15 立つ者
── 夜 帝城・王女の居室 ──
夜の静けさが、石壁を染めるように深く満ちていた。
蝋燭の灯りが一つ、卓上で小さく揺れている。
王女がその薄明かりのもと、湯の冷めた茶器に指を触れていたとき――
扉が、重たく開いた。
ゆっくりと現れた黒衣の影。
その威容に見慣れたはずの心が、わずかにざわめく。
ダリオスは部屋の奥まで進み、立ったまま告げた。
「――旧都へ行け。静養だ」
王女の目が見開かれる。
ダリオスの声は低く、迷いなく続いた。
「準備はすでに整えてある。二日後には発て」
王女は息を呑んだ。
旧都――帝都から馬車で六日。
深い森と古い街並みに囲まれていると聞く、遠い地。
王女は言葉を探しながら、ようやく口を開いた。
「……どうして、そのような遠い地へ?」
問いは、抑えた声で漏れた。
その胸には、帝都を離れることへの戸惑いと、
まだ何かを試されているような不安が、静かに渦巻いていた。
ダリオスは窓の方へと視線を向けて、淡々と言葉を継いだ。
「帝都は、今回の件で……しばらくお前には騒がしいだろう」
その声に、怒りも憐れみもなかった。ただ事実としての温度だけがあった。
「静養のためには、空気を変えた方がいい。
旧都なら――帝都よりも、お前の故国の空気に近い。きっと、心も落ち着くはずだ」
王女は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥に、冷たい石が落ちるような感覚だけが広がる。
目の前の男は、それに気づいていながら、まるで何も感じていないようだった。
王女は目を伏せた。
(……この男は、きっと気遣ってくれているのだろう)
頭では、そう理解できていた。
彼の言葉のひとつひとつに、悪意はなかった。
むしろ――その奥に、優しさのようなものすら感じてしまう。
けれど、胸の奥に沈んでいたものが、ざらりと蠢いた。
目を逸らしても、押し込めても、かすかな濁流のように浮かび上がる。
なぜ、だろう……。
なぜ、こんなにも――腹が立つのだろう。
押しとどめてきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
ゆるやかに、だが抗えない勢いで。
なぜ、勝手に決められるのだろう。
なぜ、私の気持ちを確かめもせず、すべてが「最善」として整えられてゆくのだろう。
旧都の方が落ち着く――確かに、そうかもしれない。
けれど、それは「私が選んだ」わけではない。
問われることもなく、手配され、「二日後には発て」と、当然のように告げられる。
(……この人は、いつだってそう)
――『あれはお前の責ではない。全て、俺の判断が招いたことだ』
あのときも、きっと私を思っての言葉だったのだろう。
私の心を軽くしようと――
だけど。
なぜ、それで私の心が軽くなると思えるのか。
なぜ、私の中にある“責”を、問わずして奪おうとするのか。
その瞬間、胸の奥にこみ上げてきたものが、言葉になった。
「……なぜですか?」
ダリオスの眉が、わずかに動く。
王女は一歩踏み出し、まっすぐに彼を見上げた。
「なぜ、勝手に決めつけるのですか?」
* * *
「なぜ、勝手に決めつけるのですか?」
その問いが放たれた瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。
言葉よりも先に、視線がぶつかる。
ダリオスは黙したまま、王女を見つめ返す。
怒りとも、戸惑いともつかぬ――しかし、確かに抗う意志を宿した眼差し。
押し殺してきた感情が、理を突き破って顔を上げたような光。
その瞳の奥には、久しく見失われていた“生の色”が灯っていた。
ふと、遠い日の姿が脳裏によみがえる。
――『あの日々は陛下に与えられた幻ではなく、私が自分で選び取った現実です。……あの空気も、あの時間も。すべて、私自身の選択の証です』
目の前の女は、自分の歩みを他人の手の内に収められることに苛立つ。
まるで、自分の手綱を取り戻そうとするかのように。
(この女の怒りは、自分を取り戻そうとする証だ――)
ダリオスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「決めつけたつもりはない」
静かにそう言ってから、一拍置く。
「……だが、いまのお前に“決める力”があるとは、俺には思えなかった」
言葉は鋭かった。
だが、それ以上に真っ直ぐで――彼女の中の何かを試すようだった。
「だから俺が決めた。それだけの話だ」
その視線は、王女の動揺すら逃さず、正面から受け止めていた。
まるで、「受けてみろ」と言わんばかりに。
* * *
ダリオスの言葉は、正論だった。
いつものように、隙がなく、否定の余地もない。
(……けれど)
王女は、静かに息を吸った。
心の奥に残っていた迷いに、輪郭ができていく。
視線を逸らさず、彼の目をまっすぐに見上げる。
「お気遣いくださり、痛み入ります」
言葉は静かだった。
けれど、その芯は揺れていなかった。
「お陰様で――だいぶ、回復いたしました」
一歩、言葉で距離を詰める。
そして、はっきりと口にする。
「ですから……私は、旧都には参りません」
ダリオスの瞳が、わずかに細められる。
「この帝都に、私の仕事があります」
脳裏に浮かぶ、施療院の光景。
自らが初めて役に立てたと感じたあの日の感触。
「そして――私が引き受けるべき罪があります」
口にした途端、その言葉の重みが胸の奥で静かに形を持った。
自らの選びが誰かの運命を変え、命の行方さえも左右したこと。
それでもなお、自分を信じ、託してくれた者たちがいるということ。
そのすべてを――この身に引き受けて、生きていくのだと。
「だから、私はこの帝都で、それらと向き合います」
最後の言葉を口にしたとき、
自分の中の何かが、確かに静かに結ばれていくのを感じた。
* * *
その瞬間、室内の空気が変わった。
ダリオスは、目の前の女を見つめる。
その姿には、もう翳りはなかった。沈んでいた光が、ふたたび輪郭を取り戻している。
(……戻ってきたか)
ゆるやかに放たれた声は、震えも迷いもなく、
細いながらも芯の通った剣のようだった。
淡々とした響きの中に、確かな熱がある。
それは“従う”ための言葉ではない。“自ら選び、立つ”ための言葉だった。
かつてただ飾られていた女が、
今、確かな意志を伴ってこの場に立っている。
ダリオスは、その変化を静かに見届けていた。
「……そうか」
ダリオスは短く言った。
「ならば、二日後に発つ馬車は無駄足ということだな」
その声音に皮肉はなかった。
ただ、何かを測るような静けさと、
ほんのわずかな――諦めとも、安堵ともつかぬ、陰りがあった。
(……この覚悟が本物かどうか、いずれ、世界が答えを引き出すだろう)
そして、自分もまた。
この手で、それを試すことになる。
彼は視線を戻し、王女の瞳を見据えた。
「その代わり――逃げるなよ」
それは命令ではなかった。
ただ一つの、試すような念押し。
王女は、まっすぐに頷いた。
逃げない――そう口にする代わりに、その目がすべてを語っていた。
沈黙が落ちる。
それでも、互いの視線だけは逸れなかった。
秋の夜は静かに深まり、
窓の外では、帝都の灯が、ひとつ、またひとつと消えていく。
新たな季節の気配が、まだ見ぬ風の中に、ひそやかに潜んでいた。
―― 第二幕・了 ――
第三幕は、年明けの1/7(水)から連載開始予定です。




