1 記憶の灯
── 帝城・謁見の間 ──
重々しい扉が開かれると、冷たい石の空気が流れ込んだ。
赤い絨毯の上を、兵に伴われた王女が進んでいく。
旅の埃は払われ、質素ながらも整えられた衣をまとわされていた。
けれど、その足取りには鎖の響きよりも重いものがあった。
その先、玉座に身を預けるのは――帝国皇帝ダリオス。
高みに掲げられた黒獅子の紋章の影が、彼の輪郭をより大きく映し出していた。
跪かされた王女の頭上から、低い声が降る。
「……帰ってきたな、王女」
その響きに、胸の奥で何かが軋んだ。
死を覚悟して駆け抜けた山道。
宿場町の窯から立つ熱気や、人々と交わした笑い声。
命を削って掴んだ自由のひとときが――全て、この男の思惑どおりだったというのか。
怒りが熱となって血を駆けめぐる。
爪が食い込むほど拳を握りしめ、悔しさに喉が焼けた。
堪えきれず、声が迸る。
「夢を見せて……弄ぶために逃がしたのですか。
すべて……あなたの掌の上で!」
琥珀の瞳を上げ、王女は憎しみに震えながら睨みつける。
兵が咎めようと槍を動かすが、
「よい」
とダリオスの静かな声が割って入り、広間に静けさが戻った。
「少しは声を覚えたか」
彼は愉快そうに笑んだ。
「以前は言いたいことすら言えない……いや、そもそも自分が何を望んでいるのかすら分かっていないような女だったが……外の風を浴びさせた甲斐はあったようだ」
その嘲弄に胸がざわめく。
やがて、彼はついに堪えきれぬように肩を揺らし、声を漏らした。
「くくっ……いや、笑わせるな。
お前のような女が、ひとりで西方の宿場町までたどり着けるわけないじゃないか」
高窓からの光に浮かんだ口元は、本当におかしそうに歪んでいる。
その言葉に、王女の胸が冷たく揺らいだ。
山中で獣の気配に震えた夜。
宿場の手前で怪しい影に囲まれかけたとき。
なぜかいつも決定的な危機にはならず、道は開かれていた――。
(……守られていた? 導かれて……?)
血の気が引いていく。
決死の逃亡すら、この男の掌に置かれていたのだと悟った。
「……!」
言葉が喉に貼りつき、声にならない。
誇りの支えを削り取られる衝撃に、王女はただ震えるしかなかった。
そんな彼女を、玉座の上からじっと見下ろす。
愉快げに目を細め、獲物の反応を確かめる狩人のように。
「どうだ。民の中に紛れ、パンをこね、国境の風を吸った感想は?」
挑発のようでいて、まるで試すような響き。
けれど答えを口にした瞬間、それすら彼の手で穢されてしまう気がした。
夜明けの窯から立ちのぼる香りと、温かいパンの手触り。
山を越えた夜明けの風の冷たさ。
自分の手で掴んだはずの「生きている感覚」。
(……奪われたくない。あれだけは……)
唇を結ぶ。
言葉にした途端、すべてが彼の掌の遊戯に変わってしまうから。
王女は視線を逸らし、喉奥で燃えて消える声を必死に飲み込んだ。
ダリオスはそんな沈黙を愉快げに見下ろす。
「答えぬか。……まあ、それもいい」
ゆったりと玉座に身を預け、目を細める。
「言葉にできぬほど濃い時を過ごした、ということだろう。外の風は無駄ではなかったな」
その一言に、悔しさで胸が震えた。
何も返さないことすら、すでに見透かされている。
黙り続けることさえ、この男にとっては「答え」になるのだ。
(……私の記憶を、これ以上汚させてなるものか……!)
喉の奥に渦巻く叫びを飲み込みながら、王女は唇を固く結んだ。
玉座に深く身を預けたまま、ダリオスはしばし沈黙した。
王女の沈黙を愉しむかのように目を細め、その気配が広間を支配する。
やがて、低い声が落ちた。
「……だが、それでも逃亡の罰は必要だな」
その一言に、王女の心臓が大きく跳ねる。
背筋が強張り、冷たい汗が首筋を伝った。
「籠を破り、国境まで駆け抜けた。面白い羽ばたきだったが……それはそれ。
秩序を乱した鳥には、躾が要る」
声は静かだが、石壁に響くその低音は裁きの鐘のように重い。
喉が乾き、言葉は出てこない。
ただ鼓動だけが広間に響くように速まっていく。
ダリオスが立ち上がり、玉座の階段を下りてきた。
靴音が一歩ごとに迫り、やがて王女の前に影を落とす。
「殺しはしない。俺はお前を生かすと決めている」
そう言いながら、彼は王女の顎を指先で持ち上げた。
琥珀の瞳を強引に捕らえ、愉快げに笑う。
「だが――その生をどう刻むかは、俺の気分ひとつだ」
言葉が刃のように心に突き立つ。
ゆるやかに指先が顎から離れ、空気がひやりと肌を撫でた。
「さて、逃亡の代償をお前の身体と心に刻み込むためには、どんな罰がふさわしいかな……」
広間に張り詰めた沈黙が落ちた。
高窓からの光が差し込み、長い影が石床に伸びる。
王女の胸がひゅっと縮み、呼吸が細くなる。
背筋を冷気が這い、膝が震えた。
声は――出なかった。
恐怖が心臓を掴み、暗闇に沈みかけたその瞬間。
胸をかすめたのは――
外で確かに触れた匂いと風の記憶。
一瞬の灯のように、闇の底でかすかに揺らめいた。
(――奪わせない。あれだけは)
恐怖に震える身体を必死に支え、王女は唇を固く結んだ。
目を逸らさず、心の奥底でただ一つを誓う。
――罰が何であろうと、あの記憶だけは失わない。
広間に静寂が満ちる。
王女の胸に絡み合うのは恐れと覚悟。
その瞳には、かつてなかった強い光が宿り始めていた。




