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3 凶星の夜

秋の祭礼が、帝都の空気を浮き立たせていた。

初穂を神に捧げる静かな祈祷に始まり、続く市場祭では、香辛料と果実酒の匂い、楽師の音と歓声が大通りを満たす。

やがて豊穣祭となれば、供物の煙が天へと昇り、神々への感謝が街全体を包む。


人々の熱は、しだいに儀礼の頂へと向かう。

――神への感謝から皇への忠誠へ。


そして、いよいよ明日はその締めくくり。

豊穣の恵みを“人の功”として讃える叙勲祭。

神と皇がひとつに在るこの節目に、帝都の呼吸は静かに高鳴っていた。




── 叙勲祭前夜 大神殿・屋上 ──


秋の風が、祭礼の香を運んでいた。

神殿の尖塔の上では、冷えた空気の中、二人の影が星図を広げている。


「……見誤りではないか?」

「……見間違いではありません、神官長。赤い星が、東の空に」


若い神官が、震える指で指し示す。

東の空、蒼黒の雲の切れ間に、一瞬、血のような光が滲んだ。


老神官長は無言で頷き、夜空を仰いだ。

「凶星……。記録にある。かつて戦乱の前夜、あるいは主上の座が揺らぐ時にのみ現れる、と」


若い神官は息を呑む。

「明日は叙勲祭です。帝都中が祝宴に沸くというのに……まさか――」


屋上の縁に吹き込む風が、星図をはためかせた。

祭りの太鼓が遠くに響く。

街の灯はまだ絶えず、賑わいの余韻が夜気の底を流れている。


「陛下に、お知らせすべきでしょうか」

若者の声は震えていた。


大神官長は星図を巻き取り、ゆっくりと立ち上がる。

「陛下は星読みを好まれぬ。だが、それでも……知らせねばならぬ」


「不興を買うかもしれません」


「構わぬ。天の警めを黙して迎えることのほうが、罪が深い」

言って、大神官長は階へ向かう。


若い神官が慌てて後を追う。

「ですが、夜も更けています!」


「時を争うのだ」


屋上を下りる足音が、石段に反響した。彼の背に、風が吹きすさぶ。

「星は、遅れを許さぬと告げている……陛下のもとへ向かう」


── 祭の灯が遠ざかる。

夜空の凶星だけが、なお赤く脈打っていた。




── 数刻後 帝城・皇帝の私室 ──


廊の明かりは抑えられ、壁に掛けられた燭がわずかに揺れていた。

遠くの庭から、祭りの余韻の笛の音がかすかに届く。


「……大神官長が目通りを願っています」

報告の声に、執務卓の影がわずかに動いた。


「この時刻に?」

「はい。星に凶兆が現れたとか」


セヴランの言葉に、ダリオスは小さく息を吐いた。

面倒げに額へ手を当て、椅子の背に凭れる。

「まったく……神々はいつも、儀の前に口を挟むな」


しばしの沈黙ののち、彼は片手を上げた。

「いい。控えの間で短く済ませよう」




── 控えの間 ──


冷たい大理石の床に、大神官長の杖が軽く触れた。

老神官は深く頭を垂れ、沈痛な面持ちで言葉を選ぶ。


「陛下……天に凶星が現れました。古き記録によれば、それは“秩序の均衡”が乱れる前にのみ姿を見せると――」


「星が、秩序を量れるとでも?」

ダリオスの声は静かだったが、冷たい諧謔が滲んでいた。

「天はただ巡るだけだ。乱すのも整えるのも、人の手だろう」


短く息を吐き、肘掛に片手を乗せる。

「式典の前に、そんな話を吹聴すれば、民の心を乱すだけだ。不安は伝染し、やがて災いを呼ぶ。それが“人災”というものだろう」


大神官長が顔を上げる。

「……しかし、陛下。星が示すのはまさに“人”の手による災いにございます。天は、備えを促して――」


「備えなら既にしている」

ダリオスはゆっくりと背凭れに身を預け、視線を逸らさずに言い放った。

「天災も人災も、起こるときは起こる。大事なのは、それを最小に抑える仕組みを築くことだ。迷信で人心を煽ることではない」


それで終わりだというように、片手を軽く振った。

退室の合図だった。


だが、大神官長は動かなかった。

杖を握る手に力がこもり、老いた声が再び響く。


「……陛下。凶星は東の空にございます」

「東?」

ダリオスの指が、肘掛の縁で止まった。


「はい。かの方角は――」

大神官長は一拍置いて、言葉を選ぶ。

「王女殿下の御故国の在りし地。古き伝えにございます、凶星はその昇る方角に“災いの理”を示すと。つまり、星が告げる禍は……殿下に連なるものかもしれませぬ」


室内の空気が、一瞬にして張りつめた。

ダリオスは鋭く大神官長を見据える。しかし大神官長は怯みつつも言葉を続けた。


「せめて――明日の式典には殿下の御出席をお控えに、と」


「もうよい」

低い声が、刃のように遮った。


ダリオスの瞳には、淡い光が宿っていた。冷たく、しかしどこか押し殺したような色。

「星の方角で、人の行いを決めるというのか。神殿はいつからそのような解釈を許した?」


老神官は慌てて頭を垂れた。

「……不敬の意図ではございませぬ。ただ、兆しをお伝えせねばと――」


「兆しを語るなら、己の言葉で語れ。星のせいにするな」

冷ややかに言い放つと、再度片手を振り、退室を促した。


大神官長は唇を結び、やがて杖を握りしめて頭を垂れた。

「……御意」


扉が閉じ、大神官長の足音が遠ざかる。

しばしの沈黙。

その静けさを破ったのは、控えていたセヴランの低い声だった。


「……計画を、変更なさいますか」


ダリオスは椅子の背にもたれ、短く笑った。

「お前までそんなことを言うのか」


脇卓に置かれていた杯を手に取り、銀の水差しから静かに水を注ぐ。

杯に水の注がれる音が一瞬だけ響き、やがて彼はそれをゆるく傾けた。

「ふん。こうやって人の心を惑わせるのが“星読み”というやつだ。一度でも耳にすれば、理を持つ者まで囚われる」

「……ですが、凶星が東に昇るというのは――ただの偶然でしょうか」


「偶然だ」

杯の縁がわずかに揺れ、沈黙がひと呼吸置かれた。

視線を窓の外へ向ける。雲間にかすかな赤光が滲んでいた。


「偶然であっても、人はそれを因果に仕立てる。だが――星に動かされるような皇帝なら、とうに滅んでいる」


セヴランはそれ以上何も言わず、ただ静かに頭を下げた。

その横顔に、言葉にならぬ憂いが影のように落ちる。


ダリオスは杯を口に運び、微かに笑んだ。

「明日は予定どおりだ。――天が何を示そうと、俺は俺の秩序を示す」


杯が脇卓に触れ、鈍い音を立てた。

その響きが、静まり返った部屋に長く残った。




── 数刻後 女侯爵邸 ──


香油の灯が揺れる応接間。

織物の幕に映る金糸の影が、何かの祈りを描くように壁を這っていた。


「……凶星、ですって?」

女侯爵は紅茶の杯を持ったまま、目を見開いた。

「まぁ、それは大変!」


大神官長は疲れた顔で頷く。

「陛下にはお伝えいたしましたが……お叱りを受け、何も果たせませなんだ。我らが軽々しく口を開くべきではないと……」


「まぁ……」

女侯爵は椅子の背にもたれ、顔を曇らせた。

「お気持ちはよくわかりますわ。陛下に信仰の言葉を届けるのは、どなたにとっても難しいこと」


大神官長は胸の前で杖を抱き締め、沈痛に頭を下げた。

「せめて、あなた様の方で……民を守るために、何かできることがあれば」


「もちろんですわ」

女侯爵は穏やかに微笑んだ。

「神々の慈しみを、民の手に届く形にいたしましょう。どうぞご安心を」


老神官は深く礼をして立ち上がった。

扉が閉まり、足音が廊を遠ざかっていく。


静寂。

女侯爵は椅子を離れ、ゆるやかに窓辺へ歩み寄った。


白い階段を下る大神官長の背が、月明かりの中に小さく揺れていた。

その小さな背を見下ろす彼女の唇に、うっとりとした笑みが浮かんだ。


「“秩序の均衡”が乱れる時……やはり殿下が殉教者になられるのですね」


その声は甘く、祈りのようであった。


「信仰を軽んじる者にも啓示を与えてくださる神々は、なんと慈悲深いのでしょう。……けれど、信仰を軽んじる者はその啓示を受け取らない――運命とは、なんと皮肉なものかしらね。陛下」


香炉の煙が細く揺れ、星明りとともに夜へと溶けていった。

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