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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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4 追憶の路

―― 西方街道・馬車内 ――


年の瀬の迫る頃、王女は旧都へ向けて帝都を発った。


年が明けると旧都に雪が降り出すから――そう言われ、急かされるように送り出された。

けれど、本当の理由は別にあるのだろう、と王女は薄々察していた。

年の瀬や新年の宴――帝国が繁栄を祝うその場で、「災いを呼ぶ姫」と囁かれる彼女の姿は、避けられた方が都合がよいのだろう。


去年は“象徴”として立たされた祝賀の場に、今年は立たなくてよい――

それは、本来なら安堵すべきはずのことだった。

けれど、胸の奥には、安堵とは異なる何かが澱のように沈んでいた。


冷たい風が馬車の窓を叩く。

馬車は、帝国の紋章のついていない貴族用のものが用意された。「安全を考慮して」との名目だったが、見られたくないものを隠すような配慮にも思えた。

絹張りの座席に身を沈めながら、王女はそっと指先を組み、窓の外に流れていく帝都の石畳を見つめていた。

その目に、言い知れぬ光が揺れていた。


馬車が帝都の城壁の外へ抜けた時、王女の胸の鼓動がひとつ打つ。


逃亡先から連れ戻されて以来の外の景色。

あの日、決死の思いで抜け出た城門を、今日はあっさりとくぐりぬけた。


車輪が冷えた土を軋ませ、護衛の馬蹄が控えめな音を立てる。

往来の人々は衣を重ね、荷車には干し草や木箱が積まれている。

年の瀬の街道は、帰郷と商いの気配が交じり合い、冷たい空気の中にも人の温度があった。


(あの時と、同じ道……)


記憶が風に触れる。

夜明け前の灰色の空、祈りの声と、鉄扉が開く軋み。

胸の奥がざらつくように疼き、王女は無意識に両手を握りしめた。


かつて必死の思いで逃げた道を、今、馬車で辿っている。

あれから二年――それは、“もう二年”なのか、“まだ二年”なのか。

あの朝から、自分はずいぶん遠い場所へ来てしまった気がする。

戻れぬ道を、こうして静かに往くことになるとは、あの時の自分には想像もできなかった。


だが、馬車の中に響くのは、ただ規則的な車輪の音だけ。

その単調さが、過ぎ去った季節の重みをかえって際立たせていた。


「……姫様、寒くはございませんか」


向かいの席でミレイユが、淡い声で問いかける。

膝に掛けた毛布の端を整えながら、表情はいつもと変わらぬ無機質さだった。


王女は小さく首を振る。

「ええ……大丈夫よ」


それだけの言葉を交わして、ふたりのあいだに再び沈黙が落ちた。


外の風景は、ゆるやかに帝都の白石から、冬枯れの野と森の色へと変わっていく。

灰色の空の下、川面には薄氷が張り、遠くの丘に煙のような霧が漂っていた。





帝都を発って四日目。


鄙びた街道沿いの景色を眺めながら、王女は無意識に窓の外へ身を寄せた。

木々の枝には霜が光り、小川のせせらぎは薄氷をまとっている。


この道をまっすぐ進めば――窯の前で笑う、懐かしい女の顔がよぎる。

粉まみれの手、あのとき差し出された温かなパンの匂い。

(マルタ……)

胸の奥で、名前が静かに響いた。


さらにその先に、あの日浴びた国境の風が胸によみがえる。

湿った草の匂い、春先の冷たい空気、そして――。


王女の胸が、どくんと脈打った。


けれど馬車はそこで、ゆるやかに道を北へ逸れていった。

そのまま進めば届いたはずの場所を、見えぬ手が遠ざけるように。


車輪が方向を変える音がして、視界の中の地平がゆっくりとずれていく。

王女はわずかに身を起こし、揺れる窓の向こうを見つめた。


(――あの道は、もう選べない)


静かに目を伏せると、白い息が硝子に淡く滲んだ。




── 北上路・馬車内 ──


「ミレイユは……旧都に行ったことがあるの?」


昼過ぎ、景色が大きな曲がりを迎えた頃、王女はふと思いついたように問いかけた。雑談のような声音で、けれどどこか、胸の奥に沈む何かをほぐしたくて。


向かいの席で、ミレイユが、瞬きをひとつ落とす。

「あります……というより、陛下が帝都へ拠点を移された折、一緒に参りましたので、元々は旧都に」


声の調子は淡々としていて、懐かしむ色も、遠ざける気配もなかった。


そう、と王女は頷きながら、ぼんやりと窓の外へ視線を戻した。


(旧都――)


帝都から北西に馬車で六日の距離。

帝国がまだ“帝国”と名乗る前、共和国時代の首都として栄えた場所。

三年前、国号が帝国へと改められると同時に、政治の中心は今の帝都へ移された。しかし、ダリオスは、それより前から、現在の旧都を元帥に任せ、すでに帝都へ拠点を移し始めていたと聞く。

おそらく――東の戦を見据えてのことだったのだろう。王女の故国との戦を。





「旧都って……どういうところなの?」


王女が何気なく問いかけると、ミレイユは一瞬だけ視線を窓の外へ滑らせ、それから淡々と答えた。


「四方を針葉樹の山に囲まれた古い都です。街の中心を川が走り、石造りの家々が、昔の王国時代の街並みをそのまま残しています」


「昔の王国……?」


「この一帯が、まだ連邦王国だった頃のことです」


あぁ、と王女は頷いた。


二百年ほど前、大河流域を中心に、大小の領邦や都市、小王国がゆるやかに手を結び、「連邦王国」と呼ばれる一つの国を形づくっていた――

昔、そう教師に教わったことを、ふと思い出す。


だがその連邦は、数十年前に瓦解し、戦乱の時代へと突き進んだ。


その混迷の世を、破竹の勢いで駆け上がり、統一を果たしたのがダリオス。

帝国の初代皇帝として名を刻む男。


……けれど、その歩みの詳細を、王女はほとんど知らない。


故国では、敵国にまつわる話題は忌避されていた。

ましてや、その頂点に立つ人物について、教師の口から詳しく語られることなどなかった。


ダリオスという人間が、どこで生まれ、何を経て、何を信じて今に至ったのか――

王女は、まったく知らなかった。


それが、いま自分の運命を握っている人であるにもかかわらず。


ダリオスだけじゃない。

(私は、誰のことも、よく知らない――)

今、向かいに座るミレイユのことも、セヴランのことも。


彼らがどこで生まれ育ち、どういう経緯でダリオスに仕え、今この帝国の中枢にいるのか。

それを自分が知るべきなのか、知るべきでないのかも、よくわからない。


けれど――


それらを知らないということと、

自分の故国が、なぜ滅びたのかを知らずにいることとは、

どこかで繋がっているような気がしてならなかった。


真実に触れないまま、象徴として生かされているこの今も、

その延長にあるのかもしれない、と思う。





そうして帝都を発って六日目――


針葉樹の黒が折り重なる坂を越えたとき、霧の向こうに谷がひらける。

その底に、まるで時の流れから切り離されたように、街の姿があった。


白く霞む盆地に、屋根が連なっている。

石造りの古い建物の輪郭は、霧の中に溶け込みながら、どこか温もりを湛えていた。

川が一本、街を貫いてゆるやかに蛇行し、その水面に、陽光が淡く走る。


あちこちから細く立ち上る煙――

それは家々の煙突からのもので、灰色の空にほのかに滲んでいた。


(……これが、旧都)


かつて王国の心が息づいていた場所。

古い時代のままに今を生きる都。


馬車はゆっくりと坂を下り、白い霧の中へと沈んでいった。

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