3 旧都行の勅
── 帝城・執務室 ──
「……旧都?」
王女の唇から、思わず声が漏れた。
かすかな戸惑いが瞳を曇らせる。
深灰の絨毯が足音を吸い、石壁の内側に静寂が漂っていた。南窓の光が机上の書簡を照らし、墨の跡が淡く光を返している。
王女は小さく息を吸った。
「……旧都行きは、お断りしたはずですが」
沈黙の中、ダリオスの筆が一瞬だけ止まる。だが彼は顔を上げず、ただ短く息を吐いた。渋い表情が、逆光の中にわずかに動く。
セヴランが一歩前に出る。
「今回は、静養ではございません。目的は――視察です」
「……視察?」
王女の声がかすかに揺れる。
セヴランは手元の書簡を開き、淡々と続けた。
「旧都にも施療院を設ける計画が進んでおります。
その候補地を確認し、現地の民の状況を見ていただきたいのです」
「私が……見る?」
「ええ。帝国の“慈悲”を体現する象徴として。
あなたがそこに赴くこと自体が、帝国の意思を示すことになります」
セヴランの声音には、抑えた理性の響きがあった。
筆の音が再び止む。
机の向こう、黒い影がゆるやかに顔を上げた。
「生きた象徴は、遠ざけて飾るものではない」
低く落とされた声が、石壁に反響した。
「民に見せねばならん。帝国の慈悲が血肉をもつことを――お前という形でな」
「ですが……」
王女は小さく息をのみ、胸の前で指を重ねた。
「帝都の施療院の仕事が、まだ……。
第一施療院の者たちからの報告や相談を、城で直接聞くと――そう約束したばかりなのです」
その声音には、任を放り出すことへのためらいと、わずかな責任感の揺らぎがあった。
言葉を終えると同時に、室内の空気がいっそう静まる。
セヴランは机の脇に控えたまま、淡々と口を開いた。
「その件なら、ご心配には及びません。姫君が旧都におられる間は、私か、あるいは代わりの者が対応いたします」
「……代わりの者が」
王女の声がかすかに沈む。
セヴランは頷いた。
「仕事とは、そういうものです。誰かが赴くなら、誰かが留まる。役割は人に属するものではなく、仕組みに属するものです」
その言葉には、どこか諭すような響きがあった。
王女はうつむいたまま、指先を見つめる。
「……陛下」
静寂を破るように、王女が声を発した。
「なんだ」
顔を上げずに返す声は、変わらず平板で、感情を見せない。
王女は少し息を整えると顔を上げて、まっすぐにダリオスを見つめて言った。
「……何か、隠されていませんか」
わずかに空気が変わった。窓の光が揺らぎ、壁に映る影がかすかに動く。
灰の絨毯の上に、沈黙がふたたび降りた。
筆の音が止まる。
「隠すとは、いったい何をだ」
淡々とした声。
王女は小さく息を吐き、口の端にかすかな苦笑を浮かべる。
「……さすがに、ここまで陛下とお話ししていると、わかるようになります」
その声は責めるでもなく、ただ静かだった。
「陛下が、何かを隠していらっしゃる時の、空気の重さというか……“間”のようなものが」
ダリオスは筆を机に置き、顔を上げるとわずかに目を細めた。
その表情に浮かぶのは、驚きでも怒りでもなく――ほんの一瞬の、苦笑に似た影だった。
「……生意気を言うようになったな」
筆の先が指先で軽く転がされ、乾いた音を立てる。
だが、その声の奥には、否定しきれない何かが微かに滲んでいた。
王女はしばらく黙したのち、静かに口を開いた。
「……つまり陛下は、私が知る必要のないことだと判断された――ということですね」
ダリオスは視線だけを王女へと寄せる。
「仮に何か隠していることがあるとするなら……そうだな」
淡々とした声。だが、その穏やかさの下に、何かを測るような気配が潜んでいる。
王女は息を整え、まっすぐにダリオスを見た。
「それは――誰かの命に関わることですか?」
問いかけの奥に、過去の記憶が滲む。
何度も“知らされないままに”立たされたことの痛みが、言葉を押し出していた。
ダリオスはその視線を受け止め、ふっと表情を和らげた。
「……心配するな。今回は違う」
その声音は、珍しく柔らかかった。静かに言葉を続ける。
「余計なことを知らせない方が、そのままのお前を見せられると思ったからだ」
「……そのままの、私を?」
王女は首を傾げた。
ダリオスは短く笑い、わずかに身を引いた。
「余計なことを考えずに、ありのままの旧都を見てこい。見たものが何であれ――お前自身の目で、受け止めればいい」
その声は命令のようでいて、どこか温度を含んでいた。
王女は静かに頷き、胸の奥でその言葉を反芻した。
* * *
扉が閉まり、静寂が戻る。
執務室に、再び整った筆の音が響き始めた。
セヴランが脇机の書簡を整えながら、わずかに口元を緩める。
「……姫君も、ずいぶん逞しくなられましたね」
ダリオスは筆を走らせたまま、無造作に言葉を落とした。
「……まぁ、同じ手に何度もかかるようなら、それはそれで進歩がないということだ」
淡々とした声の端に、微かに笑みが滲む。
セヴランは肩をすくめる。
「“皇帝の手のひらの上”とはいえ……手のひらの上で立ち上がる者は、侮れませんよ」
「立っても、まだ手の中さ」
ダリオスは短くそう言って、書簡を脇に置いた。
だがその目は、先ほどまで王女が立っていた場所に、一瞬だけ留まっていた。
何かを測るように、あるいは――
何かを、見送るように。




