9 眠りの檻
── 王女の居室 ──
白い天蓋がゆるやかに揺れていた。
風もないのに、薄布が波打つ。
夢の底で、王女は音を聞いた。
遠い鐘の音――。
滅びの夜に、最後に聞いたあの音。
──赤い星が空を裂く。
炎に照らされた石畳の上、故国の都が崩れていく。
灰の匂い、焦げた木の柱、泣き叫ぶ声。
その中に立つ自分。
白い衣が煤で黒く染まり、手の中には血に濡れた紋章旗。
握りしめても、布が指の間からほどけていく。
「裏切り者……!」
振り向くと、見覚えのある顔があった。
宮廷の侍女、兵士、学僧――みな故国の者たち。
焼け落ちる城の光に照らされながら、口々に彼女を指さす。
「なぜ生き恥をさらしている」
「お前が帝国の犬となったせいで、我らは滅んだ!」
声が重なり、波のように押し寄せる。
ひとりが石を投げる。
ひとりが祈りを断ち切るように、背を向ける。
逃げようとしても、足が動かない。
足首に、冷たいもの――鉄の枷。
鎖が引きずられ、景色がねじれる。
──白い壇上。
叙勲祭の光が広がる。
人々の歓声と拍手。
だが、それはすぐに罵声に変わった。
「民を売って栄えるか!」
「……災いの姫!」
「――皇帝の犬に成り下がった奴!」
群衆の中に、あの施療院で見た兄がいた。
弟を抱きしめて泣きながら、彼女を睨んでいる。
その眼は、血のように赤かった。
壇上の先、血に染まった青年が立っている。
胸を刺されたまま、その目が、王女を見据えた。
笑っているようで、泣いていた。
「なぜ……お前のせいで、俺が死なねばならない?」
彼の足もとに広がる赤い線が、床石を伝って流れてくる。
その血が、王女の裾を染めていく。
「……私のせいで……」
唇が、震えながらその言葉をこぼした。
声はかすれ、涙とともに溶けた。
青年の姿が霞み、血も光も溶けていく。
「許して」と言おうとしても、声が出ない。
代わりに口からこぼれたのは、故国の言葉だった。
祈りとも、赦しともつかぬ古い言葉。
だが、誰も理解しない。
群衆の唇は動くのに、音がない。
ただ鐘の音だけが、やけに近くで響く。
――それが、合図だった。
凶星が落ちる。
光が、金から赤へと変わる。
王女はその光の中で、自分の影が消えていくのを見た。
まるで、存在そのものが剥がされていくように。
「……やめて……」
――その声で、彼女は目を覚ました。
冷たい汗が首筋を流れ、胸が早鐘のように鳴る。
息が浅く、喉が痛い。
ただ、遠くで――鐘が、もう一度鳴った気がした。
「……お目覚めですか」
声の方に視線を向ければ、ミレイユが椅子に腰掛け、冷たい水に浸した布を絞っていた。
感情の影を見せぬまま、彼女はそれを王女の額にそっと置く。
王女は何かを返そうとしたが、喉が震え、言葉が出てこなかった。
浅い呼吸を繰り返しながら、夢の残滓に囚われ、「私のせいで…」と唇が震える。
そんな王女の姿をしばし見下ろしていたミレイユが、静かに口を開いた。
「……寝衣を着替えましょうか」
王女は反射的に首を振ろうとしたが、すぐに力なく視線を落とした。
肌に張りつく汗が冷え、身震いが止まらなかったからだ。
ミレイユは手際よく湿った寝衣の紐を解いていく。
無表情な手つき。ただ必要な世話をするのみ。彼女の指先は寸分の迷いもなく、汗を吸った衣を脱がせ、新しい衣を着せていく。
そして、淡々と寝衣の襟を整えながら言った。
「……姫様のせいではありません」
王女はその言葉に、わずかに首を振った。
「違う……」
声にならない息が、唇の隙間からこぼれる。
「私のせいで……何の関係もない人たちが……あの場で……」
震える指先が、胸の布を掴む。
夢と現実の境がまだ曖昧で、血の匂いさえ鼻の奥に残っていた。
ミレイユは、手にした布を静かに盆に戻した。
そのまま視線ひとつ揺らさずに言う。
「……違います。あれは陛下のご判断の結果です」
即答だった。
まるで一片の迷いもない。
「姫様が何を思おうと――決を下したのは陛下です」
王女は、その言葉にまた小さく首を振った。
「違う……」
かすれた声が、部屋の中に溶ける。
「彼は……私を“裏切り者”だと言ったのです」
唇が震え、呼吸が浅くなる。
「私が……故国の者たちを裏切ったから……だから、あのようなことを――」
言葉が途切れた。
胸の奥で、夢の光景が再び滲む。
白い壇上、倒れた青年、血に染まる衣。
「……私のせいなのです」
その呟きは、罪の告白というより、どうしようもなく確信に近い響きを帯びていた。
ミレイユはしばし無言で王女を見下ろしていた。
瞳に、哀れみも怒りもなかった。
ただ淡々と、答えがすでに決まっているかのように言う。
「それでも――あの市場の件も含めて、最終的な決断を下したのは全て陛下です」
刃のように真っすぐな言葉だった。
だが、その硬質な響きも、王女の震えを止めはしなかった。
ミレイユはそれ以上言葉を重ねなかった。
盆の端に控えていた小さな銀の杯を取り上げ、香草の匂いを含む薬湯を注ぐ。
湯気が細く立ちのぼり、静かに部屋の空気を割った。
「薬湯を」
それだけ告げて、王女の枕元に腰を寄せる。香草の匂いに混じって、どこか甘い気配。王女は気づいた――眠り薬が含まれている。
「……もう眠りたくないの。……夢を見たくないのです」
掠れた声で言うと、ミレイユは短く瞬きをしただけだった。
「それでも、お休みください。体を休めなければ、夢は夢のまま残ります」
盃を支え、王女の唇へそっとあてがう。
拒む力も残っていなかった。
液体が喉を流れ、温かさが胸の奥へ沈んでいく。
瞼が重くなり、視界が揺れる。
遠くで、再び鐘の音が鳴ったような気がした。
王女の呼吸が静まっていくのを確かめて、ミレイユは目を伏せる。
手に残った湯飲みを静かに盆に戻して、部屋を出た。




