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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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11 風の記憶

── 旧都・総督城・離れの邸 ──


年が明け、旧都に雪の季節が訪れた。

それまで乾いた寒さだけだった空に、白いものが静かに舞いはじめている。


暖炉の火がぱちりと音を立てたそのとき――

扉の向こうから、低く朗らかな声が響いた。

「やあ、失礼しますよ」


振り向けば、分厚い外套を肩にかけたルガードが立っていた。

外気の冷たさをまとい、肩口には細かな雪がわずかに残っている。


王女は立ち上がり、軽く会釈した。

「ルガード閣下」


「これから国境に行くんだが、一緒にどうですかい」


唐突な言葉に、王女は思わず瞬きをした。

暖炉の炎がぱち、と小さく弾ける。

「……国境、ですか?」


ルガードは軽く顎を撫でた。

「年明けですしね、国境の警備兵たちを労いに行くんです。寒さの中で張り付いてる連中に、少しばかり熱い酒でも振る舞ってやろうかと」


王女は戸惑いを隠せずにいた。

(どうして――私を、そこへ?)


慰問なら将が行くだけで十分のはずだ。自分が同行する理由など、どこにも思い当たらない。


ルガードはその逡巡を察したのか、穏やかに笑った。

「昔行った場所を再訪してみるとね、”今の自分の場所”ってのを確認できるもんですよ」


王女は小さく息をのむ。

灰色の瞳の奥に、冗談めかした言葉とは裏腹な、静かな意図が宿っているように見えた。

胸の奥に、かすかな波が広がる。


窓の外では、冬の陽が白く差し、雪を被った庭の木々が淡く光を返していた。





── 国境への街道 ──


曇天の下、雪を踏みしめる音だけが続いていた。

白く霞む旧都の郊外を抜け、騎馬の一行は南西へ向かっている。

風は刺すように冷たく、吐く息はすぐに白く散った。


王女はルガードの前に乗せられ、逞しい腕に支えられながら揺れる馬上にいた。

厚い外套に包まれていても、頬をかすめる風が痛いほど冷たい。

それでも、背後から伝わる老将の体温が奇妙に安堵を与えていた。


「寒くはありませんか、殿下」

ルガードが笑い混じりに言う。

「……ええ。大丈夫です」

王女は小さく答え、視線を横へ向けた。


雪煙の中を並走する影――ミレイユだった。

彼女は無言のまま、手綱を握り、軽やかに馬を操っている。

風に煽られても姿勢はぶれず、灰の外套の裾が馬の腹を打つたびに、まるで一体となって進むようだった。


(……ミレイユは、馬に乗れるのね)


思わず胸の内で呟く。

自分も幼いころに手ほどきを受けたことはあったが、儀礼の延長にすぎなかった。

こうして荒れた雪原を駆けることなど、一度もない。

ミレイユの手綱を引く仕草は自然で、迷いがなかった。


(ルガード閣下の養い子ならば、そういう技も身につけているのは当然かもしれない)


そう考えながら、ふと先日のルガードの言葉を思い出す。

――『もっとも、俺が教えたのは飯の炊き方と、猪の解体の仕方ぐらいですがね』


乗馬のことはなかった。

ならば、彼女にそれを教えたのは――。


雪の白に溶けるように、王女の心にひとつの影が差す。

闇色の髪。低く、よく通る声。


馬の歩調がわずかに揺れ、思考が途切れた。

吹きつける風の音の中、黒髪の男の面影が淡く遠のいていく。





── 西辺国境 ──


旧都を発って二日。

雪を踏みしめながら進んだ一行は、ようやく岩肌を背にした峠の関所へと辿り着いた。

灰色の石壁に囲まれた砦は、冬の風に晒されながらも静かに佇んでいる。

旗が凍りつく音と、遠くで鉄具を打つ音だけが響いていた。


王女は馬を降り、息を吐いた。

白い煙のように立ちのぼったそれが、すぐに風に散ってゆく。


二年前――自分が越えようとして、越えられなかった境。

足元の雪を見つめた瞬間、胸の奥にざらつく記憶が甦った。


(……あの時も、風はこうして吹いていた)


粗末な外套の裾を握りしめ、震える指でマルタにもらった古い通行証を差し出したこと。

兵士の目を、逸らせぬまま見つめ続けたあの瞬間の息苦しさ。

そして――門を抜けた先で、自由を掴んだと思った刹那に崩れた世界。


今、同じ石壁の前に立ちながら、王女は静かにまぶたを伏せた。

春の風は若葉の匂いを運んでいたが、今はただ、氷の匂いが鼻を刺す。


背後で、兵の声と笑いがする。

ルガードが兵たちと何事かを語り合い、労いの言葉を交わしているのだろう。

やがてその声が途切れ、重い足音が近づいてくる。


「お待たせしました、殿下」


振り向くと、ルガードが外套の裾を払いながら立っていた。

白い息を吐き、頬に笑い皺を刻んでいる。


「さて――じゃあ、国境の風を浴びに行きますか」


王女は思わず問い返した。

「……いいのですか?」


「ええ」

ルガードはにやりと笑い、手を軽く振った。

「国境の“向こう”へは行かせてさしあげられませんがね。その手前までなら構いませんよ」





冬の陽は淡く、空と大地の境が曖昧だった。

石畳の上に積もった雪が、風に削られては、細かな粒となって舞い上がった。


王女は息を吸い込んだ。

冷たい空気が胸の奥まで刺さり、思わずまぶたを閉じる。

……その瞬間、風の匂いが変わった。


冷たい空気の中に、確かにあの日の匂いがあった。

土と草と、陽光の、あの自由の匂い。


(……同じ風……)


心臓が一度、大きく鳴った。

次の瞬間、記憶が押し寄せる。


人の列に紛れ、粗末な外套を握りしめていた自分。

足を震わせながらも、陽光に霞む街道の先を見つめていた自分。

――越えられた。風を吸い込んだ。自由がそこにあると思った。


けれど。


静かなセヴランの声。

逃げた。地に押し倒された。

乾いた砂と血の味。


――『全ては陛下の手の内だったのです』

腕を掴まれ、冷たい手に押さえつけられ、その声が耳の奥に突き刺さった。


風が雪原を渡り、凍てついた息が頬を刺す。

王女はその風の中に立ち尽くしていた。

唇をきつく噛みしめ、国境の向こう――白く霞む丘陵の果てを、睨むように見つめて。


足元の雪がわずかに鳴る。

隣りに影が伸び、ルガードがそっと並び立つ。

言葉もなく、しばらく二人は同じ方向を見つめていた。


王女はやがて、静かに口を開いた。

「……連れ戻されたことは仕方がないと思っています」


風がその声をさらう。

「私が愚かだっただけですから」

視線は動かない。琥珀色の瞳は、ただ雪に溶ける地平を見つめていた。


ルガードは何も言わず、王女の言葉をただ聞いていた。


王女は今も、自分は何者でもない――そう思っている。

だが、王家の最後の血として、この身を「何者か」に仕立て上げようとする人々がいる。

それを、もう彼女は薄々と理解していた。


(もしも、あの時、国境を越えられていたとして……)


その先に待つのは、自由ではなかっただろう。

亡国の姫を拾い上げ、利用しようとする者は必ずいたはずだ。

そして、自分に関わった誰かの未来を、また奪ってしまったかもしれない。


雪が静かに舞い、白い粒が彼女の髪に降り積もる。


「……ただ」

吐く息が白く散る。

「陛下の掌の上で弄ばれたことは、今も許せないのです」


ルガードの横顔は変わらず静かだった。


「連れ戻すなら、すぐに連れ戻せばよかったのに」


王女の声が少し震えた。


「わざわざ三か月もの間、私に仮初めの自由を与えて……

 私の決死の思いも、手にした自由の感覚も――

 すべては“俺の掌の上だ”と、あの人はそう笑ったのです」


その言葉の響きに、凍てついた空気がわずかに張り詰めた。

ルガードはしばらく黙っていたが、やがて口の端を上げた。


「……ちげーねぇや」

苦みを含んだ笑いが漏れる。

「それは、怒っていいと思いますよ」


王女は驚いたように彼を見た。

けれど老将の顔には、からかいの色も、同情の影もない。

ただ、冬の光に溶けるような、穏やかな笑みがあった。


しばし、風の音だけが二人の間を流れた。

その静けさの中で、笑みがゆるやかにほどけていく。

ルガードはまっすぐに王女の顔を見やり、静かに言葉を継いだ。


「……ただね。別にあいつを弁護するつもりはありませんが」


短く息を吐く。


「もしも殿下が、すぐに連れ戻されていたなら――

 殿下は今のような殿下には、なっておられなかったんじゃないですかね」


王女の瞳が揺れた。

胸の奥が、ぎゅっとつかまれたように痛む。


(……今の、私……?)


風が強まり、雪原の白が舞い上がる。

ルガードは視線を遠くに向け、口元に苦笑を刻みながら、肩をすくめた。

「……まぁ、それも含めて、殿下には癪でしょうがね」


王女は黙ったまま、散る雪を見つめた。

頬にあたる冷気は鋭い。けれどそれ以上に、胸の奥にその言葉が静かに染みていく。


ルガードの声が、雪の合間を縫うように続いた。

「ただ、あいつは……殿下に、ちょっくら“風”を与えてみただけなんですよ」


王女は、ゆっくりとルガードの方に顔を向けた。

老将の目は、遠い空を見つめたまま穏やかだった。


「その風を受けて、どんな火を灯して、どう燃えるか――

 それは、あいつにどうこうできることじゃない。殿下ご自身が決めることです」


静かな声音。

雪の舞う中で、ひとつひとつの言葉が空気を震わせた。


「……あいつが殿下に与えているのは、”機会”だと思いますよ」


「機会……」

王女は反芻するように呟いた。


ルガードはうなずき、氷を纏った木々の向こうへ目をやる。

「理不尽に何かを奪うように見せて――その実、誰にも奪えない“何か”を、相手に掴み取らせようとする。あいつには、そういうところがある」


王女の眉がわずかに動く。

雪明かりに照らされたその横顔に、かすかな光が宿った。


ルガードは小さく笑う。

「ま、あいつはそんな手の内を殿下に知られたくはないでしょうがね」

ちらりと横目で王女を見る。

「だからこれは、殿下に代わって俺からの――あいつへの意趣返しですよ」


悪戯っぽく言って、肩を揺らす老将。

その笑いには、どこか慈しみのようなものが滲んでいた。


不意に吹いた風が、二人の間の雪を巻き上げる。王女はその白の中で、微かに唇をゆるめた。

ほんの一瞬だけ、冬の空に笑みが溶けた。




気づけば、風はいつの間にか和らぎ、雪の粒も静かに地へと落ちていた。

遠くでは門番の掛け声が交わり、陽は白い空の向こうへ傾きつつある。


ルガードが外套の襟を立て直しながら、ゆっくりと口を開いた。

「……さて、そろそろ戻りましょうか」


王女は最後にもう一度だけ、雪の丘を振り返った。

そして静かに頷く。

「……ええ」


二人は並んで歩き出す。

踏みしめた雪が柔らかく沈み、足元から、静けさが立ち上るようだった。


しばらく歩いたのち、ルガードがふと口を開く。

「よければ、宿場町にも立ち寄られますか?」


王女の足が、わずかに止まりかけた。

胸の奥で、何かが脈を打つ。


けれど、しばしの沈黙ののち、静かに首を振った。

「……今は、いいです」


王女を見つめる灰の瞳が、穏やかに細められる。


「いつかは訪れたいと思っています。……でも、それは――」

風に乗って、言葉が白く流れていく。

「もう少し、自分の道を定めることができてから……きちんと立つことができるようになってから」


その時に、ようやくマルタの前にまっすぐに立って、“ありがとう”を言えるような気がした。


「だから――その時に」


ルガードは一言も挟まず、ただ王女の横顔を見つめていた。

やがて、ゆるやかに頷く。


「……なるほど。ならば、その時にご案内しましょう」


遠く、砦の松明が灯り始める。

雪の上に二人の影が並び、ゆっくりと帝国の地へと戻って行った。

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