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8 囁きの導線

── 翌日 帝城・執務室 ──


朝の光がまだ低く、長い影を床に落としていた。

分厚いカーテンが半ばだけ開かれ、外の喧騒を薄く遮っている。硝子窓の向こうでは、遠くの鐘が、昨日の余韻を引きずるようにゆるやかに鳴っていた。


机上には地図と報告書の山。


「――大円堂周辺、昨夕に封鎖完了。外郭の門と港にも検問を設けました」


セヴランが報告を読み上げる。声は落ち着いていたが、その手の甲には血管が浮いていた。


「市の混乱は?」

「初動は騒然としていましたが、今は沈静しています。市場は通常通り開きました。帝国の警備が“機能している”姿を見せるのが、今は最も効果的かと」


ダリオスは頷き、机上の地図に視線を落とした。帝都を中心に描かれた線が、何重にも重なっている。封鎖線、検問、宿泊地、関所、船着き場――それぞれに赤い印。


「船着き場と城門の出入りは絞ったか」

「はい。昼は通行許可証、夜は刻印と名簿。荷船は入港のみ許可し、出港は保留。郵便と駅馬は停止中。……物の流れを絞れば、奴がまだ帝都に潜んでいるなら必ず痕が出ます」


ダリオスは椅子の背にもたれ、静かに息を吐く。陽光の端が机の上の銀の杯をかすめ、反射が彼の横顔を照らした。

「それでいい。街を閉ざせば不安が増す。“帝国は動いている”と見せろ。――止まったと思わせるな」

セヴランが短く頷いた。その表情にわずかな疲労が滲むが、眼差しだけは鋭い。


「暗殺者は……既に国外へ逃げた線もあります。隣国への照会はすでに発信済み。形式上は“礼儀の問い合わせ”という形で」

「うむ。名指しはするな。国外にいると悟らせてもいい。奴がどこで動こうと、“皇帝の目は届いている”と知らしめればいい」


短い沈黙。紙の端が風に揺れた。


セヴランが、懐から一枚の報告書を取り出した。

「――南州からです。標的のひとつに、網を張ったとの連絡がありました」


「ようやく、か」

ダリオスの指先が軽く机を叩く。


「はい。もし予想どおりなら、まもなく何かが掛かるでしょう」


静けさが一瞬だけ落ちた。

その隙間を縫うように、次の問いが鋭く落とされる。

「睨んでいた奴らから暗殺者を匿っていた痕跡は?」


セヴランはため息をつきながら答える。

「確たる証拠はまだ。昨夜、密かに彼らの邸宅を封鎖し、出入りを記録しています。文書の押収は“儀礼冒涜に関する参考人”という名目で」


「……よし」

ダリオスは机の端に指を置き、軽く叩いた。

「時間をかけるな。数日のうちに、“誰が糸を引いたか”を民に示す。証拠がなくとも、流れを作ればいい。真実は後から合わせればよい」


セヴランの眉がわずかに動く。その動きに、かすかな痛みと迷いが滲む。

「陛下、それは――」


「今は“正しさ”よりも“支配”だ」

ダリオスは冷ややかに続ける。

「恐怖は秩序を壊すが、怒りは秩序を支える。怒りの矛先を、俺の指の差す先に向ける」

その声には、一片の揺らぎもなかった。


セヴランはわずかに視線を伏せ、息を整える。

そして静かに気配を切り替えると、手元の報告書をめくり直した。


「……昨夜のうちに、遺族には保護使を派遣し、弔金の準備と支給手続きを済ませました。葬儀費はすべて帝庫から支出。あわせて、街の掲示にも“皇帝よりの哀悼”として布告を出しています」


「哀悼、か」


「……民は、怒りの行き先を求めますが、その前に、陛下の“哀しみ”を置くことが重要です。“皇帝は私たちを見ている”と、そう思えれば、怒りは陛下へではなく――“見えぬ敵”へ向かう」


セヴランの声が途切れたあと、執務室に短い沈黙が落ちた。

ダリオスは机に置いた指を軽く叩き、ふっと唇の端を歪めた。

「……本当は私に対して怒ってもいいんだがな」


低く、乾いた声音。

笑いとも吐息ともつかぬ響きが、書類の山の上に落ちた。


その目には揺らぎはなく――ただ、自らの驕りを見据える冷たさだけがあった。


セヴランは答えず、ただ静かに視線を落とした。

皇帝の言葉の裏にある重みを、誰よりも知っていたからだ。


しばしの沈黙の後、


「……もうひとつ、厄介な件がございます」


セヴランが口を開いた。

ダリオスが目を上げて続きを促す。


「凶星の件です。昨夜から“叙勲祭の前に凶星が昇っていた”という話が、民の間で広がり始めています。曰く――陛下がその兆しを無視し、神の警告を退けたから、この災いが起きた、というものです」


ダリオスの眉がわずかに動いた。

声はなく、ただ指先が机の上で一度だけ軽く鳴る。


「……誰が流した」


「大神官長本人ではありません。あの方は沈黙を守っています。おそらく女侯爵が流したと思われます。大神官長があの夜、帝城を辞した後、女侯爵の邸に立ち寄ったようですので」


セヴランは言葉を選びながら続けた。

「民の間では、災厄を神罰として結びつけるのは早い。このままでは、神殿の威光が“恐れ”の形で息を吹き返します。――放置すれば、陛下の威信を食う毒になる」


ダリオスは短く間を置き、低く命じる。

「凶星の噂は抑え込め。神殿には使者を出して、“真の信徒は沈黙をもって祈るもの”――と伝えろ」


短い沈黙が落ちた。

セヴランは報告書の束を閉じ、しかしそのまま口を閉ざした。何かを言おうとして、唇の端がわずかに動く。


ダリオスが視線を上げる。

「……言え」


促され、セヴランは静かに息を吸った。

「凶星の件ですが――それだけでは終わっておりません」


ダリオスの眉がわずかに動いて、続きを促す。


「凶星が東から昇った、という話が民の間で広まっております。つまり――」

セヴランは声を絞った。

「王女殿下を、“災いを呼ぶ存在”と結びつける囁きが、出始めております」


室内の音が消えた。

紙の擦れる音すら止まり、ただ呼吸の音だけが沈む。静寂が、石のように長く横たわる。


やがて、低い声がその静けさを割った。

「災いを呼ぶ存在、か。……便利な言葉だな」


ダリオスの唇が、わずかに歪む。

「人は恐怖に名を与えると、安心する。名を与えた恐怖は、飼いならせる」


ダリオスはしばし考えるように目を閉じ、それからゆるやかに息を吐いた。

「――言わせておけ」

セヴランが顔を上げた。

「陛下?」

「恐れがあるなら、それを秩序に変えればいい。天が告げた災いを、地上で鎮められるのは誰か――その答えを、民の目に刻むだけのことだ」


ゆるやかに立ち上がる。

窓辺の光を背に受け、その影が机の上を覆う。


「星がどの方角から昇ろうと、俺がそれを見下ろしている。

 ――そう示せばいい」


セヴランの胸に、わずかな戦慄が走った。

だがその瞳には、確かな理解の色も浮かんでいる。


「……つまり、噂を封じるのではなく、“支配する”のですね」


「そうだ」

ダリオスは短く応じ、机上の書簡をひとつ取り上げた。

「姫が呼んだ災いを、帝国の手で鎮める――それが物語になる。天に怯える民も、神に縋る貴族も、皆その劇の観客にすぎん」


その声は低く、どこまでも静かだった。

だが、その静けさの底には、燃えるような熱がひそんでいた。


セヴランはしばし沈黙していたが、やがて視線を落としたまま問いを継いだ。

「……姫君は、いかがなさっておられますか」


「眠っている。薬でな」


セヴランの眉がわずかに動く。

「……強制的に、ですか」


「医官の判断だ。今はそれが最善だ」

ダリオスの声は平板だったが、その奥にわずかな重みがあった。


セヴランの顔に、何かを押し殺すような陰が射す。

「……“災いを呼ぶ姫”などという噂が立っている今、民の目に晒すのは危うい。しばらくは、静養という名目でお休みいただいた方がよろしいでしょう」


ダリオスは短く肯いた。

その瞳に、一瞬だけ鋭い光が閃く。

「“災い”を舞台の中央に置くには早すぎる。今はまだ、沈黙と陰影の中に伏せておくのがいい」


窓の外では、祝祭の余熱を冷ますように鐘が鳴っていた。

その音は、遠ざかる歓声の名残と、沈んだ祈りの気配とを、ひとつに溶かしていた。

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