5 粉の香りの別れ
── 西方街道・宿場町 ──
石畳を踏みしめるたび、王女の胸は冷たく揺れた。
戻りながら、何度も言葉を探す。
「ありがとう」と告げるべきか。
「さようなら」と言うべきか。
けれど、そのどちらも軽すぎるように思えた。
(……どう、マルタに伝えればいい……?)
暖かな灯りの漏れる扉の前に立つ。
パンの香りが鼻先をかすめ、胸がきゅっと締まった。
王女は扉を押し開けた。
粉と薪の匂いが胸に沁み、灯の下でマルタが振り向く。
「お帰り」
その声を聞いた瞬間、王女の喉は塞がれた。
言葉を探していたはずなのに、なに一つ口にできない。
視線が絡んだ瞬間、マルタの表情がわずかに揺れる。
笑みの奥に、すでに気づいている瞳があった。
──ああ、この子は行ってしまうのだ、と。
言葉を交わすより先に、空気が告げていた。
王女は息を呑み、喉の奥が痛むのを感じた。
マルタは静かに布巾を置き、彼女に近づいた。
粉の匂いと共に、その温もりが迫ってくる。
微笑みを崩さぬまま、粉まみれの腕を伸ばし、彼女をそっと抱き寄せる。
沈黙の抱擁──問いも詮索もなく、ただ受け入れる温もり。
しばしののち、マルタが低く尋ねた。
「……いつ、発つのかい」
王女は小さく息を吸い、答える。
「……今すぐ」
一瞬、静寂。
やがてマルタは肩を離し、棚の隅に手を伸ばした。
「じゃあ、残り物しか渡せないけどね……」
固くなったパンを数つ取り、包み布にくるんで王女に手渡す。
その手を差し出すとき、彼女は変わらぬ笑みを浮かべていた。
涙も溜め息もなく、ただ温かく。
王女は受け取った包みを胸に抱きしめた。
視界が揺れそうになるのを必死に堪える。
「……ありがとう」
それだけを、かすれた声で言えた。
マルタは頷き、扉を指さした。
「さあ、お行き。うちの窯の煙が、しばらくは背中を見送ってくれるさ」
その笑みは、王女の胸に深く焼きついた。
──王女は振り返らず、なお冷えの残る春の空気へと踏み出した。
* * *
扉を背にした瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いたようだった。
けれど歩みを止めるわけにはいかない。
午後の陽が斜めに差し、石畳に長い影が連なっていた。
通りの端には荷馬車が停められ、樽や袋が積まれている。馬の鼻息が白く揺れ、車輪の影に男たちが集まっていた。
「……お待たせしました」
王女が近づくと、ひとりの商人が肩越しに振り返る。
口元に薄い笑みを浮かべ、無造作に顎をしゃくった。
「来たな。……ほら、乗れ」
言葉と同時に、手で荷台を叩く。
それは招きではなく、荷物の一つを放り込むのと変わらぬ仕草だった。
王女は胸の包みを抱き直し、視線を伏せて荷台に足をかける。
木の板は粗く、乾いた埃の匂いが立ちのぼった。
別の商人が縄を締めながら低くつぶやく。
「訳ありの客ってのは、いつだって厄介なもんだ」
「だが銭を払うなら黙って乗せりゃいい」
軽口が続く。
その裏で、互いの目には値踏みする光が潜んでいた。
王女は黙って荷台の隅に腰を下ろす。
車輪が軋み、馬の蹄が石畳を打ち始める。
揺れる荷台の向こう、遠ざかる町の屋根の上に、パン屋の煙突から白い煙が細く立ちのぼっていた。
* * *
石畳を抜け、馬車はゆっくりと街道へ進み出した。
午後の陽は傾き、木々の梢に黄金の縁を置いてゆく。
蹄の音と車輪の軋みが、単調に耳を打った。
荷台の板は固く、王女の身体を容赦なく揺さぶる。
積まれた麻袋の間に身を寄せながら、彼女は包みを抱きしめた。
その中には、固くなったパンと共に、マルタの掌の温もりがまだ残っている気がした。
商人たちは前方で軽口を交わしている。
「峠を越えるまでに陽が落ちなきゃいいがな」
「心配するな、馬は上等だ。客を一人増やしたくらいで遅れやしねえ」
笑い混じりの声に、王女はまぶたを伏せる。
彼らにとって、自分はただの“荷”にすぎないのだと痛感する。
けれど、それでよかった。
マルタとの別れのように心を裂かれることもない。
情が交わらぬ分、去る時に流す涙もいらない。
彼らはただ運ぶだけ、自分はただ運ばれるだけ。
その無機質な関係に、むしろ安堵を覚えていた。
遠く霞む山影を見やりながら、王女は胸の奥で小さく息をついた。
──これでいい、と。
馬車は、ゆっくりと旅路を刻んでいった。
町の屋根と煙突が遠ざかり、視界の先には街道が真っすぐに延びている。
午後の陽はすでに傾き、山並みが赤く染まり始めていた。
その向こうに、国境がある。
帝国の手を離れ、外の空へ踏み出す道が──確かに続いている。
王女の中で、恐れと期待がせめぎ合う。
けれど今はただ、馬車のきしむ音に紛れて心臓の鼓動を数えるしかなかった。
王女は小さく息をつき、まぶたを伏せた。
胸の奥では、山影の向こうに待つものを意識せずにはいられない。
──国境の関所。
帝国の支配と外の世界を分かつ、重く冷たい門。
その前に立つ自分を想像するたび、喉が乾いていく。
通行証もなく、ただ旅人のふりをして抜けられるのだろうか。
名を偽り、銅貨を握りしめて懇願すれば通してもらえるのか。
だが、関所の兵が一目で自分を見抜けば、それで全てが終わる。
いくつも思案を巡らせても答えは出ず、心細さだけが増していった。
王女は、マルタから渡されたパンの包みをほどく。
布を解くと、固くなったパンがいくつかと、革袋に入った銀貨が少し。
胸に込み上げるものを押し殺し、王女は指先でひとつひとつ確かめる。
その下に──薄く折りたたまれた羊皮紙が隠されていた。
震える手で広げると、そこには掠れた墨とすり減った印章。
古びてはいるが、紛れもなく国境を越えるための通行証だった。
(……マルタ……)
言葉にならぬ思いが喉に詰まる。
王女は羊皮紙を胸に抱き、外套の奥深くへと隠した。
馬車はなおも夕映えの街道を進む。
山影の向こうに待つのは、逃れられぬ試練──国境の門だった。




