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13 赦しのかたち

 ── 王女の居室 ──


 机上に開かれた書の頁を、王女はじっと見つめていた。

 視線は文字列の上をなぞっているが、行は進まず、同じ箇所に留まっている。


 扉の外に、二度、控えめなノックの音が響いた。


 王女ははっと視線を上げ、椅子に座ったまま扉の方を振り返る。

 読みかけの書を閉じ、遅れて姿勢を正した。


 「どうぞ」と答える前に、扉が静かに開く。


 入ってきたのは、灯を背にしたダリオスだった。

 蝋燭の炎がその背を縁取り、影が床を長く伸ばしている。


「陛下……」


 思わず息を呑んだ。

 ノックをして入ってくるなど、初めてのことだった。いつもは、扉が開く音と同時にその姿が現れるのが常。

 その小さな変化が、かえって胸をざわつかせる。


「少し話がある」


 その声は静かで、命令というより確認に近かった。


 ダリオスはゆっくりと部屋を見回す。

 机の上の書簡、整えられた寝具、そして──寝台の脇に、今はもう空になった鉄環の跡。

 視線がそこに留まり、一瞬だけ、光を反射した。


 王女はその目線に気づき、裾を無意識に引き寄せる。

 生地の擦れる音が、妙に大きく響いた。


 ダリオスは視線を切り、低く息を吐いてから、口を開いた。


「セヴランが言っていた。お前の様子が少し違う、と」


 その言葉に、胸の奥がどくりと鳴った。

 呼吸を整える間もなく、次の問いが落ちる。


「何か、あったのか」

「……いいえ」


 王女は即座に答えた。

 声は穏やかに出たつもりだったのに、自分でも驚くほど小さく震えていた。


 ダリオスの目が、淡い光の中で王女を射抜く。

 わずかに、何かを測るような沈黙が落ちる。


 やがて、低く抑えた声が静寂を切った。

「足枷を外したことと何か関係あるか」


 その一言に、王女の胸がびくりと震えた。心臓の鼓動が、痛みを伴って喉までせり上がる。

 否定の言葉を出そうとしたが、唇はわずかに動くだけで声が出ない。


 まるで自分の思考をすべて見透かされたようで、息が浅くなる。

 視線を逸らせば敗北のように思えて、けれど正面を見返す勇気もない。


 数拍のあいだ、ただ沈黙が降りた。

 微かな衣擦れの音さえ、やけに大きく響く。


 やがて、胸の奥で凍った息を押し出すように、王女は小さく口を開いた。


「……陛下は」


 一度、喉の奥で息を整えてから顔を上げる。


「どうして、あの日に外されたのですか」


 沈黙が落ちる。

 靴音が一歩、静寂を刻む。

 ダリオスは蝋燭の灯を横切るように歩み寄り、言った。


「お前が、もう象徴として十分に立っていると思ったからだ」


 その声に、王女の瞳が揺れた。

 あぁ、やはり──と思う。


 自分が「帝国の一部」として認められたからなのだ。


 あの足枷は罰であると同時に、境界でもあった。

 それがなくなったということは、自分がついに“内側”に迎え入れられたということ。


 帝国の一部として働く自分。

 帝国の秩序を整え、人々を支える自分。

 その姿を思うと、胸の奥がひりついた。


 それは裏切りに他ならない。

 滅ぼされた国の王女でありながら、敵の築く秩序の中で息をしている──。


 王女は目を伏せた。

 まぶたの裏で、夜の冷たい鉄の感触が甦る。

 あの重みこそ、自分が“外”に立っている証だったのだ。


 いま、その境界がなくなった。

 生かされながら、ゆっくりと帝国に溶けていく。

 その事実が、痛いほど息苦しかった。


 沈黙が流れた。

 ダリオスはしばし王女を見つめ、それから低く問いかけた。


「……足枷を、外されたくなかったのか?」


 王女は息を詰めた。

 否とも、是とも言えない。

 そのどちらの言葉も、喉の奥で溶けて形を失った。


 目を伏せたまま、指先が膝の上で小さく震える。

 否定すれば、自分の偽りが露わになる気がした。

 けれど、頷くことは──もっと怖かった。


「……あの足枷は、お前の逃亡の罰として課したものだ」


 ダリオスの声は淡々としていた。

 感情を押し隠した静けさの中に、わずかな困惑の影が混じる。


「だから、帝国の中での自分の役割を受け入れて立つ、今のお前にはもう罰は必要ないと思ったから解いた」


 その言葉が胸に刺さる。

 “受け入れて立つ”──その言い回しが、まるで自分のすべてを見透かしているようで、王女はぎゅっと唇を噛んだ。


 ダリオスはしばらく彼女を見つめていたが、やがてわずかに首を傾げ、静かに問うた。


「……お前は、あの足枷に──何の意味を与えていた?」


 その問いに、胸の奥が跳ねた。

 喉の奥がひりつき、言葉が出ない。

 蝋燭の炎がゆらりと揺れて、壁に映る影が形を変える。


 どれほど沈黙が続いただろう。

 やがて、王女は唇を震わせながら、かすかに声を絞り出した。


「……卑怯な言い訳を、していました」


 ダリオスの眉がわずかに動く。

 王女は視線を落としたまま、続けた。


「足枷を付けられている限り、私はまだ“罪人”でいられる。

 帝国の一部ではなく、罰を受けている者として、故国の者たちと同じ痛みを、わずかでも分かち合っているのだと……

 帝国の中で働いても、それは罰を受けながらの行いだから……“裏切り”じゃないと、自分に言い聞かせていました」


 指先が膝の上でぎゅっと重なる。


「だから、外された瞬間、怖くなったのです。私がしていることが、本当に“裏切り”になってしまう気がして……

 あの重みがなくなったら、私はもう──どこにも属せない気がしました」


 言葉が途切れる。

 蝋燭の炎がふっと揺れ、壁に伸びた影がゆらめいた。


 ダリオスは彼女を見つめたまま、何も言わない。

 その静けさが、言葉よりも深く胸に響いた。


 やがて、彼はゆっくりと息を吐く。

 蝋燭の光がその横顔を照らし、瞳の奥にわずかな陰を落とした。


「……なるほど」


 低い声が、静かに空気を振るわせた。


「人がその持ち分を生かして働くことは、無条件に“是”だと──ずっとそう思っていた。

 だが、そうとも限らないのだな」


 王女は顔を上げられず、ただ指先を見つめていた。


 ダリオスは歩を進め、寝台の脇に視線を落とす。

 そこには、今はもう存在しない鉄の環の跡──わずかな擦れ跡が、灯に鈍く反射していた。


「俺からすれば、お前のしていることは、何の裏切りでもない」

 声は穏やかだったが、その奥に確信の硬さがあった。

「だが──確かに、そう捉える者はいるだろう」


 一拍、言葉を区切ってから続ける。

「何より……お前自身が、そう捉えているのだな」


 その言葉に、王女の肩がかすかに震えた。

 返す言葉を探しても、声にならない。ただ、胸の奥で小さく疼くような痛みが広がっていった。


 沈黙を断ち切るように、ダリオスが低く言葉を紡いだ。


「だが、先ほども言った通り──あの足枷は、お前の“逃亡”の罰として課したものだ。

 お前の中にある“裏切り”の罰として与えたものではない」


 彼の声は冷静で、どこまでも理に従っていた。

 けれど、その理の奥に、なぜか温度のある響きがあった。


「だから、再び足枷を与えてやることはしない」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

 それが拒絶なのか、救いなのか、王女には判別できなかった。


 ダリオスは王女の前に歩み出て、視線を落とした。

 蝋燭の火がその瞳に映り、揺らめく光の中で言葉が降りる。


「俺はお前を生かすと決めている」


 その声は低く、静かに、しかし絶対の力を帯びていた。


「それは、ただ呼吸して命を繋げばいいということではない。

 そして──己の責務から逃れて、自由気ままに生きればいいということでもない」


 言葉が、刃のように真っ直ぐ胸に届く。

 王女は呼吸を忘れたまま、灯に浮かぶ彼の顔を見上げた。


「だから支配者として命じる」


 その一言に、空気が張り詰める。


「お前はお前の持つもの──立場も、資質も、能力も、すべてこの帝国のために差し出せ」


 声が一段低くなり、重みを増す。


「それを裏切りだと感じるならば、俺の命令を拒めない己の無力をこそ嘆け」


 王女の胸の奥で、何かが痛む。

 その痛みは、恥でも屈辱でもなく、もっと原初的な──“生”の疼きに近いものだった。


「無力ゆえの裏切りなら……いつか力を得た時に、乗り越えることもできるやもしれん」


 ダリオスは最後の一言を、静かに落とした。

 それは罰でも脅しでもなく、まるで未来への“赦し”のように響いた。


 蝋燭の灯が二人の間で揺れ、長い影が重なって一つになった。

 王女は言葉を失ったまま、胸の奥でその声の余韻を抱きしめていた。


 やがて、衣擦れの音。ダリオスが踵を返して、扉の方へと歩き出す。

 足音は静かで、石の床にほとんど響かない。


 扉の前で、一度だけ立ち止まった。

 背を向けたまま、短く、しかしはっきりと告げる。


「……お前がどんな理由であれ、歩みを止めることは許さん」


 それだけを残して、扉の向こうへ姿を消した。


 重い扉が静かに閉まる音がしたあと、

 部屋には、蝋燭の揺らめきと王女の呼吸だけが残った。

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