表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/139

7 崩れる象徴

 ── 大円堂前・広場 ──


 目の前に立つ男の姿を捉えた瞬間、セヴランの全身を戦慄が走った。


 姿かたちは群衆に紛れるただの若い男。

 だが、そこにまとわりつく空気は異質だった。


(……これが──“旧王家の影”……!)


 噂話のように耳にした、旧王家に連なる影の存在。

 その多くが流言飛語と一笑に付されたが、今、その“影”が目の前で笑っている。


(……殺気を……操っている……。殺気を放たずに、人を殺められる……)


 直前に王女へ短剣を放ったときは、確かに感じた。肌を刺すような、確かな“殺意”。

 だが、さきほど市民を殺めたとき──それは、なかった。

 気配ひとつ発することなく、まるで挨拶でもするように命を奪った。


「……っ」


 セヴランは咄嗟に、王女の前に身を滑らせた。

 片手で彼女を背にかばい、もう一方の手は腰の剣に。


(勝てない。俺では)


 直感だった。

 これまで数多の修羅場を越えてきた身体が、“交えてはならない”と告げていた。


 王女の前に身を寄せたまま、視線を逸らさず、手近な兵へと短く命令を飛ばす。

「……そこの二人。後方の民を退かせ。通路を確保しろ。兵を円に──誰も壇上へ近づけるな」


 その声に、動揺していた兵たちが一斉に動き出す。

 訓練された命令の響きが、混乱の中にかろうじて秩序を取り戻す。


 セヴランは、真正面の敵から一歩も視線を逸らさず、背中越しに静かに言った。


「──姫君。私の後ろにいてください」


 カイムが、楽しげに口元を吊り上げた。

「さすが、お姫様は騎士に守ってもらえるってわけだ」

 口の端をさらに上げる。

「──帝国の騎士に、ね」


 その声は、どこまでも軽やかだった。

 だが目の奥は、まるで氷の底を覗き込むように冷たい。


 カイムは肩をすくめてみせる。

「俺さ、半年くらい、姫さんのことじっくり見てたんだけどさ」


 まるで旧友に近況を語るような声音。

 指先で髪の束を弄びながら、軽く鼻を鳴らす。

「……あんた何なの?」


 口調は陽気なまま、音だけが刃のように鋭かった。


「“助け出そう”としてた同郷の人間を、自分の言葉で売って、帝国の連中には“象徴”なんて持ち上げられてさ──」


 一拍の沈黙。

 そして、声の調子が一段跳ねる。

「“慈悲の象徴”だって? ははっ、何それ?」


 けらけらと笑う。

 無邪気で、底が抜けていて、どこまでも愉しげな笑い。

 血の飛び散った石畳の上で、芝居の幕が上がるように。


 だが、笑いが止むと同時に、その声音はぴたりと静まった。


「──慈悲っていうなら、さ。

 こんなことをした俺のことも、もちろん助けてくれるんだろ?」


 王女に向けられた瞳が、まっすぐに射抜く。

 爪でなぞるような声が続く。


「それとも、あそこでくたばってる男や兵士を……生き返らせてくれたりするの?」


 王女は全身を震わせながら、立っているのがやっとだった。


 自分をかばって立つセヴランの背。

 彼の肩越しに見えるのは、血に濡れた石畳。


(──あのときと、同じ……)


 脳裏を閃光のように過るのは、炎と叫びの夜。


 崩れ落ちる兵たちの背。

 自分をかばって盾となり、次々と倒れていった故国の人々の影。


 あのときも、彼らの後ろで、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


「……やめて……死なないで……」


 喉の奥で、言葉がかすれた。

 けれど声にする前に、視線がセヴランの裾をとらえた。

 闇を縫うような黒の布地。帝国の色。


(……帝国……)


 自分をかばって立つのは──帝国の者。


 その瞬間、世界が裏返るように感じた。


 今、目の前で人を殺したのは──故国の者。

 血を流して倒れているのは──帝国の兵と市民。


(私は……誰に守られているの? 何を──守ろうとしているの……?)


 耳の奥で、さきほどの声が焼き付いたように響く。


 “裏切り者”──


 息が詰まり、視界が白く滲む。

 自分の中で、過去と現在が混ざり合い、どちらが“正しい”痛みなのかもわからなくなる。


「かわいそうになぁ」

 カイムは首をかしげ、笑う。

 その視線の先には、血に染まって伏す若い男の身体があった。


「こんなお姫さんを称える場所に来なきゃ、この男も死んだりしないで済んだのに……なあ、姫さん?」

 愉しげな嘲りの声。


 だが、その言葉が胸に届いた瞬間、王女の瞳が大きく見開かれた。

(私の……せい?)

 思考が凍りつき、心臓の音だけが胸を叩いた。


 静まり返る広場で、カイムの笑いだけが場のすべてを嘲るように響き渡っていた、そのとき──


 ──風が裂けた。


 黒い影が一つ、音もなく疾る。

 次の瞬間、鋭い剣閃がカイムめがけて振り下ろされた。


「──っ!」


 カイムの表情が一瞬だけ変わる。

 身体を沈め、すれ違うように一歩後退。


 カイムは、後退の体勢をとったまま、愉しげに息を吐く。


「……さすが本物は怖いなぁ」


 笑いながらも、瞳は鋭く細められていた。

 その視線の奥で、何かが測られている。


 黒い影が、カイムの前に立ちはだかる。

 剣の切っ先から滴る光が、静かに床を照らした。


 逆光の中、その姿が現れる。

 振るわれた刃の先に立つ男──皇帝ダリオス。

 玉座にある時とはまるで別の、戦場に立つ猛き黒獅子。


 一切の言葉なく、ただ次の一撃に備えて刃を構えていた。


 カイムの口元がふっとゆるんだ。

「いやぁ……やっぱり陛下は舞台映えするねぇ」


 血と花弁が舞う広場の中で、彼はまるで喝采を浴びる役者のように笑ってみせた。


 次の瞬間、カイムは地を蹴っていた。

「っと──今日はここまで、ってとこかな」


 軽い調子で言い放つと、カイムの身体がふっと後ろに揺れる。次の瞬間には、もうその姿は陽の光の中を駆け抜けていた。

 外套が翻り、石段の影へ、そして逃げ惑う群衆の波に溶け込むように──消えた。


「追え!」


 セヴランが叫び、兵たちが即座に走り出す。

 だが、広場はすでに阿鼻叫喚の渦。

 人々の悲鳴と足音が入り乱れ、誰が誰かも判別できぬ混乱の中、カイムの姿は、まるで最初から存在しなかったかのように掻き消えた。


 ダリオスも一歩、二歩と駆け出しかけたが──

 目の前で、カイムの気配が完全に断たれたのを悟る。


 低く、冷たい息が漏れる。

「……逃したか」


 セヴランが兵を散らして指示を飛ばす。

「周辺封鎖! 門を閉じろ! 負傷者を優先して救護しろ!」


 王女はその場に立ち尽くしたままだった。

 耳には、いましがた投げつけられた言葉が残響していた。


 ──『裏切り者』

 ──『さすが、お姫様は騎士に守ってもらえるってわけだ。帝国の騎士に、ね』

 ──『あんた何なの? “助け出そう”としてた同郷の人間を売って、帝国の連中には“象徴”なんて持ち上げられてさ』

 ──『かわいそうになぁ。こんなお姫さんを称える場所に来なきゃ、この男も死なずに済んだのに』


 言葉が次々に頭の奥でこだまし、視界の光がにじむ。


 ふと視線が下を向いた。

 壇の下──石畳の上で血に濡れた若い男が、虚ろな目を開けたまま動かない。

 先ほどまで群衆に混じり、歓声をあげていたはずの人。


「……私の、せいで……」


 かすかな囁きが、唇から零れた。

 言葉は震え、空気を掴むように宙でほどける。


 その自分の声を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが崩れた。

 “違う”と言い返す理性より早く、身体の内側から別の声が囁く。

 ──そうだ。自分のせいだ。自分が、呼び寄せた。


 その実感が、音もなく全身に染み込んでいく。

 寒さのようでもあり、毒のようでもあった。


 膝が鳴り、喉の奥で短い息が漏れる。

 視界の端で赤が滲み、世界の輪郭が遠のく。


「……私のせいで……」


 呟きが勝手に零れる。

 止めようとしても舌が勝手に動く。

 繰り返すたび、言葉が自分の中をえぐっていくようだった。


「……私のせいで……」


 そのとき、影が駆け寄ってきた。

 黒衣の裾が血の上をはね、壇上に躍り上がる。


 ダリオスだった。


 彼は王女の肩を掴み、容赦なく揺さぶった。


「……俺が誤った」


 低く鋭い声が耳を打つ。


「お前のせいではない!」


 けれど、その声は届かない。

 王女の瞳は焦点を失い、血に濡れた石畳を見つめ続けていた。


「……私のせいで……」


 唇が震え、言葉がもう意味を持たないまま繰り返される。

 風が吹き抜け、掠れた声を攫っていった。


 陽の光が血の跡を照らし、祝祭の残響だけが、虚ろに広場を包んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ