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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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2 静かな再出発

── 帝都・第一施療院 昼下がり ──


昼の光が窓から差し込み、白い壁を淡く照らしていた。

薬草を刻む匂いと湯気が混じり合い、どこか湿った温もりが漂う。


長机のそばでは、数人の職員が書類を抱えながら、仕事の合間の雑談に興じていた。中の一人がふと思いついたように言う。

「そういえば、王女殿下、もうしばらくお見えになってませんね」


その言葉に、他の者たちが応じる。

「あぁ。ずっと“静養”だとか。……ま、無理もないさ」

「“あんなこと”があったんだ。気の毒と言えば気の毒だけど……」

帳簿の端をめくる手を止めて、誰かが苦笑した。

「正直、来ないでもらった方が助かるってのが本音だな。最近じゃ“災いを呼ぶ姫”なんて囁かれてるし」


その言葉を受けて、別の一人が少し棘のある口調で応える。

「まったくだ。施療院の代表者があの方ってだけで、冷ややかな目を向けられる。真面目にやってる現場のこっちが肩身の狭い思いだよ」

「上の都合で動かされて、しわ寄せがこっちに来る。……勘弁してほしいよな」


笑い混じりの溜息が漏れた、そのとき。


「――やめろよ」

短く鋭い声が落ちた。

彼らの話を黙って聞いていた青年が、椅子から立ち上がっていた。赤茶の髪に光が差し、真っ直ぐな視線が仲間たちを射抜く。


「ユリオ……?」

「殿下が、どれだけこの施療院のために力を尽くしてこられたか、忘れたのか。制度も現場も一から全部学んで見て回って――その上で、夜遅くまでかけて提案書を書いてくださっていたんだぞ」


沈黙。

誰かが気まずそうに咳払いをする。


「……けどさ。あの暗殺者を呼び寄せたのも、王女様だろ? 殿下がいなけりゃ、あんな騒ぎが起きなかったのは事実だ」

「そうだよ。こっちは巻き添えは御免だよ」

「……!」

ユリオの拳が震えた。

それでも、声は荒らげなかった。押し殺した低い声が、静かに空気を震わせる。

「殿下は……狙われた側だろ。傷ついた側の人だ。それを“災い”なんて言うのか」


職員たちは目を逸らし、手元の書類に視線を戻した。

「……悪かったよ」と誰かがぼそりと呟く。けれど、その声に反省の色はなかった。


その時だった。

入口の方で、誰かが息を呑む音がした。

「……王女殿下……」


ざわりと空気が揺れる。

一斉に振り向いた視線の先、白い扉の影に二つの人影。

フードを脱いだ王女が、静かにそこに立っていた。背後には、無表情に控える侍女の姿。


王女は、わずかに表情を強ばらせながら言った。

「……ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったのだけど……」


沈黙。

誰も言葉を発せず、ただ、時間が止まったように空気が張りつめた。


彼女は少し息を整えながら続ける。

「人目に立たぬよう、少し離れたところに馬車を停めて……こっそり、歩いて来たの」


職員たちは顔を見合わせ、みな一様に青ざめる。

視線を合わせられず、しどろもどろに言葉を失う。


王女は一歩、室内に進み出ると、深く頭を垂れた。

「……ごめんなさい。私のせいで……皆さんに、迷惑をかけて」

「と、とんでもありません……!」

慌てて誰かが声を上げるが、王女は頭を垂れたまま続けた。

「叙勲祭は……本来なら、施療院の皆さんにとって、誇りの場だったはずなのに。

 それを……私が、台無しにしてしまった。心からお詫びします」


その声音は、静かな痛みを帯びていた。

誰も口を開けず、ただ居たたまれぬ沈黙の中で、足元に視線を落としていた。


その中で、ユリオが一歩、前に出た。

「殿下のせいではありません。どうか……自分を責めないでください」

握り締めた拳が、かすかに震えている。


王女は顔を上げて、ゆっくりと彼の方へ目を向けた。

その瞳の奥には、やわらかな陰と、確かな光が同居していた。

「……いいえ」

静かな声が、部屋の空気を震わせる。

「私の存在と行いが、あの場を招いたのです」


その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が静かに沈んだ。


ユリオは、王女の顔を見つめたまま、ふと息を呑んだ。

そこにある瞳は、かつてのように戸惑いや迷いに揺れるものではなかった。静かに、しかし真っ直ぐに――覚悟の光が宿っていた。


王女は、小さく息を整え、その場を見渡した。

「今日、ここに伺ったのは……皆さんに、謝罪を伝えたかったのと……」

一拍置いて、言葉を重ねる。

「これからのことについて……少しお話しをさせていただきたくて」


ユリオは小さくうなずき、背後の一室に視線を向けた。

「では、向こうで……」


王女は一礼し、彼の後に続いた。

背後で扉が閉じる音がして、薬草の香りと人々の息づかいが遠ざかっていった。




── 小部屋 ──


「当面、私は施療院には――公に姿を見せることは控えた方がいいと思っています」

王女は両手を組み、ひと息の間を置いてから、慎重に言葉を紡いだ。


ユリオの眉が、わずかに動く。

王女はそれを見て、静かに続けた。

「けれど……改善の提案や現場の意見を聞くことは、やめたくないのです」


ユリオは真剣に頷いた。

「……殿下は、現場の声を大切にしてくださる。みんな、それをわかってます。今は少し混乱しているだけで――」

「ありがとう。でも、だからこそ慎重でありたいの」

王女は微かに笑みを浮かべ、言葉をつないだ。

「今日のように、人目につかない形で伺うことができれば――こういった場で、あなたから直接、現場の様子を教えてもらいたい。薬や人員の不足、患者の受け入れ状況、どんな些細なことでも構いません」


ユリオはわずかに視線を伏せ、考え込むように沈黙したのち、再び顔を上げた。

「……それは、もちろん構いません。ただ、殿下の……その、お立場や、安全のことを思うと――」


言葉の端が、わずかに途切れる。

彼の声音に、ためらいが混じっていた。


王女はその気配を受け取りながら、ゆるやかにまぶたを伏せた。

(……あの刃を振るった男は、まだ捕らえられていない)


もし、あの影が再び現れたら――

それは自分だけでなく、この施療院の人々をも巻き込むことになるだろう。

だからこそ、自分がここへ足を運ぶこと自体が、ユリオたちの迷惑になってしまうかもしれない。


王女は静かに息を整え、顔を上げた。

「えぇ、わかっています。ですので、もしも可能であれば……御足労をおかけしてしまいますが、あなたに城まで来てもらえないかと」


ユリオは少しの間、黙ったまま王女を見つめた。その瞳には、迷いと同時に、理解の色が浮かんでいた。

「……わかりました。私の方から伺います」


王女は目を細め、ゆるやかに頷いた。

「ありがとう、ユリオ。――それでは、次にお会いするのは城で、ということになりますね」


微笑の奥には、ほんのわずかな寂しさと、それを押し殺すような強さがあった。


しばしの静寂が落ちたのち――

王女は手元の茶器に視線を落としながら、ぽつりと呟くように言葉を落とした。

「……本当は、この任を降りるべきなのかもしれない、とも思ったのです」


ユリオの指が微かに動く。

だが彼は何も言わず、ただ静かに続きを待った。


「私が関わることで、ここの皆さんが積み重ねられてきた働きまで曇らせてしまうのなら……と」


王女はゆっくりと顔を上げる。

その瞳には、迷いの影と、それを越えようとする光が並んでいた。


「けれど――ここは、私が初めて、“誰かのために、自分にもできることがあるのかもしれない”と……そう思えた場所でした」


淡い光が帳の向こうから差し込み、彼女の瞳の奥をかすかに照らす。


「だから……やり方を変えてでも、できる限りのことをやってみたいのです」


ユリオはその言葉を胸の奥で受け止めるように、静かに頷いた。

王女は続ける。


「でも……もし、それが施療院にとって良くない方向に向かっていると感じたときは――どうか、その時は、遠慮なく言ってください。

 私の願いで、皆さんの現場を損なってしまうようなことだけは……絶対にしたくないから」


その声には、震えがなかった。

淡々としていながら、ひたむきな誠実さだけがあった。


ユリオは深く頷いた。

敬意を込めて、まっすぐに。


「……はい。必ず。思ったことは、すべて正直にお伝えします」


王女の口元が、ようやく穏やかにほどけた。

それは、重荷と共に立つ者の――静かな微笑だった。


窓の外では、冬の兆しを孕んだ風が、裸木の枝をかすかに鳴らしていた。

──そして、静かな誓いのような沈黙が、室内に満ちた。

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