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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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6 灰狼の饗応

 ── 帝城・執務室 ──


 午後の陽が南窓から差し込み、硝子越しに灰の絨毯を淡く照らしていた。

 室内には、紙を操る音だけが微かに響く。


 その静けさを破るように、かすかな羽音が響く。

 窓の外、石の張り出しに据えられた止まり木に、一羽の伝書鳩が舞い降りていた。その足には、銀の環と小筒。


 セヴランがすぐに立ち上がり、窓を開けて鳥を迎える。

 結わえられた小筒から細い紙を抜き取って素早く目を走らせる。


「……王女殿下、無事に旧都へご到着とのことです」


 椅子の背にもたれていたダリオスが、わずかに目を細めた。

「そうか。……しばし羽根を休めてもらうとしよう」


 淡い声に、冷たさよりも遠い安堵の響きが混じる。

 窓の外では陽光がゆるやかに傾き、石壁の影が長く伸びていた。


 セヴランは脇机の上に紙片を置き、柔らかく頷いた。

「ええ。旧都なら、ルガード元帥が目を光らせておられます。暗殺者の影も、あそこまでは届かないでしょう」


「……あの男の手の内なら、心配はいらん」

 ダリオスは短く息を吐いた。


 セヴランはわずかに視線を落として続ける。

「姫君が旧都にいる間に、こちらの整理を進めましょう。やるべきことは山積みですから」


「そのつもりだ」

 ダリオスは短く応じ、机上の文書の山に目を戻した。


 静かな部屋に、紙を繰る音がふたたび落ちる。


「……しまったな」

 ふと、何かを思い出したようにダリオスが低く呟いた。


 セヴランが眉を寄せる。

「どうなさいました?」


 ダリオスは指を額に当てて言った。

「ルガードに“もてなすなら、貴族式で”と釘を刺しておくのを──忘れていた」


 セヴランは、あぁ……と苦笑いした。

「……まあ、姫君なら大丈夫でしょう」


 灰の絨毯の上に、陽の色がじわりと広がる。

 硝子の外では、伝書鳩が小さくひと声鳴いた。





 ── 旧都総督城・晩餐の間 ──


 王女は、目の前に広がる光景に思わず瞬いた。


 晩餐の準備が整ったと迎えに来たカリスに案内され、主城の奥へと通された先にあったのは、彼女の知る「晩餐」とはまるで異なる光景だった。


 石壁に囲まれた広間の中央に、質素な木の円卓がひとつ。

 卓上には白布も燭台もなく、ただ湯気を立てる大鍋がひとつ。

 四脚の椅子が等間に並び、皿も杯もすでに並べられているが、どれも素朴な陶器で彩りらしいものはない。


(……これが、“晩餐”?)


 既に椅子に腰を下ろしていたルガードが、顔を上げて笑った。

「おぉ、来なすったか。さあ、そこに座りなさい。冷めちまう」


 王女は促されるまま、恐る恐る椅子に腰を下ろした。

 湯気が頬を撫でる。

 卓上の鍋の中では、肉と根菜が音を立てて煮えている。


「旅の疲れを癒やすには、温かくて精の出るものが定番だろう、と思ってな」

 豪快な声が響く。


 王女が言葉を探していると、脇に控えていたカリスが、少し苦笑を浮かべて言った。

「今朝がた、元帥自ら、猪を狩りに出かけられまして……」


 「捕れたてが一番うまいからな」とルガードが笑い飛ばす。

 鍋の中から、湯気と共に立ちのぼる匂いが、部屋の石壁に柔らかく満ちる。


「ほら、お前らも座れ」

 ルガードが王女の脇に控える二人に向かって顎をしゃくった。


 思わず王女の目が丸くなる。

(……まさか、全員で?)


 ミレイユは一礼し、落ち着いた声で答えた。

「私は一介の侍女ですので、後ろで控えております」


「何を言ってるんだ。鍋の前では身分も役職も関係ない。これが旧都流だ」

 ルガードは笑いながら、杓を手に取る。


「……旧都流ではなく、ルガード様流かと。姫様に誤解を与えるような発言はお控えください」

 淡々と冷静に返すミレイユ。


「本当にお前は融通がきかんな」

 ルガードは苦笑し、卓上の鍋を見やりながら肩をすくめる。

「じゃあこうしよう。これは命令だ。鍋が冷めないうちに座れ」


 ミレイユは嘆息し、王女の方へ目を向けた。

「姫様、よろしいでしょうか?」


 王女は一連のやり取りに面食らいながらも、「えぇ……」と小さくうなずく。


「では、失礼いたします」

 ミレイユは静かに椅子を引いて座る。


 その隣で、カリスが苦笑しながら「王女殿下、失礼いたします」と一礼し、席についた。


 王女は、卓に腰を下ろしたミレイユの横顔を見つめながら、胸の奥で小さく息を呑んだ。

(……ミレイユなら、きっと“私が従うのは陛下の命令のみです”と言うはずなのに)


 いつも無機質に自分の職務を遂行する彼女が、ルガードの言葉に、わずかな逡巡を見せつつも従った。


 その理由について考えるうちに、ふと視線が卓の向こうの男に向かう。

 豪快に笑い、肉を鍋に沈めているその仕草の中に、どこか──ダリオスの面影があった。


 容貌は全く異なるのに──

 命じるときの口調。

 人を従わせながら、同時にその場の空気を動かしてしまう力。

 強引さの奥に、時折、奇妙な温かさを宿す、あの支配の気配。


(……似ている)


 ルガードの笑い声が低く響き、鍋の湯が小さく跳ねた。

 その音に紛れて、王女は自分の胸の鼓動が早まっていくのを感じた。


「本当は外で焚き木にくべて食うのが鍋は一番うまいんだがな」

 湯気の向こうで、ルガードが豪快に笑う。

「今の季節、外は殿下には、お寒いだろうからな」


「季節に関わらず、おやめください」

 隣のミレイユが無表情のまま、ぴしゃりと言う。


 ルガードは気にする様子もなく、木杓子を手に鍋をのぞき込む。

「ほら、よく煮えている。芋も柔らかいぞ」


 ごろりと煮崩れた根菜と肉を椀に取り分けようとしたそのとき、ミレイユが椅子を引いて立ち上がった。

「私がやりますので、元帥閣下がそのようなことをなさらないでください」


 だがルガードは片手を上げて制した。


「客人は大人しく振舞われていろ。ここは旧都だ」

「……」


 深い溜め息をひとつ落とし、ミレイユは静かに腰を戻した。


 そのやり取りを、目をしばたかせながら見守る王女の隣で、カリスが小さく肩をすくめて苦笑した。

「人が来ると、いつもこの調子なんですよ、殿下」


 王女は、思わず小さく笑みをこぼした。

 湯気と笑い声が交じり合い、灰色の石壁の部屋が不思議に柔らかく見えた。


 ──こうして、旧都の晩餐は穏やかに過ぎていった。





 ── 屋上 ──


 澄んだ夜空に星々が瞬いていた。

 旧都の街灯りが遠くに瞬き、森の黒い輪郭が月光を縁取っている。


 石の欄干にもたれ、ルガードは煙管を片手に空を仰いでいた。

 その隣で、カリスが静かに尋ねる。

「王女殿下は、いかがでしたか」


「うむ……」

 短い返事とともに、吐き出された煙が夜気に溶けていく。


 ルガードはしばらく黙していたが、やがて低く言葉を継いだ。

「大切に守られて育った姫君なのだろうな」


 月の光が、彼の頬に淡く落ちて傷跡を照らす。


 晩餐の折に、王女が語った故国の景色──

 澄んだ山稜の連なり、水音を散らす川、陽を抱いた葡萄棚と揺れる麦穂、そして夏風の抜ける避暑地の丘。


「……綺麗なものだけを見せられてきたんだろう。優しいものだけを」


 それが悪いわけではない。

 むしろ、それゆえに彼女の纏う品や、誰にでも分け隔てなく接する物腰がある。

 晩餐の席に侍女が同席したことに、驚きや戸惑いはしても、眉ひとつ曇らせなかった。

 そういう心根の素直さは、たぶん、育ちという土壌が育てたのだ。


「古き伝統を背負った王家の姫君として他国に嫁いでいれば──

 きっと穏やかな人生を歩んでいたのだろう。それなりに、民にも慕われ、子を産み、母となり……」


 ──だが、彼女の故国は滅びた。ルガードらが滅ぼした。


 夜空を見上げながら、ルガードは煙を吐き出す。


 しばし沈黙が落ちる。

 風が髪を撫で、遠くの森からかすかな鳥の声が響いた。


 やがて、ルガードは視線を南東に移し、帝都の方角をじっと見つめた。


「……なるほどなぁ」


 その声には、ひとつの像が輪郭を持ち始めた時の、納得と痛みがあった。


 カリスが、少し空気を和らげるように口を開いた。

「やはり、王女殿下の噂は……陛下によって、いくぶん“盛られた”ものなのでしょうね。

 市場で刃物を喉に当てて声を上げたというのは、さすがに──あの方の雰囲気からは、ちょっと想像ができません。市場で故国の者たちを助けるために、何らかの行動をされたのは事実でしょうが……」


 その声にはどこか笑みを含んだ柔らかさがあった。


 けれど、ルガードは腕を組んだまま、低く唸るように答える。

「うーん……どうだろうなぁ。そこは、まだ何とも言えんな」


 カリスが目をまたたかせる。

「と、言いますと?」


「──あいつの作る話にしちゃ、ちょっと毛色が違うんだよな」


「陛下の……ですか?」


 ルガードは、にやりと笑う。


「そうさ。あの男の描く“物語”は、もっと理屈っぽくて、舞台が整ってる。だが、市場の件は……もう少し雑多な“生”の匂いがする。台本の用意されていない、即興劇のような」


 風が吹き抜け、外套の裾がかすかに揺れた。

 目を細めながら、ルガードは夜空を仰ぐ。


「まぁ、ミレイユが王女殿下を信頼してるってことだけは、はっきりしたな」


 カリスが小さく首を傾げる。

「……そんな様子、ありましたか?」


 晩餐の席を思い出す。

 王女とミレイユが交わした会話は、必要最低限で、感情の抑揚もなかったはずだ。


 ルガードは鼻で笑い、軽く肩をすくめる。

「……お前はな、相手が誰にどう言ったかしか見てないから、人を見る目が足りんのさ」


 カリスは苦笑しながら、星空に視線を上げた。

 夜風が石壁を撫で、星々の光が遠くでまたたいていた。

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