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10 剣と影の邂逅

── 南州の港町 ──


夜の帳が降り、裏通りは潮の匂いと油煙の混じる風に包まれていた。

灯の乏しい石畳を、フードを深く被った小柄な男が歩く。

影のような足取り。人目を避ける者の癖が、わずかな所作に滲んでいる。


路地の奥、軋む扉の向こうに、場末の酒場があった。

濁ったランプが数本、低い天井の梁に吊るされ、酔い客の笑い声と硬貨の音が交錯している。

湿った木の床にはこぼれた酒の跡、壁には古びた楽士の絵。

そのどれもが、潮気と酒の匂いを吸い込みながら、時の埃にまみれて沈んでいた。


男は一歩足を踏み入れ、店内を見渡した。

奥の柱際、灯影の下に、二人の客が腰を下ろしている。

ひとりは異国風の絹衣を纏い、手首に細い銀鎖を光らせた商人。

もうひとりは地味な外套に帽子を被った旅人風の男。


異国の商人と、その船に同乗させてもらっている旅人――そんな風情だった。


フードの男は無言のまま近づき、卓の端に腰を下ろした。


「遅かったな」

商人が笑う。

「道が混んでてね」

低く軽い声が返る。


店員が近づき、くすんだ木盆を抱えて尋ねた。

「何を」

「酒を。一番安いのを」


頷いた店員が去ると、残された三人の間に小声が交わされる。


「――帝都は騒がしそうだな」

商人が愉快げに口端を上げる。


「殺すだけが壊す方法ではないというわけだ」

旅人風の男が、怜悧に笑った。


「観客の反応は上々だったよ」

フードの影の奥で、男――カイムが微笑む。

その声は、刃の縁をなぞるように軽かった。


まもなく、酒が運ばれてくる。

淡い金の液が歪んだ灯を映し、カイムはそれを指先で弄びながら、胸元から一通の書簡を取り出した。


「……ほら、証文だ。奴らも“貸し”が欲しいらしい」

低く言って、それを卓上に滑らせる。


旅人風の男が慎重に受け取り、封蝋を指でなぞる。

「……十分だ。“忘れずにいるべき名”として、報告には添えておこう」


カイムは唇の端を上げた。

「帝都の裏は、思ったより穴だらけだよ」


そして、酒の器を回しながら、ちらりと視線を向ける。その目には、かすかな探りの色があった。

「検問が厳しくなっているらしいな」


「我々なら問題ない。帰り路も用意してある」

男は器の縁を軽く指でなぞり、静かに笑みを浮かべた。


「……しかし、見事な芝居だったよ、カイム。お前の舞台には、いつも観客が泣く」

商人が喉を鳴らして笑った。乾いた響きが、灯りの揺れる帳の内に溶ける。


「それが商売さ」

フードの影から覗いた瞳が、いたずらに光を帯びる。


「……さて、次はどこで芝居しようかな」


その瞬間――。

空気が、ひと筋ざらりと揺れた。


カイムの指が微かに止まり、次の瞬間には身体が横へ弾けていた。

ほぼ同時に、扉の閂が外側から打たれる乾いた音。

窓の落とし戸が一斉に落ちる。


頭上から、網。

重い麻縄が唸りを上げて落ち、卓の上の皿を砕く。

「なっ――!」

商人と旅人風の男の肩口を呑み込み、悲鳴ごと床に押しつぶした。


カイムはすでに身を翻していた。

網の縁を靴先で蹴り上げ、店内の裂け目を抜ける。

だが次の瞬間、銀の閃光。三つの鉛球を鎖で結んだ狩猟具が、唸りを上げて飛ぶ。


カイムは酒瓶を掴み、半身で投げつける。

鈍い衝突音とともに硝子が砕け、鎖が絡まって床に散った。


「ほぉ、芸が細かい」

軽く笑ったその背へ、短剣の刃が走った。


金属音。

カイムはとっさに手甲の外皮で刃を滑らせ、火花を散らす。

腰を捻り、斜め後ろへ抜けざまに距離を取る。


目の前に立つのは――腰近くまで伸びる栗色の髪を緩く束ねた男だった。

闇に溶ける衣の下でも、その立ち姿にはどこか、鍛え上げられた静けさと気品が滲んでいる。

灰がかった茶色の瞳が、冷たくこちらを射抜いていた。


いつの間にか、店内の客が一斉に立ち上がっていた。

無造作に酒をあおっていた男も、壁際の酔客も。

全員が無言で、カイムを取り囲んでいる。

椅子の脚が床を擦る音が、静かに円を描いた。


その円の中心で、カイムは短剣を構えて自分に向かう男を見て鼻で笑う。

「へぇ……どこの労役地にもいないから、てっきり牢の中で拷問でも受けて、もう骨になってるかと思ったのに――」


笑みを浮かべながら、わずかに顎を傾ける。

「まさか帝国の鎖を首に繋いで、ここで待ってるとはね」


短剣を構えなおす男の眼が、冷たい光を帯びた。


カイムは肩をすくめ、薄く笑う。

「故国が滅びる夜にも剣を抜かず、王女様を奪い返す機を前にしても刃を収めた“騎士様”が――」


口角を上げる。

「よりによって今になって抜くのか。同胞に向けて。……滑稽だな、ルデク」


闇の中で、刃と笑いがかすかに光を交わした。


男――ルデクは刃を軽く上げ、視線は揺るがない。

「私の主君は亡き王太子殿下であり、今は王女殿下だ。だが、お前は違うだろう? 何のために剣を取る」


問いかけは穏やかだが、その声には王家に仕えた者の重みが滲んでいた。

カイムは眉を上げ、にやりと笑う。

「ふむ、立派な序詞ね。で、結論は?」


ルデクがさらに一歩踏み込む。刃先が微かに光る。

「王女殿下に、何をした」


カイムは口の端を歪め、軽く肩をすくめた。

「物騒な問いだな。ちょっくら血を見せてやっただけだよ、姫さんにね」


その言葉は無邪気に響いた。だが裏側には嘲りが濃く滲んでいる。


ルデクの背筋が僅かに硬くなり、殺意が静かに放たれるのが空気でわかった。

掌にこもる力、呼吸の間合い、刃を握る指先の冷たさが、沈黙そのものを圧していく。


カイムはそれを楽しげに見つめ、低く鼻で笑う。

「まったく、王家の血ってのはいつも面白い。あの青ざめて、震えているしか能のない姫さんが、いったいお前に何をしてくれたっていうんだ? お前が姫さんのために剣を振るわなくとも、今は帝国の騎士どもに守られている――お前らを売ったご褒美にね。

 いい加減、目を覚ましたらどうだ?」


店内の影が唸る。刃と視線が、二人のあいだで冷たく交差した。


ルデクの声が、低く静かに響く。

「旗が我々に何かをしてくれるのではない。何かしてくれることを求めるものでもない。――旗の示すものを叶えるために、我々がいるのだ」


その言葉は、怒りではなく祈りのようだった。だが、カイムの口元に浮かぶのは乾いた笑い。


「やれやれ……騎士様の言葉は、いつだって意味がさっぱりだな」


その瞬間――。


空気が裂けた。

ルデクの刃が、ひと筋の閃光となって闇を薙ぐ。

乾いた衝突音。カイムは半歩退き、身をひねって刃先を掠める。

外套の裾が裂け、その内側の金属が一瞬だけ光を弾いた。


「おっと……幕が上がると思ったか?」

嘲るような声を残し、カイムは背後の厨房へ滑り込んだ。


鉄鍋の吊られた天井を蹴り、排煙筒の格子を一息で蹴り上げた。


天井の隙間から、夜風が吹き込む。

カイムの姿は、闇に吸い込まれるように消えた。


ルデクは追わなかった。刃を下ろし、深く息を吐く。


背中から声がした。

「……まぁ、あれは深追いしない方がいいでしょうね」


軽やかでありながら、どこか冷たく透く声音。

ルデクが振り向くと、そこには金の髪を結い上げた女が立っていた。柔らかな灯に照らされた微笑みは、夜の酒場に不釣り合いなほど優雅だった。


南州総督エルディナ・コルヴァン。


彼女は足音ひとつ立てずに歩み寄り、絡め取られた二人の商人と密使の前に立つ。

「あなたたちのおかげで、帳簿が乱れたじゃない」

扇子を軽く開き、口元を隠して笑む。


「一刻も早く、貨幣の流れを整えないとね。

 帝国の会計は繊細なのよ、少し滞るだけで“慈悲”も“忠誠”も目減りするもの」


優雅な仕草のまま、指先で軽く合図を送る。

兵が二人を引き立て、酒場の外へと連れ出していく。床に転がった椅子が、かすかな音を立てた。


ルデクはその光景を黙って見送っていた。

その瞳の奥に、半年前の記憶がゆっくりと浮かび上がる――





── 半年前 帝城・牢内 ──


湿り気を帯びた石壁と、錆の匂い。

鉄格子の向こうに現れた影を見て、ルデクは思わず息を呑んだ。


(帝国皇帝ダリオス……!)


ダリオスは足を止めると、冷ややかな眼差しを落とした。


「――暗殺者の背後にいる筋に、心当たりがあるようだな」


声は低く、響きは冷たかった。


ルデクはわずかに視線を伏せ、言葉を選んだ。

「確証のないことを申すわけにはいきません。もし誤っていれば、帝国の内外を巻き込む火種になりかね――」


「必要ない理屈だな」

低い声が遮る。


ルデクは目を上げる。ダリオスの瞳が、暗闇の奥で鈍く光った。


「お前が“正しさ”を選んで口を閉ざしている間に、次の刃が動く。俺たちには、推測に費やす暇はない」


一歩、近づく。鉄格子の向こうで、影が揺れる。


「王女を本気で守りたいならば――お前の持つものを、すべて差し出せ」


その声音は、氷のように澄んでいた。


「お前の推測を聞くのは俺だ。どう扱うかを決めるのも、俺だ。

 お前の責など、最初から勘定に入れていない。仮に俺が誤っても、それは“皇帝”の判断として刻まれる。――お前ごときが案じることじゃない」


ルデクは言葉を失った。

鉄格子の向こう、沈黙を切り裂くように響いたその声。冷ややかな理が、炎よりも強く、容赦なく迫ってくる。


(……こういうことを、平然と言ってのけるのか)


心の中で息を詰めた。

一代で覇を成した皇帝の眼は、冷たく澄んでいた。

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