4 追憶の路
―― 西方街道・馬車内 ――
年の瀬の迫る頃、王女は旧都へ向けて帝都を発った。
年が明けると旧都に雪が降り出すから――そう言われ、急かされるように送り出された。
けれど、本当の理由は別にあるのだろう、と王女は薄々察していた。
年の瀬や新年の宴――帝国が繁栄を祝うその場で、「災いを呼ぶ姫」と囁かれる彼女の姿は、避けられた方が都合がよいのだろう。
去年は“象徴”として立たされた祝賀の場に、今年は立たなくてよい――
それは、本来なら安堵すべきはずのことだった。
けれど、胸の奥には、安堵とは異なる何かが澱のように沈んでいた。
冷たい風が馬車の窓を叩く。
馬車は、帝国の紋章のついていない貴族用のものが用意された。「安全を考慮して」との名目だったが、見られたくないものを隠すような配慮にも思えた。
絹張りの座席に身を沈めながら、王女はそっと指先を組み、窓の外に流れていく帝都の石畳を見つめていた。
その目に、言い知れぬ光が揺れていた。
馬車が帝都の城壁の外へ抜けた時、王女の胸の鼓動がひとつ打つ。
逃亡先から連れ戻されて以来の外の景色。
あの日、決死の思いで抜け出た城門を、今日はあっさりとくぐりぬけた。
車輪が冷えた土を軋ませ、護衛の馬蹄が控えめな音を立てる。
往来の人々は衣を重ね、荷車には干し草や木箱が積まれている。
年の瀬の街道は、帰郷と商いの気配が交じり合い、冷たい空気の中にも人の温度があった。
(あの時と、同じ道……)
記憶が風に触れる。
夜明け前の灰色の空、祈りの声と、鉄扉が開く軋み。
胸の奥がざらつくように疼き、王女は無意識に両手を握りしめた。
かつて必死の思いで逃げた道を、今、馬車で辿っている。
あれから二年――それは、“もう二年”なのか、“まだ二年”なのか。
あの朝から、自分はずいぶん遠い場所へ来てしまった気がする。
戻れぬ道を、こうして静かに往くことになるとは、あの時の自分には想像もできなかった。
だが、馬車の中に響くのは、ただ規則的な車輪の音だけ。
その単調さが、過ぎ去った季節の重みをかえって際立たせていた。
「……姫様、寒くはございませんか」
向かいの席でミレイユが、淡い声で問いかける。
膝に掛けた毛布の端を整えながら、表情はいつもと変わらぬ無機質さだった。
王女は小さく首を振る。
「ええ……大丈夫よ」
それだけの言葉を交わして、ふたりのあいだに再び沈黙が落ちた。
外の風景は、ゆるやかに帝都の白石から、冬枯れの野と森の色へと変わっていく。
灰色の空の下、川面には薄氷が張り、遠くの丘に煙のような霧が漂っていた。
帝都を発って四日目。
鄙びた街道沿いの景色を眺めながら、王女は無意識に窓の外へ身を寄せた。
木々の枝には霜が光り、小川のせせらぎは薄氷をまとっている。
この道をまっすぐ進めば――窯の前で笑う、懐かしい女の顔がよぎる。
粉まみれの手、あのとき差し出された温かなパンの匂い。
(マルタ……)
胸の奥で、名前が静かに響いた。
さらにその先に、あの日浴びた国境の風が胸によみがえる。
湿った草の匂い、春先の冷たい空気、そして――。
王女の胸が、どくんと脈打った。
けれど馬車はそこで、ゆるやかに道を北へ逸れていった。
そのまま進めば届いたはずの場所を、見えぬ手が遠ざけるように。
車輪が方向を変える音がして、視界の中の地平がゆっくりとずれていく。
王女はわずかに身を起こし、揺れる窓の向こうを見つめた。
(――あの道は、もう選べない)
静かに目を伏せると、白い息が硝子に淡く滲んだ。
── 北上路・馬車内 ──
「ミレイユは……旧都に行ったことがあるの?」
昼過ぎ、景色が大きな曲がりを迎えた頃、王女はふと思いついたように問いかけた。雑談のような声音で、けれどどこか、胸の奥に沈む何かをほぐしたくて。
向かいの席で、ミレイユが、瞬きをひとつ落とす。
「あります……というより、陛下が帝都へ拠点を移された折、一緒に参りましたので、元々は旧都に」
声の調子は淡々としていて、懐かしむ色も、遠ざける気配もなかった。
そう、と王女は頷きながら、ぼんやりと窓の外へ視線を戻した。
(旧都――)
帝都から北西に馬車で六日の距離。
帝国がまだ“帝国”と名乗る前、共和国時代の首都として栄えた場所。
三年前、国号が帝国へと改められると同時に、政治の中心は今の帝都へ移された。しかし、ダリオスは、それより前から、現在の旧都を元帥に任せ、すでに帝都へ拠点を移し始めていたと聞く。
おそらく――東の戦を見据えてのことだったのだろう。王女の故国との戦を。
「旧都って……どういうところなの?」
王女が何気なく問いかけると、ミレイユは一瞬だけ視線を窓の外へ滑らせ、それから淡々と答えた。
「四方を針葉樹の山に囲まれた古い都です。街の中心を川が走り、石造りの家々が、昔の王国時代の街並みをそのまま残しています」
「昔の王国……?」
「この一帯が、まだ連邦王国だった頃のことです」
あぁ、と王女は頷いた。
二百年ほど前、大河流域を中心に、大小の領邦や都市、小王国がゆるやかに手を結び、「連邦王国」と呼ばれる一つの国を形づくっていた――
昔、そう教師に教わったことを、ふと思い出す。
だがその連邦は、数十年前に瓦解し、戦乱の時代へと突き進んだ。
その混迷の世を、破竹の勢いで駆け上がり、統一を果たしたのがダリオス。
帝国の初代皇帝として名を刻む男。
……けれど、その歩みの詳細を、王女はほとんど知らない。
故国では、敵国にまつわる話題は忌避されていた。
ましてや、その頂点に立つ人物について、教師の口から詳しく語られることなどなかった。
ダリオスという人間が、どこで生まれ、何を経て、何を信じて今に至ったのか――
王女は、まったく知らなかった。
それが、いま自分の運命を握っている人であるにもかかわらず。
ダリオスだけじゃない。
(私は、誰のことも、よく知らない――)
今、向かいに座るミレイユのことも、セヴランのことも。
彼らがどこで生まれ育ち、どういう経緯でダリオスに仕え、今この帝国の中枢にいるのか。
それを自分が知るべきなのか、知るべきでないのかも、よくわからない。
けれど――
それらを知らないということと、
自分の故国が、なぜ滅びたのかを知らずにいることとは、
どこかで繋がっているような気がしてならなかった。
真実に触れないまま、象徴として生かされているこの今も、
その延長にあるのかもしれない、と思う。
そうして帝都を発って六日目――
針葉樹の黒が折り重なる坂を越えたとき、霧の向こうに谷がひらける。
その底に、まるで時の流れから切り離されたように、街の姿があった。
白く霞む盆地に、屋根が連なっている。
石造りの古い建物の輪郭は、霧の中に溶け込みながら、どこか温もりを湛えていた。
川が一本、街を貫いてゆるやかに蛇行し、その水面に、陽光が淡く走る。
あちこちから細く立ち上る煙――
それは家々の煙突からのもので、灰色の空にほのかに滲んでいた。
(……これが、旧都)
かつて王国の心が息づいていた場所。
古い時代のままに今を生きる都。
馬車はゆっくりと坂を下り、白い霧の中へと沈んでいった。




