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11 赦しなき自由

 ── 王女の居室 ──


 夜会から幾日かが過ぎた。

 王女は机に向かって筆を走らせながら、ふと息をついた。

 宴の余韻はとうに消えたはずなのに、胸のどこかで夜会の光景がまだ静かに燻っていた。


 耳に残るのは、穏やかな声の調子、ひそやかな笑い、曖昧な沈黙──

 それらが重なって、今も胸の奥でゆらめいている。


 そして、その中でひときわ強く残る影。

 オルディス・フェルナード。


 同じ国に生まれ、同じ空を知りながら、彼は帝国に生きる道を選んだ。

 裏切りと呼ばれながらも、己の選んだ道を、今もなお歩いている。


(彼にとっての“務め”と、私の“務め”は、違うのだろうか)


 王女はその問いを抱えたまま、机に向かう。

 燭台の火が、机の端で細く揺れていた。

 羊皮紙の匂いに混じって、乾いたインクの香りが漂う。


 施療院の規程を一枚ずつ読み込み、

 薬の支給量、奉仕の期間、従事者の休息日──

 どの項にも赤い墨で小さく印をつけ、思いついたことを余白に記していく。


 目は疲れているのに、心だけは冴えていた。

 誰かの役に立てる。考えたことが形になる──

 その感覚が胸の奥を温めて、眠気を寄せつけない。


 筆を置き、ふと窓の外を見る。

 夏の夜風が柔らかく部屋に入り込み、灯が小さく瞬いた。

 帝都の灯は遠くまで散っていて、かつての故国の都よりも数え切れぬほど多い。


 その明るさの中に、自分の仕事がほんのひとしずく混じっている──

 そう思うと、胸の奥にかすかな温もりが灯った。

 けれど同時に、どこか胸の底にざらつくものが残る。


 帝都の灯。故国を滅ぼした者たちの灯。


(……私のしていることは、帝国の利に与することなのだ)


 施療院で見た笑顔。

 炊き出しの場を駆け回る子どもたちの、あどけない笑い声。


 国でも、敵でもない。ただ“人”がそこにいる。

 何かできることがあるならば、手を伸ばしたい──

 その単純な衝動が、自分を動かしている。


 けれど、机上に並ぶ文書の束と、それに押された印章を見るたびに、胸の奥に冷たい影が沈む。


 この制度は帝国のものだ。

 自分の提案が、その仕組みのどこかに息づいていく。

 この手が伸ばしている先にあるのは、人であると同時に──帝国そのもの。


(こうしていくほどに、私は少しずつ、帝国の一部になっていく)


 その思いが、指先を冷やした。

 喜びと罪悪感が絡み合って、どちらがどちらかわからなくなる。


 彼女にとって“国”とは、もう顔を持たない亡霊だった。

 地図の線も、旗の色も、胸を震わせるほどの現実ではない。

 だが、“王女”という名が、血より深く骨に刻まれている。

 滅びた国の最後の血統として、「背負うべきもの」が骨の奥に刻まれているのを感じる。


 だからこそ、こうして与えられた仕事に向き合うたびに、

 どこかで誰かを裏切っているような痛みが走る。


 今頃、罪人として労役を強いられているだろうルデクら故国の者たちの顔が浮かぶ。

 そしてもう一人、帝国に生きる道を選んだオルディスの姿も。


 胸の奥に浮かぶその顔たちは、自分を責めてはいない。

 けれど、沈黙のままに問いかけてくる。


 ──お前は、どちらの側に立っているのか。


 その問いに、言葉は返せなかった。

 自分でもわからないのだ。


 机の上で蝋燭が、かすかに音を立てて揺らめいた。

 その明滅に、ふと別の声がよみがえる。


 ──『俺はお前を生かすと決めている』


 王女は、もう気づいていた。

 彼の視線の中に、支配でも憐憫でもない、奇妙な“承認”の色があることを。

 生かすために支配し、支配の中で生を与える──そんな矛盾を、あの人は当然のように抱いている。


 だからこそ、私は生かされている。

 あの人が与えた仕事に打ち込むことで、私は“生きている”。


 けれど──


(……こんなふうに“生きる”ことは、許されることなのだろうか)


 胸の内に、波紋のような痛みが広がる。

 帝国に滅ぼされた国の王女が、その帝国の秩序を支える。

 彼に与えられた役目の中で、息をし、笑い、誇りを見つけてしまう。


 それはきっと、誰よりも深い裏切りだ。

 亡国の名を背負う者として、あってはならない生き方。


 王女は、両手を膝の上で組み、長く息を吐いた。

 静けさの中で、蝋の滴る音だけがかすかに響く。




 扉の向こうから、軽い金属の触れ合う音がした。

 王女が顔を上げると、ミレイユが銀盆を抱えて入ってくる。

 その上には、磨き上げられた鉄の環──夜ごとの儀式のように、光を沈めていた。


「お休みの時間です」


 短く告げる声は、いつも通りの静けさ。

 王女は頷き、椅子を引いて立ち上がる。


 ミレイユは寝台横の柱に取り付けられた鉄環に手を伸ばすと、そこから伸びる細い鎖を、盆に載せて持ってきた枷の留め具へ、慣れた手つきで静かに掛けた。

 わずかな金属音が、室内の空気を震わせる。


 王女が寝台の端に腰を下ろすと、ミレイユは無言で膝を折り、鎖と繋がったその枷を王女の足に取り付けた。鉄の輪が、足首を包む。

 ひんやりとした重みが皮膚に触れ、わずかな胸の痛みとともに馴染んでいく。


 逃亡の罰として与えられたこの足枷は、“象徴”として立たされてからも、施療院の務めを担うようになってからも、決して外されることはなかった。


 それは屈辱だった。

 初めの頃は、夜が来るたびに心を削られるような思いをした。

 だが今は──その痛みが、別の意味を帯びている。


 王女は静かに視線を落とす。

 銀盆を手にしたミレイユが立ち上がり、深く一礼して部屋を辞す。

 扉が閉まると、石壁に囲まれた空気が再び沈黙を取り戻した。


 足首の鉄を、指先でそっとなぞる。

 冷たさが指に移り、その感触が胸の奥に静かに広がる。


(……この足枷がある限り、私はまだ帝国の一部ではない)


 それは、誰にも言えぬ小さな言い訳。

 罪人として労役に服している故国の者たちと、同じ鎖に繋がれているという、かすかな連帯の証。


 この鎖があるかぎり、自分は“赦されていない”。

 だからこそ、生きて働くことが──まだ裏切りではないと信じられる。


 王女は、鉄の環から指を離し、目を閉じた。

 指先に残る冷たい感触が、静かな安堵のように肌を撫でていった。





 ── 数日後 王女の居室 ──


 政務補室での一日の仕事を終えて戻り、王女は静かに扉を閉めた。

 外の光はすでに傾き、薄紅の残照が石壁を淡く染めている。

 部屋の空気は朝と変わらぬはず、なのに──

 なぜか、どこかが違う。


 机の上の書類も、整えられた寝具も、いつものとおりだ。

 けれど、胸の奥がそっとざわめいた。


 一歩、二歩と寝台に近づいたとき。

 視線の端に、ぽっかりとした“空白”が見えた。


(……ない?)


 そこにあるべきもの──

 寝台の横の柱に留められた鉄の環が、跡形もなく取り外されていた。


 王女はその場に立ち尽くす。

 指先がわずかに震え、思わず足もとを確かめる。

 あの夜ごとの冷たい重みが、いまはどこにもない。


 言葉が喉の奥で凍りつく。

 何かを奪われたような、あるいは置き去りにされたような感覚。

 理解が追いつかないまま、背後で衣擦れの音がした。


「──陛下のご命令です」


 振り向くと、ミレイユが立っていた。


「夜の足枷の罰は、もう必要ないとのこと。本日より、着用を免除するようにとのお達しです」


 淡々とした声。

 まるで天気の報せのように、何の情感もない。


 王女は息を呑んだまま、ただその言葉を聞いていた。

 胸の奥で何かがきしむ。


 ──罰が、終わった。


 なのに、安堵はどこにもなかった。

 足もとが軽くなるほどに、胸の中は重く沈んでいく。


 鉄の輪の残っていた場所に、見えない何かがまだそこにあるような気がして、王女は目を逸らせなかった。

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