裾に積もった雪がぱらりと崩れ落ちる。

ミレイユの瞳に、かすかな光が揺れた。





── 夕刻 総督城 ──


空が鈍い紫に染まり始めた頃、ルガードが総督城へと戻ると、出迎えた侍従が一通の小筒を恭しく差し出した。

「帝都より、伝書でございます」


受け取った小筒の封を切ると、中から薄い羊皮紙が一枚、するりと現れた。そこには、簡潔でありながらも緊張感を孕んだ文言が記されていた。


---


《伝書》


王女殿下 至急帰還されたし。

帰還の途上における警護 万全を期すこと。

備え 怠りなきよう。


帝城執政官

セヴラン


---


ルガードの目が細められる。

読み終えた手元の紙を見つめたまま、ふうっと短く息を吐いた。


灰色の空が、遠くで沈みかけていた。

静けさの中、冬の匂いを含んだ風が、古城の石壁を撫でていった。

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