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7 崩れる象徴

── 大円堂前・広場 ──


目の前に立つ男の姿を捉えた瞬間、セヴランの全身を戦慄が走った。


姿かたちは群衆に紛れるただの若い男。

だが、そこにまとわりつく空気は異質だった。


(……これが――“旧王家の影”……!)


噂話のように耳にした、旧王家に連なる影の存在。

その多くが流言飛語と一笑に付されたが、今、その“影”が目の前で笑っている。


(……殺気を……操っている……。殺気を放たずに、人を殺められる……)


直前に王女へ短剣を放ったときは、確かに感じた。肌を刺すような、確かな“殺意”。

だが、さきほど市民を殺めたとき――それは、なかった。

気配ひとつ発することなく、まるで挨拶でもするように命を奪った。


「……っ」


セヴランは咄嗟に、王女の前に身を滑らせた。

片手で彼女を背にかばい、もう一方の手は腰の剣に。


(勝てない。俺では)


直感だった。

これまで数多の修羅場を越えてきた身体が、“交えてはならない”と告げていた。


王女の前に身を寄せたまま、視線を逸らさず、手近な兵へと短く命令を飛ばす。

「……そこの二人。後方の民を退かせ。通路を確保しろ。兵を円に――誰も壇上へ近づけるな」


その声に、動揺していた兵たちが一斉に動き出す。

訓練された命令の響きが、混乱の中にかろうじて秩序を取り戻す。


セヴランは、真正面の敵から一歩も視線を逸らさず、背中越しに静かに言った。

「――姫君。私の後ろにいてください」


カイムの唇がわずかに歪む。

「さすが、お姫様は騎士に守ってもらえるってわけだ」

カイムの声は、どこまでも軽やかだった。

だが目の奥は、まるで氷の底を覗き込むように冷たい。

「――帝国の騎士に、ね」


カイムは肩をすくめてみせる。

「俺さ、半年くらい、姫さんのことじっくり見てたんだけどさ」


まるで旧友に近況を語るような声音。

指先で髪の束を弄びながら、軽く鼻を鳴らす。

「……あんた何なの?」


口調は陽気なまま、音だけが刃のように鋭かった。

「“助け出そう”としてた同郷の人間を、自分の言葉で売って、帝国の連中には“象徴”なんて持ち上げられてさ――」


一拍の沈黙。

そして、声の調子が一段跳ねる。

「“慈悲の象徴”だって? ははっ、何それ?」


けらけらと笑う。

無邪気で、底が抜けていて、どこまでも愉しげな笑い。

血の飛び散った石畳の上で、芝居の幕が上がるように。


だが、笑いが止むと同時に、その声音はぴたりと静まった。

「――慈悲っていうなら、さ。

 こんなことをした俺のことも、もちろん助けてくれるんだろ?」


王女に向けられた瞳が、まっすぐに射抜く。

爪でなぞるような声が続く。

「それとも、あそこでくたばってる男や兵士を……生き返らせてくれたりするの?」


王女は全身を震わせながら、立っているのがやっとだった。


自分をかばって立つセヴランの背。彼の肩越しに見えるのは、血に濡れた石畳。


(――あのときと、同じ……)


脳裏を閃光のように過るのは、炎と叫びの夜。

崩れ落ちる兵たちの背。自分をかばって盾となり、次々と倒れていった故国の人々の影。

あのときも、彼らの後ろで、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


「……やめて……死なないで……」

喉の奥で、言葉がかすれた。けれど声にする前に、視線がセヴランの裾をとらえた。

闇を縫うような黒の布地。帝国の色。


(……帝国……)


自分をかばって立つのは――帝国の者。


その瞬間、世界が裏返るように感じた。


今、目の前で人を殺したのは――故国の者。

血を流して倒れているのは――帝国の兵と市民。


(私は……誰に守られているの? 何を――守ろうとしているの……?)


耳の奥で、さきほどの声が焼き付いたように響く。


“裏切り者”――


息が詰まり、視界が白く滲む。

自分の中で、過去と現在が混ざり合い、どちらが“正しい”痛みなのかもわからなくなる。


「かわいそうになぁ」

カイムは首をかしげ、笑う。

その視線の先には、血に染まって伏す若い男の身体があった。

「こんなお姫さんを称える場所に来なきゃ、この男も死んだりしないで済んだのに……なあ、姫さん?」

愉しげな嘲りの声。


だが、その言葉が胸に届いた瞬間、王女の瞳が大きく見開かれた。

(私の……せい?)

思考が凍りつき、心臓の音だけが胸を叩いた。


静まり返る広場で、カイムの笑いだけが場のすべてを嘲るように響き渡っていた、そのとき――


――風が裂けた。


黒い影が一つ、音もなく疾る。

次の瞬間、鋭い剣閃がカイムめがけて振り下ろされた。


「――っ!」


カイムの表情が一瞬だけ変わる。

身体を沈め、すれ違うように一歩後退。


カイムは、後退の体勢をとったまま、愉しげに息を吐く。


「……さすが本物は怖いなぁ」


笑いながらも、瞳は鋭く細められていた。

その視線の奥で、何かが測られている。


黒い影が、カイムの前に立ちはだかる。

剣の切っ先から滴る光が、静かに床を照らした。


逆光の中、その姿が現れる。

振るわれた刃の先に立つ男――皇帝ダリオス。

玉座にある時とはまるで別の、戦場に立つ猛き黒獅子。


一切の言葉なく、ただ次の一撃に備えて刃を構えていた。


カイムの口元がふっとゆるんだ。


「いやぁ……やっぱり陛下は舞台映えするねぇ」


血と花弁が舞う広場の中で、彼はまるで喝采を浴びる役者のように笑ってみせた。


次の瞬間、カイムは地を蹴っていた。

「っと――今日はここまで、ってとこかな」


軽い調子で言い放つと、カイムの身体がふっと後ろに揺れる。次の瞬間には、もうその姿は陽の光の中を駆け抜けていた。


外套が翻り、石段の影へ、そして逃げ惑う群衆の波に溶け込むように――消えた。


「追え!」


セヴランが叫び、兵たちが即座に走り出す。

だが、広場はすでに阿鼻叫喚の渦。人々の悲鳴と足音が入り乱れ、誰が誰かも判別できぬ混乱の中、カイムの姿は、まるで最初から存在しなかったかのように掻き消えた。


ダリオスも一歩、二歩と駆け出しかけたが――

目の前で、カイムの気配が完全に断たれたのを悟る。


低く、冷たい息が漏れる。

「……逃したか」


セヴランが兵を散らして指示を飛ばす。

「周辺封鎖! 門を閉じろ! 負傷者を優先して救護しろ!」


王女はその場に立ち尽くしたままだった。耳には、いましがた投げつけられた言葉が残響していた。


――『裏切り者』

――『さすが、お姫様は騎士に守ってもらえるってわけだ。帝国の騎士に、ね』

――『……あんた何なの? “助け出そう”としてた同郷の人間を売って、帝国の連中には“象徴”なんて持ち上げられてさ――』

――『かわいそうになぁ。こんなお姫さんを称える場所に来なきゃ、この男も死なずに済んだのに』


言葉が次々に頭の奥でこだまし、視界の光がにじむ。


ふと視線が下を向いた。

壇の下――石畳の上で血に濡れた若い男が、虚ろな目を開けたまま動かない。

先ほどまで群衆に混じり、歓声をあげていたはずの人。


「……私の、せいで……」


かすかな囁きが、唇から零れた。

言葉は震え、空気を掴むように宙でほどける。


その自分の声を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが崩れた。

“違う”と言い返す理性より早く、身体の内側から別の声が囁く。

――そうだ。自分のせいだ。自分が、呼び寄せた。


その実感が、音もなく全身に染み込んでいく。

寒さのようでもあり、毒のようでもあった。


膝が鳴り、喉の奥で短い息が漏れる。

視界の端で赤が滲み、世界の輪郭が遠のく。


「……私のせいで……」


呟きが勝手に零れる。

止めようとしても舌が勝手に動く。

繰り返すたび、言葉が自分の中をえぐっていくようだった。


「……私のせいで……」


そのとき、影が駆け寄ってきた。

黒衣の裾が血の上をはね、壇上に躍り上がる。


ダリオスだった。


彼は王女の肩を掴み、容赦なく揺さぶった。


「……俺が誤った」


低く鋭い声が耳を打つ。


「お前のせいではない!」


けれど、その声は届かない。

王女の瞳は焦点を失い、血に濡れた石畳を見つめ続けていた。


「……私のせいで……」


唇が震え、言葉がもう意味を持たないまま繰り返される。

風が吹き抜け、掠れた声を攫っていった。


陽の光が血の跡を照らし、祝祭の残響だけが、虚ろに広場を包んでいた。

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