6 灰狼の饗応
── 帝城・執務室 ──
午後の陽が南窓から差し込み、硝子越しに灰の絨毯を淡く照らしていた。室内には、紙を操る音だけが微かに響く。
その静けさを破るように、かすかな羽音が響く。
窓の外、石の張り出しに据えられた止まり木に、一羽の伝書鳩が舞い降りていた。
その足には、銀の環と小筒。
セヴランがすぐに立ち上がり、窓を開けて鳥を迎える。結わえられた小筒から細い紙を抜き取って素早く目を走らせる。
「……王女殿下、無事に旧都へご到着とのことです」
椅子の背にもたれていたダリオスが、わずかに目を細めた。
「そうか。……しばし羽根を休めてもらうとしよう」
淡い声に、冷たさよりも遠い安堵の響きが混じる。
窓の外では陽光がゆるやかに傾き、石壁の影が長く伸びていた。
セヴランは脇机の上に紙片を置き、柔らかく頷いた。
「ええ。旧都なら、ルガード元帥が目を光らせておられます。暗殺者の影も、あそこまでは届かないでしょう」
「……あの男の手の内なら、心配はいらん」
ダリオスは短く息を吐いた。
セヴランはわずかに視線を落として続ける。
「姫君が旧都にいる間に、こちらの整理を進めましょう。やるべきことは山積みですから」
「……そのつもりだ」
ダリオスは短く応じ、机上の文書の山に目を戻した。
静かな部屋に、紙を繰る音がふたたび落ちる。
「……しまったな」
ふと、何かを思い出したようにダリオスが低く呟いた。
セヴランが眉を寄せる。
「どうなさいました?」
ダリオスは指を額に当てて言った。
「ルガードに“もてなすなら、貴族式で”と釘を刺しておくのを――忘れていた」
セヴランは、あぁ……と苦笑いした。
「……まあ、姫君なら大丈夫でしょう」
灰の絨毯の上に、陽の色がじわりと広がる。
硝子の外では、伝書鳩が再び羽ばたき、空へと舞い上がっていった。
―― 旧都・総督城・晩餐の間 ――
王女は、目の前に広がる光景に思わず瞬いた。
晩餐の準備が整ったと迎えに来たカリスに案内され、主城の奥へと通された先――
扉の向こうにあったのは、彼女の知る「晩餐」とはまるで異なる光景だった。
石壁に囲まれた広間の中央に、質素な木の円卓がひとつ。
卓上には白布も燭台もなく、ただ湯気を立てる大鍋がひとつ。
四脚の椅子が等間に並び、皿も杯もすでに並べられているが、どれも素朴な陶器で彩りらしいものはない。
(……これが、“晩餐”?)
既に椅子に腰を下ろしていたルガードが、顔を上げて笑った。
「おぉ、来なすったか。さあ、そこに座りなさい。冷めちまう」
王女は促されるまま、恐る恐る椅子に腰を下ろした。
湯気が頬を撫でる。
卓上の鍋の中では、肉と根菜が音を立てて煮えている。
「旅の疲れを癒やすには、温かくて精の出るものが定番だろう、と思ってな」
豪快な声が響く。
王女が言葉を探していると、脇に控えていたカリスが、少し苦笑を浮かべて言った。
「今朝がた、元帥自ら、猪を狩りに出かけられまして……」
「捕れたてが一番うまいからな」とルガードが笑い飛ばす。
鍋の中から、湯気と共に立ちのぼる匂いが、部屋の石壁に柔らかく満ちる。
「ほら、お前らも座れ」
ルガードが王女の脇に控える二人に向かって顎をしゃくった。
思わず王女の目が丸くなる。
(……え、まさか、全員で?)
ミレイユは一礼し、落ち着いた声で答えた。
「私は一介の侍女ですので、後ろで控えております」
「何を言ってるんだ。鍋の前では身分も役職も関係ない。これが旧都流だ」
ルガードは笑いながら、杓を手に取る。
「……旧都流ではなく、ルガード様流かと。姫様に誤解を与えるような発言はお控えください」
淡々と冷静に返すミレイユ。
「本当にお前は融通がきかんな」
ルガードは苦笑し、卓上の鍋を見やりながら肩をすくめる。
「じゃあこうしよう。これは命令だ。鍋が冷めないうちに座れ」
ミレイユは嘆息し、王女の方へ目を向けた。
「姫様、よろしいでしょうか?」
王女は一連のやり取りに面食らいながらも、「えぇ……」と小さくうなずく。
「では、失礼いたします」
ミレイユは静かに椅子を引いて座る。
その隣で、カリスが苦笑しながら「王女殿下、失礼いたします」と一礼し、席についた。
王女は、卓に腰を下ろしたミレイユの横顔を見つめながら、胸の奥で小さく息を呑んだ。
(……ミレイユなら、きっと“私が従うのは陛下の命令のみです”と言うはずなのに)
いつも無機質に自分の職務を遂行する彼女が、ルガードの言葉に、わずかな逡巡を見せつつも従った。
その理由について考えるうちに、ふと視線が卓の向こうの男に向かう。
豪快に笑い、肉を鍋に沈めているその仕草の中に、どこか――ダリオスの面影があった。
容貌は全く異なるのに――
命じるときの口調。
人を従わせながら、同時にその場の空気を動かしてしまう力。
強引さの奥に、時折、奇妙な温かさを宿す、あの支配の気配。
(……似ている)
ルガードの笑い声が低く響き、鍋の湯が小さく跳ねた。
その音に紛れて、王女は自分の胸の鼓動が早まっていくのを感じた。
「本当は外で焚き木にくべて食うのが鍋は一番うまいんだがな」
湯気の向こうで、ルガードが豪快に笑う。
「今の季節、外は殿下には、お寒いだろうからな」
「季節に関わらず、おやめください」
隣りのミレイユが無表情のまま、ぴしゃりと言う。
ルガードは気にする様子もなく、木杓子を手に鍋をのぞき込む。
「ほら、よく煮えている。芋も柔らかいぞ」
ごろりと煮崩れた根菜と肉を椀に取り分けようとしたそのとき、ミレイユが椅子を引いて立ち上がった。
「私がやりますので、元帥閣下がそのようなことをなさらないでください」
だがルガードは片手を上げて制した。
「客人は大人しく振舞われていろ。ここは旧都だ」
「……」
深い溜め息をひとつ落とし、ミレイユは静かに腰を戻した。
そのやり取りを、目をしばたかせながら見守る王女の隣りで、カリスが小さく肩をすくめて苦笑した。
「人が来ると、いつもこの調子なんですよ、殿下」
王女は、思わず小さく笑みをこぼした。
湯気と笑い声が交じり合い、灰色の石壁の部屋が不思議に柔らかく見えた。
――こうして、旧都の晩餐は穏やかに過ぎていった。
── 夜半 総督城・屋上 ──
澄んだ夜空に星々が瞬いていた。
旧都の街灯りが遠くに瞬き、森の黒い輪郭が月光を縁取っている。
石の欄干にもたれ、ルガードは煙管を片手に空を仰いでいた。
その隣りで、カリスが静かに尋ねる。
「王女殿下は、いかがでしたか」
「うむ……」
短い返事とともに、吐き出された煙が夜気に溶けていく。
ルガードはしばらく黙していたが、やがて低く言葉を継いだ。
「大切に守られて育った姫君なのだろうな」
月の光が、彼の頬に淡く落ちて傷跡を照らす。
晩餐の折に、王女が語った故国の景色――
澄んだ山稜の連なり、水音を散らす川、陽を抱いた葡萄棚と揺れる麦穂、そして夏風の抜ける避暑地の丘。
「……綺麗なものだけを見せられてきたんだろう。優しいものだけを」
それが悪いわけではない。
むしろ、それゆえに彼女の纏う品や、誰にでも分け隔てなく接する物腰がある。
晩餐の席に侍女が同席したことに、驚きや戸惑いはしても、眉ひとつ曇らせなかった。
そういう心根の素直さは、たぶん、育ちという土壌が育てたのだ。
「古き伝統を背負った王家の姫君として他国に嫁いでいれば――
きっと穏やかな人生を歩んでいたのだろう。それなりに、民にも慕われ、子を産み、母となり……」
――だが、彼女の故国は滅びた。ルガードらが滅ぼした。
夜空を見上げながら、ルガードは煙を吐き出す。
しばし沈黙が落ちる。
風が髪を撫で、遠くの森からかすかな鳥の声が響いた。
やがて、ルガードは視線を南東に移し、帝都の方角をじっと見つめた。
「……なるほどなぁ」
その声には、ひとつの像が輪郭を持ち始めた時の、納得と痛みがあった。
カリスが、少し空気を和らげるように口を開いた。
「やはり、王女殿下の噂は……陛下によって、いくぶん“盛られた”ものなのでしょうね。
市場で刃物を喉に当てて声を上げたというのは、さすがに――あの方の雰囲気からは、ちょっと想像ができません。市場で故国の者たちを助けるために、何らかの行動をされたのは事実でしょうが……」
その声にはどこか笑みを含んだ柔らかさがあった。
けれど、ルガードは腕を組んだまま、低く唸るように答える。
「うーん……どうだろうなぁ。そこは、まだ何とも言えんな」
カリスが目をまたたかせる。
「と、言いますと?」
「――あいつの作る話にしちゃ、ちょっと毛色が違うんだよな」
「陛下の……ですか?」
ルガードはにやりと笑う。
「そうさ。あの男の描く“物語”は、もっと理屈っぽくて、舞台が整ってる。だが、市場の件は……もう少し雑多な“生”の匂いがする。台本の用意されていない、即興劇のような」
風が吹き抜け、外套の裾がかすかに揺れた。
目を細めながら、ルガードは夜空を仰ぐ。
「まぁ、ミレイユが王女殿下を信頼してるってことだけは、はっきりしたな」
カリスが小さく首を傾げる。
「……そんな様子、ありましたか?」
晩餐の席を思い出す。
王女とミレイユが交わした会話は、必要最低限で、感情の抑揚もなかったはずだ。
ルガードは鼻で笑い、軽く肩をすくめる。
「……お前はな、相手が誰にどう言ったかしか見てないから、人を見る目が足りんのさ」
カリスは苦笑しながら、星空に視線を上げた。
夜風が石壁を撫で、星々の光が遠くでまたたいていた。




