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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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9 星夜の問い

── 夜 旧都・総督城・離れの邸 ──


灯りを落とした部屋の中で、王女は窓辺に座り、夜の帳に沈む庭を見つめていた。

朝から歩いた貧民街の光景が、まだ胸の奥に残っている。

あの灰色の通り。少女の祈り。

そして、ルガードの言葉――。


「殿下」


背後から呼びかける声に、王女はふと顔を上げた。

振り返ると、ルガードが灯りを手に立っている。


「屋上で星でも見ませんか。今夜は空が澄んでいて、いい眺めですよ」


「星を……?」

王女がわずかに戸惑うと、老将は微笑んだ。

「一日中、あんな灰色の街を歩いたんです。少しは澄んだ空でも見て、息を入れ替えるといい」


その言葉に、王女は小さく笑みを浮かべ、静かに頷いた。





── 屋上 ──


石造りの螺旋階段を上りきると、厚い石壁に嵌め込まれた鉄の扉が現れた。

ルガードが取手に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。


重い音とともに、冷たい夜気が流れ込む。

王女は思わず息を呑んだ。


扉の向こうは、闇と星の世界だった。

澄みきった空が一面に広がり、街の灯りは遠く、風が静かに頬を撫でる。


ルガードは一歩外に出て、振り返る。

「――悪いな。殿下と少し、ふたりで話したい。ここで控えていてくれ」


ミレイユは短く「はい」と答え、扉の脇で静かに頭を垂れた。

その姿に、王女は思わず足を止める。

(……あのミレイユが、素直に従っている?)


小さな違和が胸をかすめたが、ルガードはすでに屋上の方へ歩み出していた。


王女もその後に続く。

風が高く流れ、星々が幾千も散らばっている。

夜の静けさが、ゆるやかに二人を包み込んだ。


ルガードは欄干に肘をつき、夜空を仰いだ。

「下から見るより、ここからの方が綺麗でしょう」


王女は目を瞬かせ、ゆるやかに頷いた。

「……本当に。まるで星が、近くにあるみたいです」


しばらくのあいだ、ふたりは無言で星空を見上げていた。

冷たい風が、髪の先をそっと揺らす。


やがて、王女はふと視線をルガードに向けた。

「……閣下とミレイユは、どのような関係なのですか?」


老将は少し目を細め、意外そうに笑った。

「ほぅ、そんなことが気になりますか」


「はい。おふたりの間には……何か、特別な信頼のようなものが見えるので」


ルガードはしばらく黙って空を見上げていたが、やがて肩をすくめた。

「そうさなぁ……“育ての親その三”ってところですかね」


「……その三?」

王女が首をかしげると、老将はひげを撫でながら笑った。

「もっとも、俺が教えたのは飯の炊き方と、猪の解体の仕方ぐらいですがね」


軽く笑いながら夜風に顔を向ける。

その横顔は、どこか懐かしむようでもあった。


ひとしきり風が通り抜けたあと、

ルガードは欄干にもたれたまま、星の光を受けた王女をちらりと見た。


「――旧都は、いかがですか?」


王女は少し考え、夜風に揺れる髪を押さえながら答えた。

「帝都とは違って……少し、時間の流れがゆるやかな気がします」


「そうでしょうな」

ルガードは、鼻の奥で小さく笑った。

「もし、殿下がお気に召したのなら――ずっとこちらにいらしてもいいのですよ」


風が一度、静かに流れた。


「……え?」

王女の唇がわずかに開き、声が止まる。

思わずルガードの顔を見上げた。


老将は、夜の光を受けたまま動かない。

その表情に冗談の色はなかった。


「帝都は今、殿下には少し大変でしょう」

柔らかな声だったが、その奥に微かな真意が潜んでいた。


王女は目を伏せ、低く問う。

「それは……陛下のご意向ですか?」


「いえ」

ルガードはあっさりと首を振った。

「私が勝手に思っただけです。ですが――あなたが望まれるなら、私から陛下にかけ合いますよ」


王女はしばらく黙ったまま、老将の顔をじっと見つめていた。

その眼差しは怯えではなく、確かめるような静けさを帯びている。


やがて、ゆっくりと口を開いた。

「……ルガード閣下。私は、まだ何もわかっていない人間です。

 けれど――”私の身がどこにあるか”ということが、様々な人々の思惑と無関係ではいられないことくらいは、理解しております」


夜風がふっと吹き抜け、二人のあいだを通り過ぎた。


──夜会の出席者たちについて、セヴランから教わった時。

帝国の中も、決して一枚岩ではない。

立場も信念も異なる者たちが、互いに探り合い、危うい均衡の上に立っている。

そのことを、王女は知った。


だから、今のルガードの申し出も――単なる親切心だけではないはずだ。


王女の言葉に、ルガードは目を細めた。

一拍の沈黙ののち、低く笑う。


「……なるほど。ご成長あそばされた」


星明かりが彼の顔の皺を照らし、老いた獣のような微笑が浮かんだ。

その声音には、からかいでも嘲りでもない――どこか誇らしげな響きがあった。


「……二年前でしたかね」

ルガードの声が、夜の静けさを破るように落ちた。

「西の宿場町にご滞在されていたのは」


王女の肩がびくりと震えた。

息が詰まり、喉の奥でかすかな音が漏れる。


「私の管轄なのでね」

ルガードは穏やかに言葉を継いだ。

「陛下から報せを受けて、私の方でも――見守らせていただいていたのですよ」


王女はうつむいた。

胸の奥に、ひやりとした重みが落ちる。

本当にあの時の自分は、何から何まで完全に、ダリオスの掌の上にいたのだ。

逃げたつもりで、逃がされ、そして守られていた。


ルガードは苦笑を浮かべた。

「また、あいつが変な企みをしてやがるな、とは思いましたがね。

 けれど、色々と御苦労された姫君に、しばしの休暇を味わってもらうのも悪くないかと思いまして……特に追及はしませんでした」


その声音には、わずかに温かさがにじんでいた。


「そういえば、国境の関所は通せ――という、変な指令もありましたな」

思い出したように、ははっと笑う。


王女の胸に、どうしようもなく静かな敗北の痛みが広がり、しばらく沈黙の中に立ち尽くしていた。

星の光が白く、冷たく、胸の奥まで届く。


やがて、ぽつりと口を開いた。

「……あの時は、逃げていいと思ったんです」


ルガードは何も言わず、ただ視線だけを王女に向けた。


――『このまま旧都にいてもいい』


先ほどのルガードの言葉が、静かに胸の奥で反響する。

もしあれが本当に、ただの親切心からのものだったとしても――

彼女の答えは、もう決まっていた。


(私は帝都で、自分の向き合うべきものに向き合う)


二年前と今とで、自分の中のいったい何が違うのか――。

それを確かめるように、王女はゆっくりと息を吐いた。


「……故国が滅びた時、私を守って、命を落とした者たちがいました」


言葉を紡ぎながら、そっと夜空を仰ぐ。


「辛かった。苦しかった。……でも、“自分のせいだ”とは思わなかったのです」


あの頃の自分は、ただ嵐の只中に放り込まれた存在にすぎなかった。

何も選べず、何もできず、理不尽の中に立ち尽くすしかなかった。


兵たちは、自分を守ろうとして死んだ。

それは痛みであり、喪失であったが――罪ではなかった。


しかし、今は違う。


「……今は、私の選択によって、未来を奪われた者たちがいます」


自ら望んで、手を伸ばした。

故国の者たちに、どんな形でもいいから、生き延びてほしいと願い、そのために行動した。

その結果、彼らは“罪人”として生かされる苦しみを背負うことになった。

そして、それが憎しみに繋がり、叙勲祭の場で何の関係もない民の命が奪われた。


ルガードはしばらく黙っていた。

風が二人の間をすり抜け、城壁の向こうで犬の遠吠えがかすかに響く。


やがて、彼は低く問いかけた。

「……ご自分の選択を、悔いておられる?」


王女は顔を伏せ、静かに息を整えた。

「……もっと、より良い方法はなかったのかと――それは、今でも考えます」


夜気の中に、吐息が淡く溶けていく。


「けれど、あの時の私には、あの選択しかありませんでした。

 もしも、あの時をやり直せるとしても……私は、きっと同じ選択をするでしょう」


王女は再び空を仰ぎ、星の光を受けた瞳を細める。

「私は、背負いたいのです。自分の罪を。――私の罪もまた、私の選択の証だから」


老将は何も言わず、王女を見つめていた。


「二年前の日々も……すべて、陛下の手の内だったのかもしれません。

 けれど、それでも――自分の意志で逃げ出して、ほんのひと時でも掴んだ時間。感じた自由。

 あの感覚だけは、誰のものでもなく、私自身のものです」


城を抜けたあの日の胸の高鳴りが、いまもどこかに残っている。

恐怖と興奮の入り混じった鼓動。


宿場町で、パンの香りと人々の笑い声の中で感じた、“生きている”という実感。

国境で吸い込んだ風の匂い――。


市場で自らの首に刃をあて、声を張り上げた瞬間の震え。

故国の者たちが降り、血が流れずに済んだときの、喉の奥からこみ上げた安堵。


そのどちらにも、掴み切れなかったものがあった。

悔しさも、後悔も、数え切れないほど。


けれどそれでも、王女は気づいていた。


――自分の望むものを、自分の手で掴み取ったという誇りが、確かにあることを。


誰かを傷つけ、不幸にしながら。

それでも、自分の望むものを掴みとるために、

“自分という存在が何かを為した”という誇りが、確かに胸の奥にある。


それは、罪深いことだろう。

けれど、その誇りを手放すことができない。


だからこそ、王女は思う。


――誇りとともに、この手に宿る罪も、そのまま抱えて生きよう。

逃げることではなく、背負うことで、ようやく自分の生を形にできるのだと。


ルガードはしばらく黙っていた。

夜風が吹き抜け、欄干にかけた外套の裾を揺らす。

やがて、低く笑うように息を吐いた。


「……どうやら、私のおせっかいは不要なようですな」


その声音には、寂しさとも安堵ともつかぬ響きがあった。

けれど、その奥には確かな理解が滲んでいた。


王女は顔を上げる。


ルガードの横顔は、星明かりを受けて静かに光っていた。

そこにあったのは、老将の威厳の陰に滲む――次の時代を見届ける者の、穏やかな眼差しだった。

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