11 風の記憶
── 旧都・総督城・離れの邸 ──
年が明け、旧都に雪の季節が訪れた。
それまで乾いた寒さだけだった空に、白いものが静かに舞いはじめている。
暖炉の火がぱちりと音を立てたそのとき――
扉の向こうから、低く朗らかな声が響いた。
「やあ、失礼しますよ」
振り向けば、分厚い外套を肩にかけたルガードが立っていた。
外気の冷たさをまとい、肩口には細かな雪がわずかに残っている。
王女は立ち上がり、軽く会釈した。
「ルガード閣下」
「これから国境に行くんだが、一緒にどうですかい」
唐突な言葉に、王女は思わず瞬きをした。
暖炉の炎がぱち、と小さく弾ける。
「……国境、ですか?」
ルガードは軽く顎を撫でた。
「年明けですしね、国境の警備兵たちを労いに行くんです。寒さの中で張り付いてる連中に、少しばかり熱い酒でも振る舞ってやろうかと」
王女は戸惑いを隠せずにいた。
(どうして――私を、そこへ?)
慰問なら将が行くだけで十分のはずだ。自分が同行する理由など、どこにも思い当たらない。
ルガードはその逡巡を察したのか、穏やかに笑った。
「昔行った場所を再訪してみるとね、”今の自分の場所”ってのを確認できるもんですよ」
王女は小さく息をのむ。
灰色の瞳の奥に、冗談めかした言葉とは裏腹な、静かな意図が宿っているように見えた。
胸の奥に、かすかな波が広がる。
窓の外では、冬の陽が白く差し、雪を被った庭の木々が淡く光を返していた。
── 国境への街道 ──
曇天の下、雪を踏みしめる音だけが続いていた。
白く霞む旧都の郊外を抜け、騎馬の一行は南西へ向かっている。
風は刺すように冷たく、吐く息はすぐに白く散った。
王女はルガードの前に乗せられ、逞しい腕に支えられながら揺れる馬上にいた。
厚い外套に包まれていても、頬をかすめる風が痛いほど冷たい。
それでも、背後から伝わる老将の体温が奇妙に安堵を与えていた。
「寒くはありませんか、殿下」
ルガードが笑い混じりに言う。
「……ええ。大丈夫です」
王女は小さく答え、視線を横へ向けた。
雪煙の中を並走する影――ミレイユだった。
彼女は無言のまま、手綱を握り、軽やかに馬を操っている。
風に煽られても姿勢はぶれず、灰の外套の裾が馬の腹を打つたびに、まるで一体となって進むようだった。
(……ミレイユは、馬に乗れるのね)
思わず胸の内で呟く。
自分も幼いころに手ほどきを受けたことはあったが、儀礼の延長にすぎなかった。
こうして荒れた雪原を駆けることなど、一度もない。
ミレイユの手綱を引く仕草は自然で、迷いがなかった。
(ルガード閣下の養い子ならば、そういう技も身につけているのは当然かもしれない)
そう考えながら、ふと先日のルガードの言葉を思い出す。
――『もっとも、俺が教えたのは飯の炊き方と、猪の解体の仕方ぐらいですがね』
乗馬のことはなかった。
ならば、彼女にそれを教えたのは――。
雪の白に溶けるように、王女の心にひとつの影が差す。
闇色の髪。低く、よく通る声。
馬の歩調がわずかに揺れ、思考が途切れた。
吹きつける風の音の中、黒髪の男の面影が淡く遠のいていく。
── 西辺国境 ──
旧都を発って二日。
雪を踏みしめながら進んだ一行は、ようやく岩肌を背にした峠の関所へと辿り着いた。
灰色の石壁に囲まれた砦は、冬の風に晒されながらも静かに佇んでいる。
旗が凍りつく音と、遠くで鉄具を打つ音だけが響いていた。
王女は馬を降り、息を吐いた。
白い煙のように立ちのぼったそれが、すぐに風に散ってゆく。
二年前――自分が越えようとして、越えられなかった境。
足元の雪を見つめた瞬間、胸の奥にざらつく記憶が甦った。
(……あの時も、風はこうして吹いていた)
粗末な外套の裾を握りしめ、震える指でマルタにもらった古い通行証を差し出したこと。
兵士の目を、逸らせぬまま見つめ続けたあの瞬間の息苦しさ。
そして――門を抜けた先で、自由を掴んだと思った刹那に崩れた世界。
今、同じ石壁の前に立ちながら、王女は静かにまぶたを伏せた。
春の風は若葉の匂いを運んでいたが、今はただ、氷の匂いが鼻を刺す。
背後で、兵の声と笑いがする。
ルガードが兵たちと何事かを語り合い、労いの言葉を交わしているのだろう。
やがてその声が途切れ、重い足音が近づいてくる。
「お待たせしました、殿下」
振り向くと、ルガードが外套の裾を払いながら立っていた。
白い息を吐き、頬に笑い皺を刻んでいる。
「さて――じゃあ、国境の風を浴びに行きますか」
王女は思わず問い返した。
「……いいのですか?」
「ええ」
ルガードはにやりと笑い、手を軽く振った。
「国境の“向こう”へは行かせてさしあげられませんがね。その手前までなら構いませんよ」
冬の陽は淡く、空と大地の境が曖昧だった。
石畳の上に積もった雪が、風に削られては、細かな粒となって舞い上がった。
王女は息を吸い込んだ。
冷たい空気が胸の奥まで刺さり、思わずまぶたを閉じる。
……その瞬間、風の匂いが変わった。
冷たい空気の中に、確かにあの日の匂いがあった。
土と草と、陽光の、あの自由の匂い。
(……同じ風……)
心臓が一度、大きく鳴った。
次の瞬間、記憶が押し寄せる。
人の列に紛れ、粗末な外套を握りしめていた自分。
足を震わせながらも、陽光に霞む街道の先を見つめていた自分。
――越えられた。風を吸い込んだ。自由がそこにあると思った。
けれど。
静かなセヴランの声。
逃げた。地に押し倒された。
乾いた砂と血の味。
――『全ては陛下の手の内だったのです』
腕を掴まれ、冷たい手に押さえつけられ、その声が耳の奥に突き刺さった。
風が雪原を渡り、凍てついた息が頬を刺す。
王女はその風の中に立ち尽くしていた。
唇をきつく噛みしめ、国境の向こう――白く霞む丘陵の果てを、睨むように見つめて。
足元の雪がわずかに鳴る。
隣りに影が伸び、ルガードがそっと並び立つ。
言葉もなく、しばらく二人は同じ方向を見つめていた。
王女はやがて、静かに口を開いた。
「……連れ戻されたことは仕方がないと思っています」
風がその声をさらう。
「私が愚かだっただけですから」
視線は動かない。琥珀色の瞳は、ただ雪に溶ける地平を見つめていた。
ルガードは何も言わず、王女の言葉をただ聞いていた。
王女は今も、自分は何者でもない――そう思っている。
だが、王家の最後の血として、この身を「何者か」に仕立て上げようとする人々がいる。
それを、もう彼女は薄々と理解していた。
(もしも、あの時、国境を越えられていたとして……)
その先に待つのは、自由ではなかっただろう。
亡国の姫を拾い上げ、利用しようとする者は必ずいたはずだ。
そして、自分に関わった誰かの未来を、また奪ってしまったかもしれない。
雪が静かに舞い、白い粒が彼女の髪に降り積もる。
「……ただ」
吐く息が白く散る。
「陛下の掌の上で弄ばれたことは、今も許せないのです」
ルガードの横顔は変わらず静かだった。
「連れ戻すなら、すぐに連れ戻せばよかったのに」
王女の声が少し震えた。
「わざわざ三か月もの間、私に仮初めの自由を与えて……
私の決死の思いも、手にした自由の感覚も――
すべては“俺の掌の上だ”と、あの人はそう笑ったのです」
その言葉の響きに、凍てついた空気がわずかに張り詰めた。
ルガードはしばらく黙っていたが、やがて口の端を上げた。
「……ちげーねぇや」
苦みを含んだ笑いが漏れる。
「それは、怒っていいと思いますよ」
王女は驚いたように彼を見た。
けれど老将の顔には、からかいの色も、同情の影もない。
ただ、冬の光に溶けるような、穏やかな笑みがあった。
しばし、風の音だけが二人の間を流れた。
その静けさの中で、笑みがゆるやかにほどけていく。
ルガードはまっすぐに王女の顔を見やり、静かに言葉を継いだ。
「……ただね。別にあいつを弁護するつもりはありませんが」
短く息を吐く。
「もしも殿下が、すぐに連れ戻されていたなら――
殿下は今のような殿下には、なっておられなかったんじゃないですかね」
王女の瞳が揺れた。
胸の奥が、ぎゅっとつかまれたように痛む。
(……今の、私……?)
風が強まり、雪原の白が舞い上がる。
ルガードは視線を遠くに向け、口元に苦笑を刻みながら、肩をすくめた。
「……まぁ、それも含めて、殿下には癪でしょうがね」
王女は黙ったまま、散る雪を見つめた。
頬にあたる冷気は鋭い。けれどそれ以上に、胸の奥にその言葉が静かに染みていく。
ルガードの声が、雪の合間を縫うように続いた。
「ただ、あいつは……殿下に、ちょっくら“風”を与えてみただけなんですよ」
王女は、ゆっくりとルガードの方に顔を向けた。
老将の目は、遠い空を見つめたまま穏やかだった。
「その風を受けて、どんな火を灯して、どう燃えるか――
それは、あいつにどうこうできることじゃない。殿下ご自身が決めることです」
静かな声音。
雪の舞う中で、ひとつひとつの言葉が空気を震わせた。
「……あいつが殿下に与えているのは、”機会”だと思いますよ」
「機会……」
王女は反芻するように呟いた。
ルガードはうなずき、氷を纏った木々の向こうへ目をやる。
「理不尽に何かを奪うように見せて――その実、誰にも奪えない“何か”を、相手に掴み取らせようとする。あいつには、そういうところがある」
王女の眉がわずかに動く。
雪明かりに照らされたその横顔に、かすかな光が宿った。
ルガードは小さく笑う。
「ま、あいつはそんな手の内を殿下に知られたくはないでしょうがね」
ちらりと横目で王女を見る。
「だからこれは、殿下に代わって俺からの――あいつへの意趣返しですよ」
悪戯っぽく言って、肩を揺らす老将。
その笑いには、どこか慈しみのようなものが滲んでいた。
不意に吹いた風が、二人の間の雪を巻き上げる。王女はその白の中で、微かに唇をゆるめた。
ほんの一瞬だけ、冬の空に笑みが溶けた。
気づけば、風はいつの間にか和らぎ、雪の粒も静かに地へと落ちていた。
遠くでは門番の掛け声が交わり、陽は白い空の向こうへ傾きつつある。
ルガードが外套の襟を立て直しながら、ゆっくりと口を開いた。
「……さて、そろそろ戻りましょうか」
王女は最後にもう一度だけ、雪の丘を振り返った。
そして静かに頷く。
「……ええ」
二人は並んで歩き出す。
踏みしめた雪が柔らかく沈み、足元から、静けさが立ち上るようだった。
しばらく歩いたのち、ルガードがふと口を開く。
「よければ、宿場町にも立ち寄られますか?」
王女の足が、わずかに止まりかけた。
胸の奥で、何かが脈を打つ。
けれど、しばしの沈黙ののち、静かに首を振った。
「……今は、いいです」
王女を見つめる灰の瞳が、穏やかに細められる。
「いつかは訪れたいと思っています。……でも、それは――」
風に乗って、言葉が白く流れていく。
「もう少し、自分の道を定めることができてから……きちんと立つことができるようになってから」
その時に、ようやくマルタの前にまっすぐに立って、“ありがとう”を言えるような気がした。
「だから――その時に」
ルガードは一言も挟まず、ただ王女の横顔を見つめていた。
やがて、ゆるやかに頷く。
「……なるほど。ならば、その時にご案内しましょう」
遠く、砦の松明が灯り始める。
雪の上に二人の影が並び、ゆっくりと帝国の地へと戻って行った。




