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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第一章 掌中の鳥 ~ 第一幕 帝国の象徴 ~
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5 粉の香りの別れ

 ── 西方街道・宿場町 ──


 石畳を踏みしめるたび、王女の胸は冷たく揺れた。

 戻りながら、何度も言葉を探す。

 「ありがとう」と告げるべきか。

 「さようなら」と言うべきか。

 けれど、そのどちらも軽すぎるように思えた。


(……どう、マルタに伝えればいい……?)


 暖かな灯りの漏れる扉の前に立つ。

 パンの香りが鼻先をかすめ、胸がきゅっと締まった。


 王女は扉を押し開けた。

 粉と薪の匂いが胸に沁み、灯の下でマルタが振り向く。


「お帰り」


 その声を聞いた瞬間、王女の喉は塞がれた。

 言葉を探していたはずなのに、なに一つ口にできない。


 視線が絡んだ瞬間、マルタの表情がわずかに揺れる。

 笑みの奥に、すでに気づいている瞳があった。


 ──ああ、この子は行ってしまうのだ、と。


 言葉を交わすより先に、空気が告げていた。

 王女は息を呑み、喉の奥が痛むのを感じた。


 マルタは静かに布巾を置き、彼女に近づいた。

 粉の匂いと共に、その温もりが迫ってくる。

 微笑みを崩さぬまま、粉まみれの腕を伸ばし、彼女をそっと抱き寄せる。

 沈黙の抱擁──問いも詮索もなく、ただ受け入れる温もり。


 しばしののち、マルタが低く尋ねた。

「……いつ、発つのかい」


 王女は小さく息を吸い、答える。

「……今すぐ」


 一瞬、静寂。


 やがてマルタは肩を離し、棚の隅に手を伸ばした。

「じゃあ、残り物しか渡せないけどね……」


 固くなったパンを数つ取り、包み布にくるんで王女に手渡す。


 その手を差し出すとき、彼女は変わらぬ笑みを浮かべていた。

 涙も溜め息もなく、ただ温かく。


 王女は受け取った包みを胸に抱きしめた。

 視界が揺れそうになるのを必死に堪える。


「……ありがとう」

 それだけを、かすれた声で言えた。


 マルタは頷き、扉を指さした。

「さあ、お行き。うちの窯の煙が、しばらくは背中を見送ってくれるさ」


 その笑みは、王女の胸に深く焼きついた。


 ──王女は振り返らず、なお冷えの残る春の空気へと踏み出した。




     * * *




 扉を背にした瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いたようだった。

 けれど歩みを止めるわけにはいかない。


 午後の陽が斜めに差し、石畳に長い影が連なっていた。

 通りの端には荷馬車が停められ、樽や袋が積まれている。馬の鼻息が白く揺れ、車輪の影に男たちが集まっていた。


「……お待たせしました」


 王女が近づくと、ひとりの商人が肩越しに振り返る。

 口元に薄い笑みを浮かべ、無造作に顎をしゃくった。


「来たな。……ほら、乗れ」


 言葉と同時に、手で荷台を叩く。

 それは招きではなく、荷物の一つを放り込むのと変わらぬ仕草だった。


 王女は胸の包みを抱き直し、視線を伏せて荷台に足をかける。

 木の板は粗く、乾いた埃の匂いが立ちのぼった。


 別の商人が縄を締めながら低くつぶやく。

「訳ありの客ってのは、いつだって厄介なもんだ」

「だが銭を払うなら黙って乗せりゃいい」


 軽口が続く。

 その裏で、互いの目には値踏みする光が潜んでいた。


 王女は黙って荷台の隅に腰を下ろす。

 車輪が軋み、馬の蹄が石畳を打ち始める。


 揺れる荷台の向こう、遠ざかる町の屋根の上に、パン屋の煙突から白い煙が細く立ちのぼっていた。




     * * *




 石畳を抜け、馬車はゆっくりと街道へ進み出した。

 午後の陽は傾き、木々の梢に黄金の縁を置いてゆく。

 蹄の音と車輪の軋みが、単調に耳を打った。


 荷台の板は固く、王女の身体を容赦なく揺さぶる。

 積まれた麻袋の間に身を寄せながら、彼女は包みを抱きしめた。

 その中には、固くなったパンと共に、マルタの掌の温もりがまだ残っている気がした。


 商人たちは前方で軽口を交わしている。

「峠を越えるまでに陽が落ちなきゃいいがな」

「心配するな、馬は上等だ。客を一人増やしたくらいで遅れやしねえ」


 笑い混じりの声に、王女はまぶたを伏せる。

 彼らにとって、自分はただの“荷”にすぎないのだと痛感する。

 けれど、それでよかった。


 マルタとの別れのように心を裂かれることもない。

 情が交わらぬ分、去る時に流す涙もいらない。

 彼らはただ運ぶだけ、自分はただ運ばれるだけ。


 その無機質な関係に、むしろ安堵を覚えていた。


 遠く霞む山影を見やりながら、王女は胸の奥で小さく息をついた。

 ──これでいい、と。




 馬車は、ゆっくりと旅路を刻んでいった。

 町の屋根と煙突が遠ざかり、視界の先には街道が真っすぐに延びている。

 午後の陽はすでに傾き、山並みが赤く染まり始めていた。


 その向こうに、国境がある。

 帝国の手を離れ、外の空へ踏み出す道が──確かに続いている。


 王女の中で、恐れと期待がせめぎ合う。

 けれど今はただ、馬車のきしむ音に紛れて心臓の鼓動を数えるしかなかった。


 王女は小さく息をつき、まぶたを伏せた。

 胸の奥では、山影の向こうに待つものを意識せずにはいられない。


 ──国境の関所。


 帝国の支配と外の世界を分かつ、重く冷たい門。

 その前に立つ自分を想像するたび、喉が乾いていく。


 通行証もなく、ただ旅人のふりをして抜けられるのだろうか。

 名を偽り、銅貨を握りしめて懇願すれば通してもらえるのか。

 だが、関所の兵が一目で自分を見抜けば、それで全てが終わる。

 いくつも思案を巡らせても答えは出ず、心細さだけが増していった。


 王女は、マルタから渡されたパンの包みをほどく。

 布を解くと、固くなったパンがいくつかと、革袋に入った銀貨が少し。

 胸に込み上げるものを押し殺し、王女は指先でひとつひとつ確かめる。


 その下に──薄く折りたたまれた羊皮紙が隠されていた。


 震える手で広げると、そこには掠れた墨とすり減った印章。

 古びてはいるが、紛れもなく国境を越えるための通行証だった。


(……マルタ……)


 言葉にならぬ思いが喉に詰まる。

 王女は羊皮紙を胸に抱き、外套の奥深くへと隠した。


 馬車はなおも夕映えの街道を進む。

 山影の向こうに待つのは、逃れられぬ試練──国境の門だった。

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