7 受け継ぐもの
── 旧都の街路 ──
雲の切れ間から淡い陽がこぼれ、古い石畳を柔らかく照らしていた。
王女はフードを被り、カリスの案内で人通りの少ない路地を歩いている。
両脇の家並みは、帝都の整然さとは異なり、漆喰の壁に蔦が絡み、窓辺には陶器の鉢が並んでいた。
吹き抜ける風は乾いて澄み、どこか懐かしい香りを運んでくる。
「ここが、施療院の候補地のひとつです」
カリスが足を止め、古い修道院跡の門を指した。
鉄の門扉は錆び、蔦が絡まっている。中庭には井戸と、崩れかけた礼拝堂の尖塔が見えた。
「少し前まで戦傷者の避難所として使われていましたが、いまは空いております。水源も近く、改修すれば立派な施設になるかと」
王女は頷き、門の鉄柵越しに敷地を見渡した。
風が枯葉を運び、静かな音を立てて過ぎていく。
「……静かですね」
「ええ。人目も少なく、療養には向いています」
カリスが微笑む。
続いて、数か所の候補地を回った。
そのたびに王女は建物の壁を指でなぞり、水の流れや日当たりを確かめていく。半年のあいだ第一施療院でユリオに教わってきた習慣が、王女の指先に残っていた。
旧都での施療院担当となる者らと軽く挨拶を交わし、衛生や薬の供給について簡単な質問もした。
王女の言葉の端々に現場への理解を感じた職員たちは、わずかに表情を和らげた。
今回の王女の旧都訪問は、公にされていない“私的な滞在”として定められていた。
叙勲祭の騒動での暗殺者がいまだ捕らえられていないこともあり、表向きは帝都で静養中ということになっている。
訪問が知らされているのは、ごく一部――施療院の関係者や総督府の担当者など、必要最小限の者に限られていた。
午後の陽が傾き、街路の石畳に金の縁を描いていた。
人通りの多い通りを抜けようとしたとき、王女はふと足を止めた。
どこからか、柔らかな声のやり取りが風に乗って届いてくる。
「王女様が、こちらにお越しになっているそうですよ」
振り返ると、路地の角に小さな井戸があり、その脇で買い物籠を抱えた女たちが立ち話をしていた。
王女は、フードを目深にかぶり直す。
「王女様……って、あの亡国の?」
「ええ。帝都の市場で故国の民をお救いになった――あのお話の」
カリスが気まずそうに笑い、肩をすくめた。
「……すみません、どうやら噂の方が一足先に歩いているようで」
女たちの声を耳にしながら、王女はふと彼女らの言葉の響きに違和を覚えた。
(同じ帝国でも……言葉の色が、少し違うのね)
そう思い、足を止めたまま、そっと耳を傾ける。
話す内容も、声音の揺れも、どこか柔らかかった。
「まあ……せっかくいらしているのなら、きちんとお迎えして差し上げたいものですのに。どうして非公式に?」
「帝都の叙勲祭で、ずいぶんと物騒なことがあったそうですからね。……お立場上、慎重にもなられるでしょう」
「あぁ……それは、お気の毒なことですわね」
王女は、目を伏せた。
「ほんとうに。あんな乾いた帝都より、いっそこちらにお移りくださればよろしいのにねぇ」
「まったくです。旧都なら、ルガード元帥もおいでですし、何より風が穏やかですからね」
「ふふ……帝都には帝都で、“若将軍”がおられますが」
「ほんとに。若将軍ともあろうお方が、叙勲祭のような場で、あんな騒ぎを許されるなんてね」
女たちの声には、どこか懐かしさのような温度があった。
「まぁ、あの方は昔から少し、お急ぎになるところがありますから…」
「ええ。急ぎ過ぎて、とうとう都まで移してしまわれましたしね」
ふふ、と小さな笑いがこぼれ、ほかの女たちの笑みも連なる。
笑い混じりの声が風に溶け、石畳の先で薄れていった。
王女はしばらく立ち止まっていたが、やがて静かに歩を進める。風が裾を揺らし、通りのざわめきの中に彼女たちの声が溶けていった。
歩きながら、王女はふと女たちの会話の中の一言に引っかかる。
(……若将軍?)
首を傾げていると、隣りを歩くカリスが王女の疑問に気づいたのか微笑んだ。
「“若将軍”とは――陛下のことです」
「陛下の?」
「ええ。陛下がこの旧都で、帝国の前身である共和国の元首に就かれた頃は、まだお若かった。そのため旧都の民のあいだでは、今も親しみを込めて“若将軍”と呼ぶ者が多いのです」
王女は小さく息を呑む。
帝都や近隣諸国での彼の呼び名は、“黒獅子”。
その名を、力と威の象徴として人々が口にするのを、これまで幾度となく耳にしてきた。
王女にとっても、ダリオスは常に畏怖の対象だった。
玉座に座すときの冷ややかな眼差しも、命を告げるときの低い声も――
あまりに絶対的で、親しみなどという言葉とは無縁の存在だった。
けれど、旧都の民の口にのぼる“若将軍”という名には、恐れよりも懐かしさや親しみが宿っていた。
王女の胸の奥が、かすかに揺れる。
昨日見た、ルガードと接するミレイユの姿が脳裏に浮かんだ。
自分の傍らに仕えるミレイユもまた、王女には掴みきれぬ影のような存在だった。
言葉少なく、感情の色を見せぬまま、ただダリオスの命に従って動く女。
何を思い、どこに心を置いているのか――想像しようとしても、霧のように指の間を抜けていく。
けれど、ルガードと接していたときのミレイユには、いつもと少し違う空気があった。無表情の奥に、ごくかすかではあるが、感情の揺らぎのようなもの――人の匂いを感じた。
氷のように見える彼女にも、旧都という土地の光にわずかに溶ける温度があるのかもしれない。
そんな彼女と同じように。
(……あの人にも、私の知らない顔があるのかもしれない)
帝都にいる男を思い浮かべながら、王女は静かに思った。
しばらく黙ったまま歩いていた王女だったが、やがて、そっと口を開いた。
「……私が来ていることを知っても、旧都の方々は、不安にならないのですね」
声には、ほんのかすかな戸惑いが滲んでいた。
叙勲祭の後、王女の名が災いのように囁かれていることを、彼女はよく知っている。
カリスは微笑を崩さず、穏やかに答えた。
「旧都と帝都は、だいぶ離れていますから。事件の話は届いていても、ここでは“遠い都の出来事”のように感じられるのです」
彼はゆるやかに視線を上げ、街並みを見渡した。
「それに――この街の人々は、ルガード元帥を深く信頼しています。あの方が守っている限り、何が起ころうと旧都は揺るがない。そう思っているのです」
王女は黙って頷いた。
「加えて――」
カリスは続ける。
「旧都の民は、歴史や伝統を重んじます。古いものに敬意を抱く気風ですから、歴史ある血統をお持ちの王女殿下がお越しになることは――この街にとって喜びなのですよ」
「歴史ある血統」という言葉に、王女はわずかに目を伏せた。
その響きは、王女にとっては、胸の奥を冷たく撫でる鎖のようでもあった。
自分が生かされたのも、帝国の象徴として立たされたのも――すべて、その“血”のため。
けれど、その血は“自分そのもの”ではない。
ただ、自分という器を通して他者が価値を見いだすための標。
そう思うと、胸の奥に微かな痛みが走った。
カリスはその沈黙を見逃さなかった。隣りを歩きながら、柔らかな声で問う。
「殿下は――あまりご自分の血統を、誇りに思われてはいないのですね」
王女は顔を上げかけたが、すぐに視線を逸らした。返す言葉を探すように、足元の影を見つめる。
カリスはその様子に、昨夜の晩餐の光景を思い出していた。
故国の情景を語る彼女の口ぶりは、王家の威を背負う者というより、ただそこに生まれ育った一人の娘のものだった。
懐かしさに満ちてはいたが、誇示も自負もなく、どこまでも素朴で――それゆえに、少し危うい。
この王女は、自らの血統が周囲にどのような意味をもたらすのかを、まだ知らない。
血を笠に着る者よりは遥かに清らかだが、秩序を支える者として見れば、その無自覚さは脆さでもある。
(……ルガード元帥も、きっと感じ取っておられる)
カリスは胸の内で静かに思う。
そして――帝都にいるあの皇帝も、同じことを理解しているに違いなかった。
王女はしばらく考えるように沈黙し、やがて小さく口を開いた。
「……私が何かを為して得たものではありませんから」
静かな声だった。
けれど、その一言には、長く胸の奥で沈黙してきた思いがかすかに滲んでいた。
「それに……」
自分でも不思議なほど自然に、言葉が続いていた。
これまでなら呑み込んでいたはずのものを――
たぶん、カリスの穏やかな眼差しと、この旧都の柔らかな空気が、王女にそれを口にすることを許したのだろう。
「……千年続いたからと言って、何か奇跡を起こす力が宿っているわけでもありませんでした。滅びる時は、たった一夜でした」
そう言って、王女はまっすぐにカリスを見た。
「――そんな血に、いったい何の価値が?」
淡々としていたが、その声には、かすかに凍えたような響きがあった。
もしこの血に、ほんのわずかでも奇跡の力があったのなら。
あの滅びの夜、目の前で自分を守って崩れ落ちた者たちを救えたのなら――
そのとき、自分はこの血を誇れただろう。
けれど、あの夜。
何もできなかった。
ただ泣き、無力なまま炎を見ていた。
あの夜、王女はこの血を呪った。
奇跡をもたらさぬまま受け継がれてきた、虚ろな血を。
カリスは思わず息を止めた。
まっすぐに彼を見据える王女の瞳からは、これまでの頼りなげな柔らかさが消えていた。
代わりにそこに宿っていたのは、静かな憤りと――焼け跡を越えて立ち上がる者だけが持つ光。
修羅を見た者の眼だった。
(――この方は、本当に自らの首に刃を当てて声を上げたのかもしれない……)
噂は、誇張ではなかったのかもしれない。
カリスは短く息を整え、深く頭を垂れた。
「……失礼いたしました。殿下の抱えるものに、想像も馳せずに物を申し上げてしまいました」
その声音には、心からの慎ましさがこもっていた。
王女が首を振りかけたところで、カリスは静かに言葉を継ぐ。
「ですが――歴史や伝統というのは、何か特別な力が宿るから尊いのではありません」
彼はゆるやかに歩みを進め、夕陽に染まる街並みを見渡した。
「それは“受け継ぐもの”としての誇りなのです。長い時の流れの中で手渡されてきたものを、また次の代へと渡す。その使命を引き受けた者としての誇り――そういうものが、歴史を継ぐ者の内にはあります」
石畳の上に落ちる影が、二人の足もとで重なった。
カリスはその影を見つめながら、静かに言葉を締めくくる。
「旧都の人々は、その“受け継ぐ”という在り方に、深い敬意を払います。奇跡ではなく――続ける意志そのものに、です」
風がゆるやかに吹き抜け、遠くの鐘の音が小さく重なった。
王女はその言葉の余韻を、胸の奥で静かに受け止めていた。
(……受け継ぐもの。次の代へと渡す……)
不意に、記憶の底から男の声が甦った。
――『俺には、情を信じ切ることはできない。だが――それが滅びたものの中に残る灯なら、掬う価値はあると思っている』
乾いた風が頬を撫で、遠くで鳥の羽音がした。
(……“渡せ”ということだったのかしら)
千年続いた血が受け継いできたものの中から、次の世に残す価値があると思うものを。
それを見つけ、手渡せと。
あの時、ダリオスは、そんなことを言っていたのかもしれない。
――滅びた血を受け継ぐ者としての使命。
唐突に胸の奥に言葉が浮かんだ。
これまで一度も思いもしなかった考え。
ぶるりと、王女の肩が震える。
それは冷たい風のせいではなかった。
自分の内に芽吹いた言葉の響きが、火を灯すように胸を熱くしたのだ。
王女はゆっくりと息を吸い込み、遠くの山影に沈みゆく陽を見つめた。
橙の光が、長い影を落としながら、彼女の心の奥にも静かに差し込んでいた。




