8 灰色の街
── 旧都・提督城・執務室 ──
陽の光が重い石壁を淡く照らしていた。窓の外には、古い都の屋根並みが穏やかに連なっている。
執務机の奥にはルガード、その脇にカリス。
長椅子に王女が静かに座り、侍女ミレイユが控えていた。
カリスが穏やかな笑みを浮かべて問う。
「殿下、旧都の主だったところはご案内しましたが――どこか他にも、ご覧になりたい場所はございますか?」
王女は一瞬、視線を伏せた。
言葉を探すように、手を膝の上で重ねる。
しばしの沈黙ののち、ためらいがちな声音で口を開いた。
「……あの。もしも可能で……もしも、旧都にもあるのなら、なのですが――」
そこで言葉を切り、息を整える。
「……貧民街に、行ってみたいのです」
その瞬間、空気がわずかに動いた。
ぴくり、とルガードの眉が揺れ、ミレイユが視線をほんの少しだけ上げる。
しかしどちらも何も言わず、沈黙は石のように室内に沈んだ。
「貧民街、ですか」
カリスが静かに繰り返す。
「それは……何でまた?」
王女はまっすぐ彼の方を見た。
「旧都で施療院を開くのなら……その“外側”にいる人々のことも知らねばならないと思うのです。
施療院が救うのは市民――制度に属する方々です。でも、その外には、制度に頼らずに生きている人々がいる。誰が救われて、誰が救われないのか。その線がどこに引かれ、なぜそこに引かれるのか――その現実を知らなければ、私には務めを果たせない気がして」
言葉を紡ぎながら、王女の脳裏には帝都の施療院で見た兄弟の姿が浮かんでいた。
兄の細い肩、熱に浮かされた弟。
「助けてください」と泣いた声。
そして、自分がその手を取った瞬間に、父を奪ってしまったという事実。
(あのとき、私は――誰を救ったのだろう)
胸の奥が、痛みと共に静かに締めつけられる。
「単純に、手を差し伸べれば済むというわけではないことは理解しています」
王女は、ゆっくりと言葉を継いだ。
「だからこそ、知らなければいけないと思うのです。
貧民街がどういう場所なのか。
なぜ、そういう場所が生まれるのか。
なぜ、そこに辿り着く人々がいるのか――ということを」
静かな声が、執務室の冷たい空気に溶けていく。
ルガードは腕を組み、深く息を吐いた。
「……容易なところじゃねぇですぜ、殿下。一度や二度、足を踏み入れたところで、何がどう見えるもんでもねぇ」
その声音には、咎めよりも現実を告げる重みがあった。
ルガードは腕を組んだまま、ちらりと王女の後ろの影を見やった。侍女は気づいたように、わずかにまぶたを伏せ、視線を逸らした。
その仕草はいつも通り無表情なのに、どこか――波紋のような間があった。
ルガードは、ただ短く息を吐き、王女の方へと視線を戻した。
「だが、見ねぇことには始まらん、ってのも確かですな」
隣りでカリスが静かに頷く。
「……承知いたしました。では、安全のための準備を整えますので、三日ほどお待ちください」
── 三日後 旧都・貧民街 ──
朝の光は灰色の雲に溶け、街の端はいつまでも夜の名残をまとっていた。
王女は粗末な外套の裾を握りしめ、足もとを見つめながら石畳を進む。
道の両脇には、崩れかけた家々。
壁の隙間から黒い煙が漏れ、濁った水の流れる溝には、果皮や古布が沈んでいる。
乾いた風に、煤と薬草と焦げた脂の匂いが混じって漂っていた。
人々の顔は、どこか灰色がかっている。
裸足の子供が、空になった壺を抱えて走り抜け、軒先の女はぼろ布を縫いながらこちらをちらりと見る。
その視線には、恐れでも好奇でもない――ただ、この街で生き延びるうちに身に沁みついた、静かな警戒の色があった。
王女は、ただ息をのみ、目の前の現実に言葉を失っていた。
胸の奥で、何かが形を成す前にほどけていく。
言葉も感情も追いつかず、ただ景色だけが静かに迫ってくる。
「……これが、この国の影の部分だ」
低い声が頭上から落ちる。
振り仰げば、灰色の外套に身を包んだルガードが立っていた。
「俺が案内しよう」とルガードが言い出したのは、今朝のことだった。
侍従もカリスも一斉に制したものの、誰ひとりとして彼の足を止められず、結局、王女、ミレイユ、そしてルガードの三人で貧民街を訪れることとなった。
三人は粗衣を身にまとい、身分を悟られぬよう装っていた。衛兵たちは目立たぬよう周囲に散開し、護衛と監視を担っている。
だが――。
(……この方がいる時点で、まったく隠れていないのでは)
王女は、そっとルガードを見上げながら思った。
粗衣の下でも隠しきれない広い肩と、どこか獣じみた威容。
歩くたびに足音が地を鳴らし、彼が通るたびに貧民たちの視線が吸い寄せられる。
低く囁く声、怯えにも似たざわめき。
その重さが、王女の背にまで刺さってきた。
「気にするな」
ルガードが短く言う。
「ここの連中は、風向きに敏い。珍しいもんを見れば、嗅ぎつけるだけだ」
――嗅ぎつけられているのは、どう見ても彼の方なのだが。
その考えをそっと胸の奥へ沈め、王女は小さく頷いた。
灰色の風が頬を撫で、遠くで犬の吠える声が響いた。
王女はしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「……なぜ、このような場所が生まれるのですか」
声は小さかった。けれど、灰色の風の中でその響きは確かだった。
ルガードは足を止め、わずかに顔を上げる。
視線の先、遠くの空には塔が霞んでいた。
「……十年以上前だ」
遠く、霞の向こうにそびえる塔へと視線を向けながら、低い声を落とした。
「共和国を立ち上げ、この地を首都に定めた。戦火と飢えを逃れた連中が、命からがら流れ込んできた」
ルガードは、わずかに息を吐く。
「うまく根を張れた者もいた。家を得て、仕事を掴んだ者もな。……だが、全員じゃない」
視線を戻さず、淡々と続ける。
「こぼれた連中が、同じ場所に溜まった。気づけば――こうだ」
風が吹き抜け、足もとの埃を巻き上げた。
ルガードの声は淡々としていたが、どこか遠い記憶をなぞるようでもあった。
「誰が作ったわけでもねぇ。誰も作ろうとしなかったから、できたんだ」
王女はその言葉を胸の奥で反芻した。
ふと、荒れた石畳の隙間に、小さな花がひとつ咲いているのに気づき、思わず歩みを緩める。
その瞬間、背後でわずかに足音が止まる気配があった。振り返ると、ミレイユが通りの端――何か一点を静かに見つめていた。
王女がその視線を辿ると、崩れかけた家々の間の少し開けた場所に、煤けた小さな石像のようなものがあった。
その前で、数人の者たちがしゃがみ込み、無言で手を合わせている。
「……ミレイユ?」
呼びかけると、侍女ははっと振り返った。
「失礼しました」
すぐに表情を整え、静かに頭を下げた。
王女は小さく首を傾げた。
「あの石像のようなものは、何?」
ミレイユは少しだけ視線を戻し、短く答える。
「……女神像ですよ。首の欠けた、誰が置いたのかもわからない……」
「女神像……」
王女は呟き、風に髪を揺らしながらその像を見やった。
女神像と呼ぶにはあまりにも小さく、傷んでいた。
そのとき――。
像の前にいた小さな少女が、ふと顔を上げ、こちらを見た。
まだあどけなさの残る瞳。
目が合った瞬間、少女はためらいもなく、今度は王女に向かって手を合わせた。
王女は息を呑み、立ち尽くした。
なぜ――?
何が起きているのか分からず、視線が宙をさまよう。助けを求めるように、そっとミレイユの方へ目を向けた。
侍女は素っ気ない口調で言った。
「気にしなくて大丈夫ですよ。単に“もしかしたら、ご利益があるかも”――その程度の感覚で手を合わせているだけです。姫様が、何かをなさる必要はありません」
「……でも」
声にならない言葉が唇に触れ、その先を継げない。
――自分に、何かできることはないのだろうか。
その思いが、胸の奥でじわりと広がりかけた瞬間、別の声が脳裏をかすめた。
――『情や善意という名の気まぐれが土台である限り、支えは長くは続かない』
ダリオスの低い声。
かつて冷ややかに告げられたその言葉が、胸の底から静かに甦り、王女の内を冷たく撫でていく。
王女はゆっくりと息を吐いた。
少女はすでに視線を逸らし、また像へと手を合わせている。
その小さな背が、灰の光を帯びた街の気配に、静かに溶けていった。
「おや、ルガードの旦那じゃないですか」
不意に路地の奥から声が飛ぶ。
振り向けば、ボロ布をまとった男が立っていた。
頬はこけているが、目の奥にまだ光がある。
「おぉ、まだ生きてたか」
ルガードが笑う。
「骨になってるかと思ったぜ」
「へへ、まぁ何とか。けど、今年の冬は越せるかどうか……」
男は肩をすくめ、すぐに笑みを返す。
「旦那の猪鍋が食えりゃ、少しは持つかもしれませんがね」
「はっはっは!」
ルガードが腹の底から笑った。
「じゃあまた捕ってきて振る舞ってやるか。どうせ今年も山は豊作だ」
その声に、通りの影で様子をうかがっていた者たちが顔を上げる。
「そいつぁありがてぇ」「頼みますよ、旦那」
「この前の猪鍋、まだ忘れられませんぜ」
笑い声とともに、二、三人がいつの間にか近づいてきた。
ルガードは大きな手で彼らの肩を叩きながら、
「おう、全員分は無理だぞ。鍋の底をさらう覚悟で待っとけ!」
と豪快に笑う。
笑いが波のように広がり、硬かった空気がふっと和らいでいく。
王女は、驚いたようにその光景を見つめていた。
この街で最も恐れられるはずの帝国元帥が――まるで古い友人のように、貧民たちと笑い合っている。
その時。
「……ルガード様」
ミレイユが一歩前に出た。その声は低く、しかし鋭かった。
「陛下は、対価のない施しをお認めになっていません」
抑えた口調の奥に、明確な咎めが滲む。
ルガードは一瞬だけ黙り、やがて口の端をわずかに上げた。
「……心配するな、ミレイユ。これは元帥の務めじゃねぇ」
静かに言いながら、肩をすくめる。
「俺が個人で捕ってきた猪を、個人で振る舞ってるだけさ」
ミレイユは、なおも何か言いかけた。
「……もしもな」
ルガードの声が、わずかに低くなる。
「そんな自由すら許されねぇってんなら――俺は元帥の職を降りるぜ?」
語尾にかけて沈み込むその声音には、もはや笑いの気配はなかった。
ミレイユの眉がわずかに寄る。
「ですが……」
その先を言いかけた彼女を、どこか慈しむように見やりながら、ルガードは口調を和らげた。
「たまには、気まぐれのご利益があったっていいじゃねぇか」
通りを見やり、穏やかに笑う。
「ここらの連中だって、それが“気まぐれ”だってことくらい、ちゃんとわかってるさ」
その声音には、懐かしさを帯びた温かさが滲んでいた。
王女は、ただその横顔を見つめていた。
冬の風が吹き抜け、三人の外套の裾を静かに揺らした。




