2 救いの代償
── 帝都外縁・第一施療院前 ──
淡い陽が灰の雲を透かし、石畳に長く影を落としていた。
門の前には長い列。包帯を巻いた者、杖をつく者、痩せた子供を抱いた女。
薬と灰の匂いが混ざり、冷えた空気の中にほのかに漂っている。
王女の馬車が止まり、群衆のざわめきがわずかに広がった。
控えていた兵が道を開け、ミレイユが先に降り立つ。
王女は外套の裾を押さえ、秋の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
列の隅に、ボロ布をまとった小さな兄弟がいた。
兄は十歳ほど、弟はまだ五つか六つに見える。
真っ赤に熱を帯びた弟を背に負いながら、兄は施療院の扉の方をじっと見つめていた。
王女がその兄弟を見ていると、ミレイユが短く言った。
「貧民街の子供でしょう」
王女は思わず兄弟に歩み寄った。
「……どうしたの?」
兄がびくりと肩を震わせ、怯えたように顔を上げた。
「……弟が、熱で。三日も寝たきりで……父さんが、連れていくなって……でも、もう……」
掠れた声。
王女はしゃがみ込み、弟の額にそっと手を当てた。
熱い。
このままでは、夜を越せないかもしれない。
「……この子を、先に診てもらえないかしら」
思わず漏れた声に、背後でミレイユの声が落ちた。
「お待ちください、姫様」
王女が振り向く。
ミレイユは一歩前へ出て、静かに兄を見つめた。
「あなたの弟をここで治療すれば、その後は保護され、孤児院に入ることになります。食事と寝場所、学びと仕事を与えられる代わりに、帝国の臣民として忠誠を誓うことになる。
――それでも構いませんか?」
兄は、しばらく何も答えなかった。
俯いたまま、肩を震わせている。
風が吹くたび、弟の体が小さく揺れ、それを支える兄の腕に力がこもる。
やがて、ぽつりと声が落ちた。
「……父さんは、帝国なんか信じるなって。戦で母さんを殺されたって……」
震える唇から零れたその言葉に、王女は僅かに息を呑んだ。
「だから、施療院も孤児院も……“仇の手だ”って言う。
“食わせてもらうくらいなら、道端で飢え死にしろ”って……ずっとそう言われて育った。
……帝国を信じるなって。絶対に、関わるなって……」
声がかすれ、次の言葉がなかなか出てこない。
それでも、兄は必死に言葉を繋ぐ。
「でも……弟が死んじゃったら……俺、どうしたらいいか、わからない。
父さんは……俺たちがここに来ているのを知らない。今朝、こっそり連れて出たから……何も言わずに来たから……このまま俺たちが孤児院に連れて行かれたら……父さんは、もう……ずっと、俺たちがどこに行ったかも……知らないままだ……」
目元が赤くなっていた。
言葉の端々に、息が詰まり、にじむような震えが混ざる。
「……助けてほしい。でも……戻りたい。父さんのところに……帰りたい。それじゃ、だめなの……?」
ミレイユの声が、変わらぬ調子で静かに落ちる。
「――決まりです。帝国の庇護を受けた者は、帝国の民となる。施療院の扉をくぐるなら、あなたと弟は、父親のもとへは戻れません」
王女は思わず口を開く。
「待って、ミレイユ。この子たちは――まだ幼くて瀕死なのよ。治療だけでも受けさせて、あとで帰せないの?」
ミレイユの黒い瞳は揺らがない。
「できません。これは救済の制度です。恩を受ければ、帝国の一部になる。例外を許せば、すべてが崩れます」
王女は言葉を失った。
兄は俯いたまま、震える手で弟の腕を握りしめる。
ミレイユは低く、しかし柔らかく言った。
「あなたが選びなさい。弟を生かすか、父のもとに帰るか。
どちらを選んでも、誰も責めはしません。けれど――選ぶのは、あなたです」
兄の体が小さく震えた。
唇が動きかけては、何度も閉じられる。弟の顔を見下ろし、額に触れ、指先を強く握る。
声にならない息が、喉の奥でかすれた。
「……父さん……」
ぽつりと漏れた言葉は、風に溶けて消える。
そのまま、しばらく動かなかった。
やがて、震える唇がゆっくりと開く。
「……お願いします。弟を……助けてください。……もう、父さんに会えなくても、いい……です」
ミレイユは小さく頷いた。
近くにいた係員を呼び、簡潔に命じる。
「この子たちを保護。記録と手続きは規定どおりに」
弟が担架に乗せられ、白い扉の向こうへ消えていったあとも、王女はその場から動けずにいた。
兄は俯いたまま嗚咽をこらえ、ミレイユは手元の書類に目を走らせている。
灰色の光が門前の石畳に落ち、風が紙の端を揺らした。
しばらく沈黙が続いたのち、王女は小さく息を吸った。
「……ミレイユ。せめて――この子たちを、父親に会わせてあげられないかしら」
ミレイユは手元の書類を見つめたまま、顔を上げずに応じた。
「父親に、ですか」
「ええ。せめて最後に一度、会わせてあげたいの」
ミレイユは書類を脇に抱えて、淡々と首を振った。
「……この周辺の貧民街に、危険を承知で出向く者はいません。たとえ施療院の者でも、無事に戻れる保証はない。そのような場所へ、誰かを遣わせるわけにはいきません」
王女は即座に言葉を返した。
「じゃあ、私が行くわ。私なら衛兵が守ってくれる。危険でも――父親を連れてくることができるかもしれない」
ミレイユのまなざしが鋭く上がる。
「なりません、姫様」
その声は冷ややかで、しかし迷いのないものだった。
「本日の予定は施療院の視察。施療院の業務以外の行動は、許可されておりません。ここでのあなたの務めは“象徴として視る”ことであって、誰かを救うことではないのです」
王女は言葉を失った。
冷たい風が門前を渡り、白布の端を揺らす。
ミレイユの視線と、王女の沈黙だけがそこに留まり、時間がゆっくりと伸びていく。
その張りつめた空気を破るように、少し離れたところから明るい声がした。
「――患者の家族を探して面会を取り次ぐのも、施療院の仕事ですよ」
振り向くと、書類束を抱えたユリオがこちらへ歩いてきていた。
彼は柔らかく笑みを浮かべ、軽く肩をすくめる。
「制度上は“心身の安定を保つための支援”にあたります。看取りの場合も、できるだけ家族を呼ぶように決められています」
ミレイユの眉が、わずかに動いた。
「……それは重症患者に限られているはずです」
「あの弟さんは、まさにそうでしょう。高熱で意識がない。今すぐ手当てがなければ危険だと医師も言ってました」
ユリオの声は穏やかだったが、反論の余地を与えない。
一瞬の静寂。
やがてミレイユは、短く息を吐いた。
「……わかりました。手配は私が行います。ただし、姫様は同行なさらないこと。施療院内でお待ちください」
王女は小さく頷いた。
安堵と焦りの入り混じる胸の奥で、ユリオの方へ視線を向ける。
彼は柔らかく笑って言った。
「うまくいくといいですね。……“象徴”ってのは、動かない像のことじゃないでしょう?」
その言葉に、胸の奥が微かに熱を帯びた。
── 夕刻 ──
陽は傾き、石畳の上に長い影が伸びていた。
白壁の間を抜ける風は乾いていて、遠くで薬草を煮る匂いがかすかに漂う。
王女は施療院の入口脇に立ち、門の方を見つめていた。
弟はすでに治療を受け、昏々と眠っているという。
兄はその傍らに座り込み、まだ何も口にしていないという。
やがて、門の方から靴音が近づいた。
ミレイユが現れ、その後ろに一人の男が続く。髪は乱れ、頬は痩せこけ、衣は煤にまみれている。だが、その眼だけは鋭く光っていた。
「……連れて来ました。父親です」
男の肩を押すように、ミレイユが言う。
そのとき、背後の扉が静かに開いた。
ユリオが建物の中から姿を現し、入口の影に立って様子を見守る。
小さくうなずいて王女に視線を送った。
男は王女を一瞥した。
目は赤く、瞳の奥に冷たい怒りが沈んでいた。
「……なるほど。お前がそうか」
低い声が石の壁に反響する。
「――自分の国を滅ぼされながら、皇帝の犬に成り下がった奴は」
その言葉に、ユリオがわずかに息を呑む。
ミレイユは一切の反応を見せず、ただ立っている。
男は続けた。
「お前みたいな奴が、俺の子を“保護”するだと? 笑わせるな……!」
王女は、何も返さず、ただまっすぐにその男の言葉を受け止めた。
まるで、自らの影が言葉になって現れたようだと思った。
――私も、奪われた者だった。けれど今、自分は、奪う側に立っている。
一瞬、風が吹いた。
乾いた葉が舞って、落ちる。
やがて、建物の奥から足音が響いた。
扉の向こうに、小柄な影が現れる。
弟を背負った兄だった。細い体で懸命に支えながら、ゆっくりと歩いてくる。
医員が傍らから手を添え、転ばぬように見守っていた。
弟はまだ顔に熱の色を残していたが、意識は戻っているらしかった。兄の肩にもたれ、弱々しく息をしている。
薄い寝衣の裾が揺れ、秋の光を受けて淡く白んだ。
父親はその姿を見た瞬間、わずかに息を詰まらせた。
硬くこわばった指先が震えたのを、王女は見逃さなかった。
兄は父の姿に気づき、足を止めた。
「……父さん」
小さな声が施療院の入り口に響き、風がその言葉を運んだ。
父親はしばらく動かなかった。
背をわずかに丸めたまま目を伏せ、息子たちの姿を、ただ見つめていた。
そして一度、深く息を吸った。
吐き出されたのは、乾いた舌打ち。
「……勝手にしろ」
それだけを吐き捨て、踵を返す。
王女が進み出ようとしたのを、ミレイユがそっと手で制した。
男は振り向かずに去っていった。
兄は小さく唇を噛んだが、それ以上は何も言わなかった。弟が父の影を探すように見ていたが、すぐに兄の袖を握った。
秋の空が高く、風にちぎれた雲が東へと流れていく。
やがて、ミレイユが静かに言った。
「……決断とは、何かと引き換えに、何かを手放すことです」
その言葉は、どこまでも冷たく、そして正しかった。
王女は答えず、ただ風の向こうに去っていく男の背を見送っていた。




