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10 生かされた者たち

── 夜会 大広間 ──


音楽が一段落し、杯を掲げる貴族たちのざわめきがゆるやかに散じていく。

その隙を縫うように、ひとりの男が赤絨毯の中央をゆっくりと進んだ。


背は高く、肩幅の広い壮年の貴族。

淡金の刺繍を施した外套の裾が、歩くたびにわずかに鳴る。


(……辺境伯公)

王女の脇で、ダリオスの黒瞳が静かに細まった。


彼は帝国成立以前からの大諸侯――広大な領地を治め、古い秩序の残り香を最も濃く纏う男である。


すこし離れた柱の陰、その様子を見守っていたセヴランの視線が、短くダリオスの方へ送られた。

ダリオスは盃を持つ指先をわずかに動かし、応えるように一度だけ軽く頷いた。


「陛下、そして王女殿下。お二人が並び立たれるお姿、まことに壮観にございます」

声は深く、礼を尽くした響きだった。

けれど、その低音の底に、冷たい石のような重みが潜んでいる。


ダリオスはわずかに頷き、定められた笑みを浮かべる。

「久しいな、辺境伯。帝都の空気は、お前には少し息苦しかろう」


「いえ、陛下。秩序の息吹が行き渡る都の空気、胸に沁みます」

辺境伯は恭しく頭を垂れた――が、その言葉の抑揚は、誉め言葉とも、皮肉とも取れる絶妙な曖昧さだった。


ダリオスの唇がわずかに歪む。

「そうか。ならば存分に吸っていくがいい。……帝都の空気は、濁りにくい」


短い間。

二人の視線が交わる。

その一瞬、空気が一度だけきしむように沈んだ。


王女はその間に立ちながら、胸の奥で息を整える。

辺境伯の眼差しがふと自分に向けられる――

その中には敵意も侮りもなく、ただ探るような静けさが宿っていた。


「殿下の御振る舞い、遠くの地にまで届いております。……帝国の光の広がり、まことに見事にございました」


王女は微笑を崩さず、わずかに頭を下げた。

「陛下の御導きのもと、務めを果たしたまでです。それが民の安らぎに繋がったのなら、嬉しく思います」


辺境伯は一拍置いて頷く。

「ええ……“安らぎ”こそが、国を支える要。陛下の秩序に、それが加われば、帝国は盤石にございましょう」


言葉は穏やかで、微笑も崩れない。

だがその奥に、何か別の思いが、かすかに覗く。


ダリオスは沈黙のまま盃を回し、琥珀の液面に映るその顔を見下ろしていた。

「……ならば、これからも見届けるがいい。帝国がどう呼吸するかを」


辺境伯は深く一礼し、音もなく下がった。




 * * *




人々の笑声が再び広がるころ、細身の男が一歩、絨毯の上へ進み出た。


銀の糸で織られた淡灰の衣。

声を張り上げるでもなく、ただ静かな足取りで、二人の前に立つ。

「陛下、王女殿下。今宵はまことにおめでたい節目にございます」


帝国成立と共に解体した元老院の筆頭。

帝国の成立以前から行政を司り、理と制度をもって国を支えてきた文官派の象徴。

その眼差しは穏やかに見えて、いつも数字と秩序の奥を測っている。


「陛下の御治めになる帝国が、かくも短き歳月でここまで繁栄いたしましたこと、この身をもってお祝い申し上げます。

 ――そして殿下のご活躍、まことに世に光を添えました」


王女は一歩進み出て、静かに頭を垂れる。

「過分なお言葉です。陛下の御心をお伝えする務めを果たしたまでにございます」


筆頭は微笑を浮かべた。

その笑みは柔らかいが、どこか測りかねる静けさを伴っている。


「象徴が民に寄り添うこと――それは美しく、心強いことです。

 ただ……民の心は、時に情によって速く流れるもの。陛下の御統べる秩序に、その波が及ばぬよう、我らも一層励まねばなりませんな」


ほんの一瞬、沈黙。

会話の形をした針のような言葉が、空気の表面を掠めた。


筆頭は姿勢を正し、わずかに視線を下げて言葉を継いだ。

「もっとも……民の声というものは、遠く離れた高殿まで届きにくいもの。帝国が真に盤石たらんとするなら、陛下の理を支える“耳”もまた、必要かもしれませぬ。

 ――かつての元老院のような、意思を汲む仕組みとして」

言葉は穏やかだった。


ダリオスは盃をゆるやかに傾け、琥珀の液面を見つめながら答える。

「心配はいらぬ。流れは秩序のうちにある。

 ――俺がそう定めた」


その声の低さに、筆頭は一瞬だけまぶたを伏せた。

「それは何より。陛下のご確信こそ、この帝国の礎にございますから」


再び礼を取り、静かに退く。


王女は微笑を保ったまま、胸の奥で小さく息を吐く。

彼の言葉の一つ一つが、穏やかでありながら、何か刃のように磨かれているように感じた。


盃を卓に戻しながら、ダリオスの黒瞳がわずかに去っていく男の背を追う。

微笑の影に、冷たい光が沈む。




 * * *




場のざわめきがひととき途切れた。その静けさの中を、香のように漂う声があった。

「陛下、王女殿下……このような麗しき夜にお会いできますこと、神々の御導きとしか思えませんわ」


振り向けば、淡紅の衣を纏った女性が、優雅な所作で一礼していた。


「……神殿と縁の深い侯爵家の者だ」

王女の隣りで、ダリオスがそっと囁く。


女侯爵はゆっくりと顔を上げ、薄褐色の瞳に満ちる光を、まっすぐ王女に向けた。

「殿下の神殿での御奉仕のお姿を、わたくし共は皆、深い感謝をもって見ておりました。あの御手が祈りの灯を掲げられた時――神々が再びこの地に息を吹き込まれたと、信ずる者も少なくございません」


王女は静かに微笑を返す。

「神々の息吹は、誰のもとにも等しく届くもの。わたくしは、ただ務めを果たしただけでございます」


「いいえ、殿下」

女侯爵の瞳がかすかに潤む。

「その御血は古き契りを受け継ぐもの。帝国が忘れた“情”と“赦し”を、再びこの世にもたらすために選ばれたのだと、わたくしは思っております」


一瞬、空気が固まる。

周囲の貴族たちの笑声が遠のき、蝋燭の炎だけが微かに揺れた。


ダリオスはその沈黙を断ち切るように口を開く。

「神々が定めたのは秩序だ。赦しもまた、秩序のもとにあってこそ意味を持つ」


少し離れたところで、セヴランがわずかに眉を寄せ、ダリオスと視線を交わした。

二人の間に、言葉にならぬ苦みが走る。――狂信の匂いは、理の壁をも蝕む。


女侯爵はゆるやかに頭を垂れる。

「ええ、もちろんでございます、陛下。けれど、秩序が導く先にも、なお神の光が在りますように――」

その言葉には逆らう響きはなく、ただ柔らかな熱が潜んでいた。


王女は胸の奥に奇妙な感覚を覚える。

自分を通して何か別の信仰が語られている――そんな錯覚。


女侯爵はもう一度だけ、王女を見つめた。

「どうかお忘れなきように。あなたは、この地の祈りに選ばれたお方です」


その声は祝福のようでいて、どこかにぞくりとする温度を孕んでいた。


女侯爵が去ると、王女は静かに息を吐いた。




 * * *




再び楽の音が奏でられ始め、穏やかな音楽の調べに、空気が和らぐ。


その中を、一人の男がゆるやかに進み出る。

「陛下、王女殿下。お目にかかれて光栄にございます」


澄んだ声だった。

だが、隣りのダリオスが応じてその名を呼んだ瞬間、王女の胸がひとつ大きく波打つ。


(この男が……オルディス・フェルナード)


息が詰まる。

淡い金茶の髪に、灰を溶かしたような瞳。

礼装に過度な装飾はなく、立ち姿も控えめだが、その目元に刻まれた疲労の陰が、歳月の重みを物語っていた。


一年前の夜会にも、おそらく彼はいた。

だがそのとき王女は、彼が同郷の者だとは気づけなかった。

名は帝国風に改められ、髪と瞳もどこか異国の混じりを思わせたからだ。


――『オルディス・フェルナード。地方行政官にして、旧王国――殿下の故国の出身です。本来の名はオレク・フェルナン。かつては王都北方の統治家門に連なる者です』


執務室で、今回の夜会に招かれる貴族たちについて、王女に淡々と説明するセヴランの声がよみがえる。


――『旧王国内で改革を唱え、帝国との橋渡しを試みていた人物です。帝国軍の王都進軍に際して功を挙げ、現在は帝国の貴族に列せられています』


その時のセヴランの声は、いつにもまして感情を排していた。


その声を聞きながら、王女は以前、神殿でルデクがから聞かされた話を思い出していた。


――『我らは帝国の剣にのみ斬られたのではありません。旧き幹はすでに脆く、内より腐っていた。帝国軍が一夜で王城と神殿を制圧できたのは――門を開き、伝令を偽った内通者たちの裏切りがあったからです』


一年前の夜会で、自分はこの男とどんな言葉を交わしただろう。

この男は、あの夜、どんな眼差しで自分を見ていたのだろう。

そして今宵、何を思いながら、この男の挨拶を受けるべきなのだろう――。


セヴランから彼の名を聞かされた時、王女の胸を巡ったのはそんな思いだった。


その男が、今、目前に立っている。

王女の指が杯の縁をかすかに震わせた。胸の奥に冷たい波が広がる。


「陛下の御治世の下、民は日々安らぎを得ております。

 私も、地方の行政官として微力ながら、その一端を担えますことを誇りに存じます」


オルディスの言葉にダリオスは短く頷いた。


「報告は受けている。旧王国領の再整備も順調と聞く」


「は。……まだ道半ばにございますが、失われた地を新しい形で繋ぐのが、今の私の務めかと」

男の言葉は穏やかだった。

だがその奥に、焼け跡のような静かな痛みが透けていた。


王女は黙して微笑を保った。

けれど、その瞳の奥には複雑な光が揺れる。


(あなたの“務め”が……あの夜を招いた)


彼女の沈黙を、男は読み取ったのかもしれない。

ふと、灰を含んだ瞳がこちらを見た。

ほんの刹那、そこに浮かんだのは――後悔か、それとも安堵か。


「殿下のお働き、私も聞き及んでおります。市場でのご決断、あれは……」


言葉が途切れる。

彼は何かを言いかけ、しかし、自ら飲み込むように口を閉ざした。


代わりに、深く礼を取る。

「陛下、殿下。帝国の繁栄を、心よりお祈り申し上げます」


その背が去っていくのを見送りながら、王女は胸の奥に痛みと名のつかぬ空白を抱えた。


ダリオスは何も言わず、ただ杯を指で回す。

視線の先で、オルディスの影が燭光の海に溶けていった。


(……あの人もまた、“生かされた者”なのね)


王女の胸に、冷たい理解が落ちる。

誰もが、何かを捨ててここに立っている――

その静かな実感だけが、夜会の最後に残された。




── 夜更け 皇帝の私室 ──


深い金茶の絨毯に、蝋燭の光が揺れていた。


窓辺の影に凭れ、ダリオスは静かに杯を傾けていた。

空はすでに夜半を越え、帝都の灯もひとつ、またひとつと途絶えていく。


「……現れなかったな」


「はい。気配も兆しも、何一つ」

卓の前に腰をかけ、杯を傾けていたセヴランが応える。


「王女殿下を狙う“影”――もし帝国の貴族がかくまっているとすれば、夜会に紛れ込ませることも不可能ではなかったはずですが」


「いずれにせよ、気配はなかった。狙い澄ました沈黙ほど、気味の悪いものはないな」

ダリオスの言葉は、わずかに唇の端に苦味をにじませる。


「逆に用心したか。あるいは、まだ“試している”段階か……」

セヴランが思案するように言う。


「……どいつもこいつも、尻尾を出さぬ」

ダリオスは低く呟いた。

「辺境伯、元老院、神殿派……火を抱えたまま微笑を浮かべている」


蝋燭の灯が揺れ、壁に長い影を落とす。

ダリオスは窓辺から離れ、椅子の背に身を預け、淡く息を吐いた。

「王女が思った以上に立ち始めている。連中も、その変化を見て、手を出す時を計っているのかもしれん」


セヴランは静かに頷く。

「安易に手を出せば、どう転ぶか読めませんからね」


杯を卓に置く音が、静寂に落ちた。

「……いずれにせよ、警戒は続けろ。連中の静けさは、眠っている証ではない。狩人が息を潜める音だ」


「心得ております」

セヴランの声もまた、夜の色に溶けていった。


窓の外では、夏の夜風がかすかに帷を揺らしていた。

その動きすらも、何かの前触れのように思えた。

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