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13 遠き安らぎ

── 帝城・王女の居室 昼 ──


格子窓の向こうで、薄曇りの光が揺れていた。

石畳を撫でる風の音だけが、遠くにかすかに届く。


王女は窓辺の椅子に腰かけ、頬杖をついたまま外を眺めていた。

指先の上を、冷えた光がゆっくりと滑る。


眠れば、また夢を見る。

けれど、それが悪夢でも――もう、胸はさざめかない。

幾度も繰り返されるうちに、心の方が夢に馴染んでしまったのだ。


というより――あれは、夢ではないのだ。

血の色も、炎の熱も、誰かの叫びも。

すべてが現実であり、繰り返されるのは「忘れるな」と告げる刻印にすぎない。


(……夢じゃない。忘れてはいけない記憶)


まぶたを閉じると、数日前のミレイユとのやり取りが浮かんだ。


――自分のために亡くなった民の遺族の元に、弔問に訪れたい。


そう告げたとき、ミレイユはほんの一瞬だけ、沈黙した。


「姫様は今は城の中で静養することが厳命されています。遺族への対応は、すべて陛下の方で行われております」


淡々とした声。その一点張りだった。


だが、彼女が言わなかった言葉の先を、王女は察していた。


――おそらく、弔問など望まれていないのだ。


災いをもたらした姫に、どんな顔で祈られるというのか。


膝の上で組む手の力が思わず強くなる。


その次に施療院のことを尋ねようとして、言葉が喉で止まった。

ユリオたちの笑顔が浮かぶ。

あの日、彼らにとって誇らしいはずだった場を、自分は――血と恐怖で汚してしまった。


その思いが胸に沈み、呼吸が浅くなる。


結局、為すこともなく、昼も夜も、王女はこうして窓辺に座り、ただぼんやりと光と影の移ろいを見送っていた。

書を読むでもなく、糸を手に取るでもなく、一日が、音もなく過ぎていく。


(また、籠の中にいる……)


ふと、そんな言葉が胸をかすめる。

けれど、すぐに首を横に振った。


――違う。

きっと、籠の扉はもう開いているのだ。


ただ、自分が怖くて、

その外へ出られないだけ。


光がゆるやかに傾き、格子の影が王女の頬を横切った。

その線の向こうで、遠く鐘の音が鳴っていた。


扉が静かに開く音がした。

振り向かずとも、足音でわかる。

重く、ためらいのない、城でただ一人の男の足取り。


「……まだ、すぐれぬらしいな」


低く落ち着いた声が、背後から届いた。


王女は返事をせず、ただまぶたを伏せたまま微かに首を傾ける。

光はもう傾き、格子の影が床に長く伸びている。


ダリオスは窓辺へと歩み寄り、王女の横に立った。

その影がわずかに重なり、室内の空気がひとつ深まる。


しばし沈黙。

そののち、静かな声が落ちた。


「……あれは、お前の責ではない」


王女のまつげが、かすかに震えた。


「全て、俺の判断が招いたことだ」


その声は、ただ淡々と、事実を述べるように告げられた。


王女はゆっくりと顔を上げ、隣りに立つ男の顔を見つめた。秋の光が細く差し込むその中で、彼の瞳は揺るがなかった。

ダリオスの言葉は静かで、何の飾りもない。

けれど――胸の奥の重さは、少しも軽くならなかった。


(……なぜ、だろう)


彼のせいだと、そう思えば楽になれるはずなのに。

実際、彼の言葉に嘘はない。

暗殺者をおびき出すために自分を囮にしたのは彼であり、その策が民の血を呼んだのだ。


あの日、大円堂の回廊で問うたとき――


『お前が知るべきことは、すべて伝えてある。それ以外は、知る必要がない』


そう、彼は言い放った。

結局、自分はこの男の掌の内で駒の一つとして置かれ、何も知らされずに舞台に立った。


(それなら、私は何も悪くない……はずなのに)


けれど――心は、うなずかなかった。


ふと、かつての言葉が蘇る。


──『だから支配者として命じる。お前はお前の持つもの――立場も、資質も、能力も、すべてこの帝国のために差し出せ。それを裏切りだと感じるならば、俺の命令を拒めない己の無力をこそ嘆け』


あの言葉が、王女の心の免罪符となったはずだった。

だからこそ、自らの“裏切り”の痛みに向き合いながらも、施療院の仕事へと再び歩き出すことができた。


けれど今、同じように“お前の責ではない”と告げられても――

その言葉は、不思議と、何も癒やしてはくれなかった。


窓の外では、雲がゆっくりと流れていた。薄い光が、床の石目を静かに撫でていく。


二人の間に、言葉のない時が流れる。

互いの視線は、同じ一点で交わりながら、どこか別のものを見ていた。

ダリオスは、その瞳の奥に沈む何かを測るように、

王女は、その黒の奥に揺れる自分の影を確かめるように。

見つめ合いながらも、互いに届かぬ沈黙だけが、間を満たしていた。


やがて、ダリオスが低く息を吐いた。

その吐息が、静まり返った部屋に溶ける。


「とにかく――お前は、しばらく静養していろ」


それだけを残し、背を向ける。


靴音が石床に吸い込まれていく。

扉が静かに閉じられ、空気がひときわ重く沈んだ。


残された王女は、ただその背の残響を見送っていた。

外では風が格子を鳴らし、開かれぬ籠の中に、微かな冷気だけが流れ込んでいた。





── 執務室 夕刻 ──


日の光が傾き、硝子窓の縁に淡い黄金が滲んでいた。

机上の文書に影が伸び、静けさの中に羽根筆の音だけが残る。


ダリオスは筆を置き、短く告げた。

「――王女を、しばらく旧都で静養させる」


脇机で書面を綴っていたセヴランがわずかに眉を上げる。

「旧都に、ですか」


「ここでは目も耳も多すぎる。空気を変えた方がいい」


ダリオスは机の上の地図に視線を落としながら続けた。

「それに――旧都の方が、あの女には合っているだろう。あの街はまだ、古い王国の風を少しだけ残している。ああいう空気の方が、あいつも落ち着くはずだ」


セヴランは一瞬まぶたを伏せ、静かに頷いた。

「確かに、旧都は彼女の故国に近しい雰囲気がありますね」


「そういうことだ」

ダリオスは軽く顎を引き、声を低める。

「ルガード元帥にその旨を伝えろ。護衛と滞在の準備を整えさせる」


セヴランは静かにうなずき、筆記台に手を伸ばす。

「承知しました。旧都の邸はまだ維持されております。療養地としても申し分ないでしょう」


「……あの場所なら、風も静かだ」

ダリオスは窓の外に目を向けた。

帝都の尖塔が淡く霞み、遠くに沈む光を受けて灰色に輝いている。


「報せを急げ。出立は早くて三日後だ」


「御意」


セヴランの筆が走る音だけが、しばらく執務室に響いた。

その音を聞きながら、ダリオスは腕を組み、静かに、遠い旧都の景色を思い描いていた。

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