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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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7 受け継ぐもの

── 旧都の街路 ──


雲の切れ間から淡い陽がこぼれ、古い石畳を柔らかく照らしていた。

王女はフードを被り、カリスの案内で人通りの少ない路地を歩いている。


両脇の家並みは、帝都の整然さとは異なり、漆喰の壁に蔦が絡み、窓辺には陶器の鉢が並んでいた。

吹き抜ける風は乾いて澄み、どこか懐かしい香りを運んでくる。


「ここが、施療院の候補地のひとつです」

カリスが足を止め、古い修道院跡の門を指した。

鉄の門扉は錆び、蔦が絡まっている。中庭には井戸と、崩れかけた礼拝堂の尖塔が見えた。


「少し前まで戦傷者の避難所として使われていましたが、いまは空いております。水源も近く、改修すれば立派な施設になるかと」


王女は頷き、門の鉄柵越しに敷地を見渡した。

風が枯葉を運び、静かな音を立てて過ぎていく。


「……静かですね」


「ええ。人目も少なく、療養には向いています」

カリスが微笑む。


続いて、数か所の候補地を回った。

そのたびに王女は建物の壁を指でなぞり、水の流れや日当たりを確かめていく。半年のあいだ第一施療院でユリオに教わってきた習慣が、王女の指先に残っていた。

旧都での施療院担当となる者らと軽く挨拶を交わし、衛生や薬の供給について簡単な質問もした。

王女の言葉の端々に現場への理解を感じた職員たちは、わずかに表情を和らげた。


今回の王女の旧都訪問は、公にされていない“私的な滞在”として定められていた。

叙勲祭の騒動での暗殺者がいまだ捕らえられていないこともあり、表向きは帝都で静養中ということになっている。

訪問が知らされているのは、ごく一部――施療院の関係者や総督府の担当者など、必要最小限の者に限られていた。


午後の陽が傾き、街路の石畳に金の縁を描いていた。

人通りの多い通りを抜けようとしたとき、王女はふと足を止めた。

どこからか、柔らかな声のやり取りが風に乗って届いてくる。


「王女様が、こちらにお越しになっているそうですよ」


振り返ると、路地の角に小さな井戸があり、その脇で買い物籠を抱えた女たちが立ち話をしていた。

王女は、フードを目深にかぶり直す。


「王女様……って、あの亡国の?」

「ええ。帝都の市場で故国の民をお救いになった――あのお話の」


カリスが気まずそうに笑い、肩をすくめた。

「……すみません、どうやら噂の方が一足先に歩いているようで」


女たちの声を耳にしながら、王女はふと彼女らの言葉の響きに違和を覚えた。

(同じ帝国でも……言葉の色が、少し違うのね)

そう思い、足を止めたまま、そっと耳を傾ける。

話す内容も、声音の揺れも、どこか柔らかかった。


「まあ……せっかくいらしているのなら、きちんとお迎えして差し上げたいものですのに。どうして非公式に?」

「帝都の叙勲祭で、ずいぶんと物騒なことがあったそうですからね。……お立場上、慎重にもなられるでしょう」

「あぁ……それは、お気の毒なことですわね」


王女は、目を伏せた。


「ほんとうに。あんな乾いた帝都より、いっそこちらにお移りくださればよろしいのにねぇ」

「まったくです。旧都なら、ルガード元帥もおいでですし、何より風が穏やかですからね」

「ふふ……帝都には帝都で、“若将軍”がおられますが」

「ほんとに。若将軍ともあろうお方が、叙勲祭のような場で、あんな騒ぎを許されるなんてね」


女たちの声には、どこか懐かしさのような温度があった。


「まぁ、あの方は昔から少し、お急ぎになるところがありますから…」

「ええ。急ぎ過ぎて、とうとう都まで移してしまわれましたしね」


ふふ、と小さな笑いがこぼれ、ほかの女たちの笑みも連なる。

笑い混じりの声が風に溶け、石畳の先で薄れていった。


王女はしばらく立ち止まっていたが、やがて静かに歩を進める。風が裾を揺らし、通りのざわめきの中に彼女たちの声が溶けていった。

歩きながら、王女はふと女たちの会話の中の一言に引っかかる。


(……若将軍?)


首を傾げていると、隣りを歩くカリスが王女の疑問に気づいたのか微笑んだ。

「“若将軍”とは――陛下のことです」

「陛下の?」

「ええ。陛下がこの旧都で、帝国の前身である共和国の元首に就かれた頃は、まだお若かった。そのため旧都の民のあいだでは、今も親しみを込めて“若将軍”と呼ぶ者が多いのです」


王女は小さく息を呑む。


帝都や近隣諸国での彼の呼び名は、“黒獅子”。

その名を、力と威の象徴として人々が口にするのを、これまで幾度となく耳にしてきた。


王女にとっても、ダリオスは常に畏怖の対象だった。

玉座に座すときの冷ややかな眼差しも、命を告げるときの低い声も――

あまりに絶対的で、親しみなどという言葉とは無縁の存在だった。


けれど、旧都の民の口にのぼる“若将軍”という名には、恐れよりも懐かしさや親しみが宿っていた。


王女の胸の奥が、かすかに揺れる。


昨日見た、ルガードと接するミレイユの姿が脳裏に浮かんだ。


自分の傍らに仕えるミレイユもまた、王女には掴みきれぬ影のような存在だった。

言葉少なく、感情の色を見せぬまま、ただダリオスの命に従って動く女。

何を思い、どこに心を置いているのか――想像しようとしても、霧のように指の間を抜けていく。


けれど、ルガードと接していたときのミレイユには、いつもと少し違う空気があった。無表情の奥に、ごくかすかではあるが、感情の揺らぎのようなもの――人の匂いを感じた。

氷のように見える彼女にも、旧都という土地の光にわずかに溶ける温度があるのかもしれない。


そんな彼女と同じように。


(……あの人にも、私の知らない顔があるのかもしれない)


帝都にいる男を思い浮かべながら、王女は静かに思った。




しばらく黙ったまま歩いていた王女だったが、やがて、そっと口を開いた。

「……私が来ていることを知っても、旧都の方々は、不安にならないのですね」


声には、ほんのかすかな戸惑いが滲んでいた。

叙勲祭の後、王女の名が災いのように囁かれていることを、彼女はよく知っている。


カリスは微笑を崩さず、穏やかに答えた。

「旧都と帝都は、だいぶ離れていますから。事件の話は届いていても、ここでは“遠い都の出来事”のように感じられるのです」


彼はゆるやかに視線を上げ、街並みを見渡した。

「それに――この街の人々は、ルガード元帥を深く信頼しています。あの方が守っている限り、何が起ころうと旧都は揺るがない。そう思っているのです」


王女は黙って頷いた。


「加えて――」

カリスは続ける。

「旧都の民は、歴史や伝統を重んじます。古いものに敬意を抱く気風ですから、歴史ある血統をお持ちの王女殿下がお越しになることは――この街にとって喜びなのですよ」


「歴史ある血統」という言葉に、王女はわずかに目を伏せた。

その響きは、王女にとっては、胸の奥を冷たく撫でる鎖のようでもあった。


自分が生かされたのも、帝国の象徴として立たされたのも――すべて、その“血”のため。

けれど、その血は“自分そのもの”ではない。

ただ、自分という器を通して他者が価値を見いだすための標。

そう思うと、胸の奥に微かな痛みが走った。


カリスはその沈黙を見逃さなかった。隣りを歩きながら、柔らかな声で問う。

「殿下は――あまりご自分の血統を、誇りに思われてはいないのですね」


王女は顔を上げかけたが、すぐに視線を逸らした。返す言葉を探すように、足元の影を見つめる。


カリスはその様子に、昨夜の晩餐の光景を思い出していた。

故国の情景を語る彼女の口ぶりは、王家の威を背負う者というより、ただそこに生まれ育った一人の娘のものだった。

懐かしさに満ちてはいたが、誇示も自負もなく、どこまでも素朴で――それゆえに、少し危うい。


この王女は、自らの血統が周囲にどのような意味をもたらすのかを、まだ知らない。

血を笠に着る者よりは遥かに清らかだが、秩序を支える者として見れば、その無自覚さは脆さでもある。


(……ルガード元帥も、きっと感じ取っておられる)


カリスは胸の内で静かに思う。

そして――帝都にいるあの皇帝も、同じことを理解しているに違いなかった。


王女はしばらく考えるように沈黙し、やがて小さく口を開いた。

「……私が何かを為して得たものではありませんから」


静かな声だった。

けれど、その一言には、長く胸の奥で沈黙してきた思いがかすかに滲んでいた。


「それに……」


自分でも不思議なほど自然に、言葉が続いていた。

これまでなら呑み込んでいたはずのものを――

たぶん、カリスの穏やかな眼差しと、この旧都の柔らかな空気が、王女にそれを口にすることを許したのだろう。


「……千年続いたからと言って、何か奇跡を起こす力が宿っているわけでもありませんでした。滅びる時は、たった一夜でした」

そう言って、王女はまっすぐにカリスを見た。

「――そんな血に、いったい何の価値が?」


淡々としていたが、その声には、かすかに凍えたような響きがあった。


もしこの血に、ほんのわずかでも奇跡の力があったのなら。

あの滅びの夜、目の前で自分を守って崩れ落ちた者たちを救えたのなら――

そのとき、自分はこの血を誇れただろう。


けれど、あの夜。

何もできなかった。

ただ泣き、無力なまま炎を見ていた。


あの夜、王女はこの血を呪った。

奇跡をもたらさぬまま受け継がれてきた、虚ろな血を。




カリスは思わず息を止めた。

まっすぐに彼を見据える王女の瞳からは、これまでの頼りなげな柔らかさが消えていた。

代わりにそこに宿っていたのは、静かな憤りと――焼け跡を越えて立ち上がる者だけが持つ光。

修羅を見た者の眼だった。


(――この方は、本当に自らの首に刃を当てて声を上げたのかもしれない……)


噂は、誇張ではなかったのかもしれない。


カリスは短く息を整え、深く頭を垂れた。

「……失礼いたしました。殿下の抱えるものに、想像も馳せずに物を申し上げてしまいました」


その声音には、心からの慎ましさがこもっていた。

王女が首を振りかけたところで、カリスは静かに言葉を継ぐ。


「ですが――歴史や伝統というのは、何か特別な力が宿るから尊いのではありません」


彼はゆるやかに歩みを進め、夕陽に染まる街並みを見渡した。


「それは“受け継ぐもの”としての誇りなのです。長い時の流れの中で手渡されてきたものを、また次の代へと渡す。その使命を引き受けた者としての誇り――そういうものが、歴史を継ぐ者の内にはあります」


石畳の上に落ちる影が、二人の足もとで重なった。

カリスはその影を見つめながら、静かに言葉を締めくくる。


「旧都の人々は、その“受け継ぐ”という在り方に、深い敬意を払います。奇跡ではなく――続ける意志そのものに、です」


風がゆるやかに吹き抜け、遠くの鐘の音が小さく重なった。

王女はその言葉の余韻を、胸の奥で静かに受け止めていた。


(……受け継ぐもの。次の代へと渡す……)


不意に、記憶の底から男の声が甦った。


――『俺には、情を信じ切ることはできない。だが――それが滅びたものの中に残る灯なら、掬う価値はあると思っている』


乾いた風が頬を撫で、遠くで鳥の羽音がした。


(……“渡せ”ということだったのかしら)


千年続いた血が受け継いできたものの中から、次の世に残す価値があると思うものを。

それを見つけ、手渡せと。

あの時、ダリオスは、そんなことを言っていたのかもしれない。


――滅びた血を受け継ぐ者としての使命。


唐突に胸の奥に言葉が浮かんだ。

これまで一度も思いもしなかった考え。


ぶるりと、王女の肩が震える。

それは冷たい風のせいではなかった。

自分の内に芽吹いた言葉の響きが、火を灯すように胸を熱くしたのだ。


王女はゆっくりと息を吸い込み、遠くの山影に沈みゆく陽を見つめた。

橙の光が、長い影を落としながら、彼女の心の奥にも静かに差し込んでいた。

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