12 赦しの代価
── 第一施療院・廊下 午前 ──
硝子窓から差す光が、白い石床を細く分けていた。
王女は歩きながら、作業台の並ぶ部屋をひとつひとつ覗き込む。
乾いた薬草の山。折れた秤の柄。
鍋の下で火加減を調える若者の、焦げた袖口。
彼女はいつものように紙片に要点を記していく。記すことは、まだできた。
だがその紙を、帝城に持ち帰って報告する瞬間を思うと、胸の奥が冷たく締めつけられた。
── 同・調薬室 午後 ──
診療の合間に、薬壜を棚順に並べていく。
香草の乾き具合、封蝋の色。
些細な異変が目に入る。
(この封蝋、湿気ている。保管棚の向きを変えれば……)
また筆を取る。
だが「提案」の文字を書いた瞬間、息が詰まる。
封蝋の溶けた赤が、帝国の印に見えた。
自分がそれを整えるのは、誰のためか。
その問いが答えを持たぬまま、自分の内をさまよう――。
── 同・前庭 夕刻 ──
大釜の中で、豆と麦を煮る音がくぐもって響く。
煙の香が風に流れ、白い蒸気が列を包む。
王女は木杓子を手に、鍋の底を軽くさらった。
「姫さま、今日もありがとうございます!」
「この炊き出しのおかげで、子どもがよく眠れるようになりましてね」
炊き出しの列から、いくつもの声が飛ぶ。
王女は思わず微笑もうとしたが、喉の奥で声が止まった。
代わりに、浅く頷く。
唇の裏で言葉が溶けていく。
目の前の木椀に、温かな粥を注ぐ。
受け取る手のひらの荒れた皮膚が、一瞬、故国の民のものに重なった。
(私は、ここで何をしているの……?)
「姫さま?」
ユリオの声に、王女は顔を上げた。
「……少し、火が強いかもしれないわ」
声は穏やかだったが、自分のものではないように感じる。
(故国の民は飢えてはいないだろうか……。私はいま、帝国の民を温めている)
鍋の湯気が顔を包み、視界が滲む。
笑い声、食器の触れ合う音。
その温かさの中で、王女の心だけが、冷えた水底に沈んでいく。
誰かが、そっと言った。
「姫さまが来てくださると、ここが明るくなるんです」
その言葉に、王女は微かに笑った。
けれど、その笑みの奥で――
胸の奥のどこかが、ゆっくりと裂けていくのを感じていた。
(慕われていいの? 私は……誰の姫なの?)
風が、夜の気配を連れて吹き抜ける。
王女は木杓子を置き、両手を前で組んだ。
炊き出しの煙が、静かに空へ溶けていった。
ミレイユはその背を、少し離れた位置から見ていた。ユリオが彼女にそっと囁く。
「……殿下、今日は……少しお疲れですか?」
ミレイユは答えなかった。
ただ、火の揺らめきの中に立つ王女の横顔を見つめていた。
── 翌日 帝城・政務補室 ──
天井近くの小窓から、淡い光が机の上に落ちている。
セヴランの机の上、積み上げられた文書の間に、王女の報告書が一通。
紙面は整い、筆致も乱れはない。
「……以上が、第一施療院の現況です」
簡潔に報告を終えて、王女は静かに言った。
セヴランは書類を一枚ずつ繰りながら、短く頷く。
その手が最後の頁で止まった。
そこに、いつもあるはずのものがなかった。
「確かに受け取りました、殿下」
彼は声を落とし、しばし沈黙を置く。
「……今回は、いつものような添え書きは――ないのですか?」
王女の肩が、微かに動いた。
そのわずかな揺れを見逃さず、セヴランは視線を上げる。
「ええ……特に、気づいたことはありませんでした」
言葉は穏やかだったが、どこか擦れた音が混じる。
「……報告としては、以上です」
かすかな声で、王女は言葉を閉じた。
セヴランはそれ以上追わなかった。
彼女が去ったあと、机上に残された報告書をもう一度開き、静かに溜息をついた。
── 数日後 執務室 ──
石壁に囲まれた静謐な空間に、書簡の紙音が淡く響いた。
昼下がりの光が南窓から差し込み、机上の墨壺を鈍く照らしている。
セヴランは報告書の束を机上に置き、静かに切り出した。
「……姫君のご様子が、少し気がかりです」
ダリオスは視線を外さずに言う。
「仕事の上で何か問題が?」
「いいえ、命じられたことは滞りなく処理されています。
ただ、ある日を境に――急に、意欲のようなものが失われたように見えます」
ダリオスがペンを止め、顔を上げる。
「詳細を」
「政務補室でも、かつてのように質問や提案はなく、言われたことだけを淡々と。目の前の仕事には集中しているようで――どこか、うわの空のような。
施療院の担当者からも報告が来ています。現地視察の際、以前は患者たちと言葉を交わし、よく笑っていたそうですが……ここ最近は会話も控えめで、よそよそしく感じると」
一瞬の沈黙。
ダリオスは報告の紙束に目を落とす。手元の筆が音もなく紙を叩いた。
「疲れだろう。……張り詰めた弦が、緩むときというのはある」
「そうとも考えたのですが――」
セヴランは、わずかに眉をひそめた。
「……どうも、違うように感じます。
まるで、何かを失った人間のような……いえ、はっきりとは申し上げられませんが、そういう印象です」
「いつからだ」
問いは低く、静かに落とされた。
セヴランはすぐに答える。
「……二週間ほど前かと」
その瞬間、ダリオスの瞳がわずかに揺れた。
(……足枷を外した頃、か)
ミレイユの淡々とした報告がよみがえる。
『姫君は、何もおっしゃいませんでした。
ただ、まるで足枷を探すように、寝台の下を見つめておられました』
そのときは、長く続いた習慣が唐突に終わった反動かと思った。
驚き。あるいは気が抜けたのだろうと。
セヴランの報告と足枷の件は、おそらく無関係ではない。
だが、なぜそれが“彼女の意欲が失われる”ことにつながるのか――理解できない。
セヴランは一拍の沈黙ののち、問いを落とした。
「……陛下、何か思い当たることが?」
ダリオスは短く目を伏せ、机上の書簡を指先で軽く叩いた。
「その頃に――足枷を外した」
セヴランの眉がわずかに動く。
「……まだ、付けていたんですか」
その灰の瞳に、ごくわずかな非難の色が滲む。
足枷の罰は、王女に秩序を教えるための、そして諸侯への示しのための一時的な演出――そう、セヴランは理解していた。
ゆえに、象徴として人前に立つようになった頃には、すでに外されているものと思っていた。
まさか、一年半ものあいだ続いていようとは。
自分に施療院の報告をしていたその夜も、彼女が足枷を付けたまま眠っていたとは、思いもしなかった。
ダリオスはその視線を受け止め、指先で机を軽く叩いた。
「象徴として人前に立つことに慣れた頃に外そうと考えていたが、旧王国の残党の件があった。あの時期は不用意に“自由”を与えるわけにもいかなかった」
語尾のわずかな揺らぎに、長すぎた罰への弁明の気配がかすかに滲んでいた。
「今回、施療院の仕事に前向きに取り組んでいるようだし、夜会でも、よく立ち回っていた。外すには、ちょうどいい頃合いだと思ったのだ」
セヴランは、短く息を吐き、頷きかけて――その途中で動きを止める。
「……ですが、足枷を外したことで意欲が失われる、というのは……理屈に合いませんね」
「そうだな」
ダリオスもまた、静かに視線を落とす。
「束縛を解かれて意欲を失うなど、普通はあり得ない」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
セヴランは腕を組み、首を傾げる。
「罰が解かれたことで、逆に“何か”を失ったと感じているのかもしれませんが……
その“何か”が何なのか、見当がつきません」
ダリオスは深く息を吐いた。
「……後で、王女の様子を確認しに行く」
その声音には、支配者の威を帯びながらも、
どこか、測りきれない迷いの色が滲んでいた。




