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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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3 旧都行の勅

── 帝城・執務室 ──


「……旧都?」

王女の唇から、思わず声が漏れた。

かすかな戸惑いが瞳を曇らせる。


深灰の絨毯が足音を吸い、石壁の内側に静寂が漂っていた。南窓の光が机上の書簡を照らし、墨の跡が淡く光を返している。


王女は小さく息を吸った。

「……旧都行きは、お断りしたはずですが」


沈黙の中、ダリオスの筆が一瞬だけ止まる。だが彼は顔を上げず、ただ短く息を吐いた。渋い表情が、逆光の中にわずかに動く。


セヴランが一歩前に出る。

「今回は、静養ではございません。目的は――視察です」


「……視察?」

王女の声がかすかに揺れる。


セヴランは手元の書簡を開き、淡々と続けた。

「旧都にも施療院を設ける計画が進んでおります。

 その候補地を確認し、現地の民の状況を見ていただきたいのです」


「私が……見る?」


「ええ。帝国の“慈悲”を体現する象徴として。

 あなたがそこに赴くこと自体が、帝国の意思を示すことになります」

セヴランの声音には、抑えた理性の響きがあった。


筆の音が再び止む。

机の向こう、黒い影がゆるやかに顔を上げた。

「生きた象徴は、遠ざけて飾るものではない」

低く落とされた声が、石壁に反響した。

「民に見せねばならん。帝国の慈悲が血肉をもつことを――お前という形でな」


「ですが……」

王女は小さく息をのみ、胸の前で指を重ねた。

「帝都の施療院の仕事が、まだ……。

 第一施療院の者たちからの報告や相談を、城で直接聞くと――そう約束したばかりなのです」


その声音には、任を放り出すことへのためらいと、わずかな責任感の揺らぎがあった。

言葉を終えると同時に、室内の空気がいっそう静まる。


セヴランは机の脇に控えたまま、淡々と口を開いた。

「その件なら、ご心配には及びません。姫君が旧都におられる間は、私か、あるいは代わりの者が対応いたします」

「……代わりの者が」

王女の声がかすかに沈む。


セヴランは頷いた。

「仕事とは、そういうものです。誰かが赴くなら、誰かが留まる。役割は人に属するものではなく、仕組みに属するものです」


その言葉には、どこか諭すような響きがあった。

王女はうつむいたまま、指先を見つめる。


「……陛下」

静寂を破るように、王女が声を発した。


「なんだ」

顔を上げずに返す声は、変わらず平板で、感情を見せない。


王女は少し息を整えると顔を上げて、まっすぐにダリオスを見つめて言った。

「……何か、隠されていませんか」


わずかに空気が変わった。窓の光が揺らぎ、壁に映る影がかすかに動く。

灰の絨毯の上に、沈黙がふたたび降りた。


筆の音が止まる。

「隠すとは、いったい何をだ」

淡々とした声。


王女は小さく息を吐き、口の端にかすかな苦笑を浮かべる。

「……さすがに、ここまで陛下とお話ししていると、わかるようになります」


その声は責めるでもなく、ただ静かだった。

「陛下が、何かを隠していらっしゃる時の、空気の重さというか……“間”のようなものが」


ダリオスは筆を机に置き、顔を上げるとわずかに目を細めた。

その表情に浮かぶのは、驚きでも怒りでもなく――ほんの一瞬の、苦笑に似た影だった。

「……生意気を言うようになったな」


筆の先が指先で軽く転がされ、乾いた音を立てる。

だが、その声の奥には、否定しきれない何かが微かに滲んでいた。


王女はしばらく黙したのち、静かに口を開いた。

「……つまり陛下は、私が知る必要のないことだと判断された――ということですね」

ダリオスは視線だけを王女へと寄せる。

「仮に何か隠していることがあるとするなら……そうだな」


淡々とした声。だが、その穏やかさの下に、何かを測るような気配が潜んでいる。

王女は息を整え、まっすぐにダリオスを見た。


「それは――誰かの命に関わることですか?」


問いかけの奥に、過去の記憶が滲む。

何度も“知らされないままに”立たされたことの痛みが、言葉を押し出していた。


ダリオスはその視線を受け止め、ふっと表情を和らげた。

「……心配するな。今回は違う」

その声音は、珍しく柔らかかった。静かに言葉を続ける。

「余計なことを知らせない方が、そのままのお前を見せられると思ったからだ」


「……そのままの、私を?」

王女は首を傾げた。


ダリオスは短く笑い、わずかに身を引いた。

「余計なことを考えずに、ありのままの旧都を見てこい。見たものが何であれ――お前自身の目で、受け止めればいい」


その声は命令のようでいて、どこか温度を含んでいた。

王女は静かに頷き、胸の奥でその言葉を反芻した。




 * * *




扉が閉まり、静寂が戻る。

執務室に、再び整った筆の音が響き始めた。


セヴランが脇机の書簡を整えながら、わずかに口元を緩める。

「……姫君も、ずいぶん逞しくなられましたね」


ダリオスは筆を走らせたまま、無造作に言葉を落とした。

「……まぁ、同じ手に何度もかかるようなら、それはそれで進歩がないということだ」

淡々とした声の端に、微かに笑みが滲む。


セヴランは肩をすくめる。

「“皇帝の手のひらの上”とはいえ……手のひらの上で立ち上がる者は、侮れませんよ」


「立っても、まだ手の中さ」

ダリオスは短くそう言って、書簡を脇に置いた。

だがその目は、先ほどまで王女が立っていた場所に、一瞬だけ留まっていた。


何かを測るように、あるいは――

何かを、見送るように。

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