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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第八章 旧都の風 ~ 第三幕 望みの名 ~
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1 灰狼の嗅覚

── 帝城・執務室 ──


分厚い石壁に囲まれた静寂の空間。

西日の射す窓の光が、灰の絨毯の上に斜めの線を描いていた。

机上には封蝋を割られた文書が山をなし、その中央に一通の書簡が投げ出されている。


「……仕事が早いというのも、時に考えものだな」

低く呟いたダリオスの眉間には深い皺。

手にしていた羊皮紙を読み終えるや、乱暴に机へ放り出した。


「私は陛下の命を遂行したまでですよ」

脇机に控えていたセヴランが、淡々と応じる。


「わかっている……」

ダリオスは短く答えたが、その声には苛立ちと、わずかな動揺が混じっていた。

そして、文書の端を再び睨みつける。


「……あのじじいが……!」


珍しく感情を露わにした声が、厚い石壁に低く響いた。

書簡の封には、帝国西辺を守る老元帥の名。


セヴランが机に近づき、書簡を取り上げて整える。

そこには、端整な筆跡でこう記されていた。


---


《書簡》

拝啓 陛下におかれましてはご健勝のことと存じます。


王女殿下をお迎えする準備、すでに万端に整えてございます。

陛下の御命に従い、軍営も居館も整え、行啓の道筋すら磨き上げました。

にもかかわらず、突然の取りやめとの報。いかなる御心変わりか。


無論、我らは陛下の御命に従うのみ。

しかし、度重なる指示の変転は臣下の信を損なうものであります。

かかる不確かなる命のもとでは、もはや忠勤を果たす術もございませぬ。


ゆえに、もし王女殿下をお迎えできぬのであれば、

私は本状をもって、元帥の職を辞し、隠棲いたします。


……されど、陛下のご英断を信ずるがゆえ、

王女殿下は必ずお越しくださるものと、今なお期待しております。


敬具

帝国元帥 ルガード・ヴェルン


---


セヴランは肩を竦め、ため息をつく。

「……あの方は会うたびに“隠居したい”と申しておりましたからね。

 王女殿下を行かせなかったら、陛下の不義理をこれ幸いに、堂々と隠居されるでしょう」


「わかっている」

ダリオスは低く呟き、額に手を当てた。

「“信義を盾に退く”……見事な逃げ口上だ」


長い溜め息を吐き、椅子の背にもたれる。

掌が机を軽く叩いた。乾いた音が石壁にこだました。


セヴランは机の端に指を添え、穏やかに言った。

「――どうなさいますか。王女殿下の行啓、再びお決めになりますか」


ダリオスは答えず、長い息を吐いた。

「老い先短い身で、俺を弄ぶとはな」

ダリオスは苦く笑い、背凭れに身を預ける。

「まったく、帝国の西辺を守るより、俺の忍耐を試すほうが好きらしい」


セヴランが苦笑する。

「愉しんでおられるのでしょう。陛下の出方を」

言って視線を下げ、淡く微笑した。

(この“帝国そのもの”を名乗る男を、こうも人間らしくさせる相手がいる――)


やがて、ダリオスが静かに言葉を落とした。

「……仕方ない。行啓は再び進める。“餌”にするつもりはないが、見せておく価値はある」


セヴランは頷き、書簡を整えて机の端に置く。

「では、そのように。……王女殿下には、どのようにお伝えしますか」

「視察だ。……そう言っておけ」


窓の外で鐘が鳴り、陽が塔の影を長く引いた。

帝国の夕景が、静かに夜の色へと沈んでいった。




── 旧都・総督城・執務室 ──


午後の陽が石壁を橙に染め、窓外には遠くの山脈が霞んで見える。

帝国旗が静かに風を受け、城壁の下に影を落としていた。


「……閣下、楽しそうですね」

書類を抱えた副官が、半ば呆れたように言う。

執務机の向こうでは、灰狼の将ルガードが椅子を揺らし、上機嫌に口笛を吹いていた。


「そりゃ、そうだろう」

ルガードは分厚い手で机を叩き、豪快に笑う。

「のらりくらりと王女殿下を連れてくるのを渋っていた、あの小僧がだぞ?

 帝都で何かきな臭い事件があった直後に、いきなり“王女を静養に寄越すから至急準備を整えろ”だと。 で、数日後には“やっぱりやめた”だ」


副官は口元を押さえた。

(帝国皇帝を“小僧”と呼ぶ人間が、世に何人いるだろうか)


ルガードは机の上の筆を転がしなら、にやりと笑う。

「澄まし顔で理屈ばかりこねているあいつが、ここまで右往左往するなんて何年ぶりだろうな。――こりゃあ、ぜひとも拝んでおかにゃならん。あの黒獅子を動揺させるほどの王女殿下のご尊顔ってやつを」


副官は苦笑しながら書類を整えた。

「……拝謁の折には、どうか余計な挑発をなさらぬように」

そして、ふと遠くを見るような目で言った。

「王女殿下は、いたって普通のご令嬢でしたけどねぇ」


「ほう?」

ルガードの眉が動く。


副官は淡く笑って続けた。

「むしろ――殿下の方が、あの御方に振り回されているように見えましたよ」


「……なるほどな」

ルガードは静かに頷き、ふっと目を細めた。

「だったら、なおさら見ておかにゃならんな。あいつが何を“守ろう”としているのかを、な」


沈黙がひとつ落ちる。

城外の梢をわたる風の音が、遠くにかすかに響いていた。


副官は、書類を整え直しながら言った。

「旧都の風が、帝都に吹く思惑を洗い流せるようであればいいのですが――」


「それが一番だ」

ルガードは即座に答え、立ち上がった。

「さて、迎える準備を続けるか。客人に、恥をかかせるわけにはいかん」


「心得ております」

副官の灰青の瞳が、静かに笑んだ。

その笑みには、長年この将と付き合い続けてきた者の、穏やかな光が滲んでいた。

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