1 灰狼の嗅覚
── 帝城・執務室 ──
分厚い石壁に囲まれた静寂の空間。
西日の射す窓の光が、灰の絨毯の上に斜めの線を描いていた。
机上には封蝋を割られた文書が山をなし、その中央に一通の書簡が投げ出されている。
「……仕事が早いというのも、時に考えものだな」
低く呟いたダリオスの眉間には深い皺。
手にしていた羊皮紙を読み終えるや、乱暴に机へ放り出した。
「私は陛下の命を遂行したまでですよ」
脇机に控えていたセヴランが、淡々と応じる。
「わかっている……」
ダリオスは短く答えたが、その声には苛立ちと、わずかな動揺が混じっていた。
そして、文書の端を再び睨みつける。
「……あのじじいが……!」
珍しく感情を露わにした声が、厚い石壁に低く響いた。
書簡の封には、帝国西辺を守る老元帥の名。
セヴランが机に近づき、書簡を取り上げて整える。
そこには、端整な筆跡でこう記されていた。
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《書簡》
拝啓 陛下におかれましてはご健勝のことと存じます。
王女殿下をお迎えする準備、すでに万端に整えてございます。
陛下の御命に従い、軍営も居館も整え、行啓の道筋すら磨き上げました。
にもかかわらず、突然の取りやめとの報。いかなる御心変わりか。
無論、我らは陛下の御命に従うのみ。
しかし、度重なる指示の変転は臣下の信を損なうものであります。
かかる不確かなる命のもとでは、もはや忠勤を果たす術もございませぬ。
ゆえに、もし王女殿下をお迎えできぬのであれば、
私は本状をもって、元帥の職を辞し、隠棲いたします。
……されど、陛下のご英断を信ずるがゆえ、
王女殿下は必ずお越しくださるものと、今なお期待しております。
敬具
帝国元帥 ルガード・ヴェルン
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セヴランは肩を竦め、ため息をつく。
「……あの方は会うたびに“隠居したい”と申しておりましたからね。
王女殿下を行かせなかったら、陛下の不義理をこれ幸いに、堂々と隠居されるでしょう」
「わかっている」
ダリオスは低く呟き、額に手を当てた。
「“信義を盾に退く”……見事な逃げ口上だ」
長い溜め息を吐き、椅子の背にもたれる。
掌が机を軽く叩いた。乾いた音が石壁にこだました。
セヴランは机の端に指を添え、穏やかに言った。
「――どうなさいますか。王女殿下の行啓、再びお決めになりますか」
ダリオスは答えず、長い息を吐いた。
「老い先短い身で、俺を弄ぶとはな」
ダリオスは苦く笑い、背凭れに身を預ける。
「まったく、帝国の西辺を守るより、俺の忍耐を試すほうが好きらしい」
セヴランが苦笑する。
「愉しんでおられるのでしょう。陛下の出方を」
言って視線を下げ、淡く微笑した。
(この“帝国そのもの”を名乗る男を、こうも人間らしくさせる相手がいる――)
やがて、ダリオスが静かに言葉を落とした。
「……仕方ない。行啓は再び進める。“餌”にするつもりはないが、見せておく価値はある」
セヴランは頷き、書簡を整えて机の端に置く。
「では、そのように。……王女殿下には、どのようにお伝えしますか」
「視察だ。……そう言っておけ」
窓の外で鐘が鳴り、陽が塔の影を長く引いた。
帝国の夕景が、静かに夜の色へと沈んでいった。
── 旧都・総督城・執務室 ──
午後の陽が石壁を橙に染め、窓外には遠くの山脈が霞んで見える。
帝国旗が静かに風を受け、城壁の下に影を落としていた。
「……閣下、楽しそうですね」
書類を抱えた副官が、半ば呆れたように言う。
執務机の向こうでは、灰狼の将ルガードが椅子を揺らし、上機嫌に口笛を吹いていた。
「そりゃ、そうだろう」
ルガードは分厚い手で机を叩き、豪快に笑う。
「のらりくらりと王女殿下を連れてくるのを渋っていた、あの小僧がだぞ?
帝都で何かきな臭い事件があった直後に、いきなり“王女を静養に寄越すから至急準備を整えろ”だと。 で、数日後には“やっぱりやめた”だ」
副官は口元を押さえた。
(帝国皇帝を“小僧”と呼ぶ人間が、世に何人いるだろうか)
ルガードは机の上の筆を転がしなら、にやりと笑う。
「澄まし顔で理屈ばかりこねているあいつが、ここまで右往左往するなんて何年ぶりだろうな。――こりゃあ、ぜひとも拝んでおかにゃならん。あの黒獅子を動揺させるほどの王女殿下のご尊顔ってやつを」
副官は苦笑しながら書類を整えた。
「……拝謁の折には、どうか余計な挑発をなさらぬように」
そして、ふと遠くを見るような目で言った。
「王女殿下は、いたって普通のご令嬢でしたけどねぇ」
「ほう?」
ルガードの眉が動く。
副官は淡く笑って続けた。
「むしろ――殿下の方が、あの御方に振り回されているように見えましたよ」
「……なるほどな」
ルガードは静かに頷き、ふっと目を細めた。
「だったら、なおさら見ておかにゃならんな。あいつが何を“守ろう”としているのかを、な」
沈黙がひとつ落ちる。
城外の梢をわたる風の音が、遠くにかすかに響いていた。
副官は、書類を整え直しながら言った。
「旧都の風が、帝都に吹く思惑を洗い流せるようであればいいのですが――」
「それが一番だ」
ルガードは即座に答え、立ち上がった。
「さて、迎える準備を続けるか。客人に、恥をかかせるわけにはいかん」
「心得ております」
副官の灰青の瞳が、静かに笑んだ。
その笑みには、長年この将と付き合い続けてきた者の、穏やかな光が滲んでいた。




