9 再びの夜会
── 帝国建立二周年記念式典・夜会 大広間 ──
高天井のもと、数百の燭光が滲み合い、金と白の装飾に沈むように夜が始まった。
赤絨毯の上を進む二つの影――皇帝ダリオスと、その腕に導かれる王女。
音楽がわずかに遅れて、彼らの歩調を追う。
音楽と笑声の底で、低い囁きが波のように交わされた。
「……あれが“あの”王女殿下か」
男の声には、讃嘆よりも測りかねる気配が混じっていた。
「民衆から、“皇帝を動かした王女”とまで呼ばれているとか」
隣りの老貴族が眉をひそめる。
「去年のこの場での発言の通りに動いたわけだ」
「“故国の民のために尽くす”――と」
言葉の端に、微かな皮肉が滲む。
金の杯を傾けながら、もう一人が静かに続けた。
「その“尽くす”の結果が、市場の件、というわけですな」
杯が卓に戻る音が小さく響く。
「……それにしても、陛下からお咎めがないとは」
先に口を開いた男が、杯の縁を指でなぞりながら低く言う。
「罰どころか――褒めてすらおられるとか」
「……まぁ、陛下は破天荒な振る舞いを好まれるところがあるからな」
皮肉とも賞賛ともつかぬ声音が、低く交わる。
「“象徴の慈悲”として利用しておられるだけでは?」
もう一人が、声を潜めて応じた。
「だが、それにしては危うい。民の心をまとめるのは陛下であらねばならぬのに…」
「しかも最近では、施療院の仕事まで任せておられるそうだ」
「宗務院の管轄であるはずの場所に、亡国の王族を入れるとはな。陛下が意図しておられるにせよ、臣下たちの心は穏やかではあるまい」
「“象徴”に人の痛みに触れさせる――理屈としては美しい。だが、民の涙を拾う役を覚えれば、次に拾うのは政治への口出しだ」
「……まったく。女にして、征服された側の血を引く者。どれほど慎ましく見えても、あれは――火種だ」
沈黙。
杯の中の赤が揺れ、灯の反射がゆらりと壁を舐める。
誰も続けぬまま、ただ音楽だけが遠くで鳴り続けていた。
その旋律の向こう、別の卓でも小さな囁きが交わされている。
笑い声とともに銀器の触れ合う音が微かに重なった。
「民の人気を得ているというのなら、逆に使いようもあるのでは?」
ひとりの若い貴族が、杯をくるくると回しながら言った。
その声は軽く、しかし目の奥には計算の光があった。
隣の老貴族が眉をわずかに上げる。
杯の縁を指でなぞりながら、興味と警戒が入り混じった視線を若者に送った。
「民衆の前に立って微笑むだけで、人心が和らぐ。陛下の策とは別に、我らの側で“殿下の善意”を支える形にすれば、民の受けも良く、商人たちからの信も得られる」
「ふむ……王女殿下を“顔”に据えるわけか」
別の貴族が扇子で口元を隠しながら言う。その扇の陰では、目が細く笑っていた。
「そう。“殿下が推しておられる”と一言添えれば、通らぬ案件も通るだろう」
卓上の燭台がわずかに揺れ、金の装飾が光を返す。
淡い灯が杯の赤を透かし、互いの顔に血のような色を落とした。
「まるで、光を反射させて己を照らすようなものだな」
「帝国の夜は長い。光は多いほどよい、ということです」
笑い合う声が、絹の幕に吸い込まれていった。
遠くでは、音楽が次の曲へと移り、大広間のざわめきが、なお王女の名を運んでいた。
* * *
ダリオスの隣りに侍り、王女は静かに杯を傾けていた。
去年と同じに帝国の礼装に身を包みながら、胸元のブローチが異国の光を放つ。
その微笑みは、誰に向けたものともつかぬまま、波のように列席者をなぞっていく。貴族たちの視線が、遠巻きに集まり、離れ、また集う。
そこへ、ひとりの壮年の貴族が進み出た。
「――殿下」
穏やかな笑みを浮かべながらも、その目だけは、冷ややかに計っている。
「こうして陛下の御側におられるお姿、まことに頼もしい限り。陛下にお仕えする身としても、心より安堵いたします」
王女は微笑のまま、ゆっくりと頭を下げた。
「ご丁寧に、ありがとうございます」
男は一歩近づき、声を少しだけ低める。
「……帝国の客人として迎えられた方が、帝国の民のために尽くされる――そのお気持ちは、誠に尊い。どうか、これからもその“尽くし”が、陛下の御心とともにありますように」
一瞬、周囲の空気がわずかに張りつめる。
それは挨拶の形をした牽制――帝国への忠誠を、言葉巧みに確かめる問いでもあった。
王女はすぐには答えなかった。
胸元のブローチに一度だけ視線を落とし、その指先で、杯の縁をなぞるようにして息を整える。
「陛下の御心をお伝えするお役を賜りながら、その務めが民の安らぎにつながるならば、これ以上の幸いはございません」
声は静かで、柔らかい。
王女は一瞬だけ男を見た。その瞳には怯えも媚びもなく、ただ“見ている”という静けさだけが宿っていた。
すぐに視線を落とし、再び微笑を戻す。
それは臣の礼ではなく、象徴としての礼。線を引くように、凛とした距離を保ったまま。
男は、一瞬言葉を失った。
その表情に、驚きと、わずかな感嘆が混じる。
「……ほう」
周囲にいた数人の貴族も、互いに目を交わす。
軽く笑みを作り直しながらも、視線には明らかな変化があった。
軽んじていた存在が、意図せず“立っていた”――
その気づきが、音もなく彼らの間に広がっていった。
王女の横顔を見つめながら、ダリオスは傍らでゆるやかに杯を回す。
── ひと月前 政務補室 ──
「……これで報告はすべてです」
「確かに拝見しました」
セヴランは短く頷き、筆先を軽く拭って署名を加える。
王女は、その静けさの中で言葉を落とした。
「……あの、セヴラン殿」
「はい」
一拍の間。
彼女は視線を机に落としたまま、低く息を整えた。
「もし、許されるなら……次の夜会の前に、帝国の貴族たちのことを学びたいのです」
セヴランのまなざしがわずかに動いた。咎めではなく、問いの光。
王女はその視線を避けず、続けた。
「全州会議の場で、思い知らされたのです」
王女の声は低く、けれど揺らがなかった。
セヴランは無言のまま、指先で机の端を軽く叩き、続きを促す。
「私の言葉や振る舞いが、私の知らぬ場所で動いているのだと。
私は自分の言葉が何を動かすのか、どんな思惑に触れるのか、知らないままでした。……だから、知っておきたいのです。この帝国で、私がどう見られているのか。私の行いが、どこに繋がっているのかを。
その上で、自分の選ぶ言葉や行いを、少しでも自分で選べるように──」
言葉を切ると、短い沈黙が落ちた。
窓の外の風が薄く室内に入り込み、遠くで紙の擦れる音がした。
「選ぶ?」
セヴランの声は淡々としていたが、どこか探るようでもあった。
王女はゆっくりと頷き、視線を落とした。
「はい。……たとえ、自由には選べなくても」
それは諦めではなく、まだ名のつかぬ意志のようなものだった。
「……理解しました。」
低く、落ち着いた声だった。その一言のあと、わずかな沈黙が流れる。
セヴランは目を伏せ、何かを思案するように指先で書簡の端をなぞった。やがて、顔を上げて静かに言葉を継ぐ。
「あなたが知ろうとするのは、危ういことでもあります。しかし、知らぬまま立たされるよりは良い。ただ、今ここで語るには時が足りません。それに、扱う話は軽くはありません──あらためて時間を設けましょう」
王女は顔を上げた。
セヴランの眼差しは冷たくも誠実で、断りではなく承諾の色を帯びていた。
胸の奥で、張りつめていた糸がわずかに緩む。
唇が自然に綻び、静かな喜色がその頬を染めた。
「……ありがとうございます」
声は小さく、それでも確かな光を含んでいた。
* * *
(彼は、帝権派……)
今、目の前に立つ男を見ながら、王女はセヴランの教えを思い出していた。
――『帝権派の貴族に対しては、陛下の威光を映す鏡として振舞うのが是です。陛下の名を添えて、陛下の慈悲が行き届いていることを印象づけなさい。感情のにじむ発言は禁物です。彼らはそれを“陛下への不満”と受け取ります』
自分に話しかけてきた男を見ながら、王女はセヴランに教えられたことを思い出す。
(だから――)
「陛下の御心をお伝えするお役を賜りながら、その務めが民の安らぎにつながるならば、これ以上の幸いはございません」
それだけを返し、軽い微笑で流す。
男が去ると、また別の貴族が近寄ってきた。
「殿下、まことにお美しいお姿で。帝都の民も、きっと心強く思っておりましょう」
恭しく一礼したのは、腹回りに金糸の飾帯を締めた中年の貴族。
王女は微笑を崩さず、軽く頷く。
「ありがたいお言葉です。民の安らぎに繋がるなら、何よりの幸いですわ」
男はその返礼にかぶせるように言葉を継いだ。
「実は――その“安らぎ”を広く届けるために、殿下のお力添えをいただければと。
北区の復興で寄進を募っておりましてな。殿下のお名を添えられれば、民も進んで手を差し出しましょう」
(この者は、商業派……)
再び、セヴランの教えが脳裏に甦る。
――『利を求める者ほど、慈善と信仰を盾に近づきます。社交的に、しかし決して同意を示すような言葉を口にしないことが肝要です。陛下の許可が必要な旨を添えて、約束を避けてください』
王女は杯の縁を指でなぞり、微笑の形を保ったまま言葉を落とす。
「ありがたいお誘いですが、そのような大切なことは、すべて陛下の御裁可を仰がねばなりません。私の名は、陛下の御心とともにあってこそ意味を持ちますゆえ」
男の笑みがわずかに揺れた。
「……なるほど。お慎み深いことで」
王女はそのまま穏やかに微笑んだ。
「学びの途上ゆえ、慎み以外を知りません」
男は杯を持ち上げ、乾いた笑いをひとつ残す。
「では、いずれ正式にご相談を。――殿下のご賢察に期待しております」
背を向けるその肩に、王女はわずかに目を伏せた。
(……知る、というのは、こういうことなのね)
一年前の夜会では、好奇と嘲笑と哀れみの視線に晒されるたび、ただ屈辱しか感じられなかった。自分を値踏みする目の群れの中で、立っていることさえ痛みだった。
けれど今は違う。
貴族たちの視線の奥に、どんな利害や思惑が潜んでいるのかを知っていれば――
その波を読むことができれば――
もはや、そこに屈辱はない。
セヴランの教えを、静かに胸に浮かべる。
彼は貴族たちの派閥や立場、彼らが何を恐れ、何を欲しているのかを丁寧に教えてくれた。
その上で、どう応じるのが最も穏当かを示してくれた。
――故国では違っていた。
社交界に出たばかりの頃、周りの者たちが「誰と懇意にすべきか」「誰を避けるべきか」を教えてくれた。
けれど、なぜそうすべきなのか――その理由を語る者はひとりもいなかった。
“知る”ことは王女には不要、と見做されていたのだ。
(セヴラン殿は、私を“飾り”ではなく、“考える者”として扱ってくれた……)
遠くでは音楽が変わり、燭光が波のように揺れていた。
王女はその光の中で、ひとり小さく息を整える。
* * *
少し離れた場所で、セヴランは杯を手に王女の方を見やっていた。
周囲では貴族たちの談笑と音楽が絡み合い、燭光が金糸の装飾に反射して波のように揺れている。
(……今年は、王女殿下の振る舞いで場が揺れることはなさそうだ)
胸の奥でほっと息をつく。
視線を杯に落としながら、セヴランはふと、執務室での王女とのやり取りを思い出す。
――帝国貴族の構成や派閥、彼らの利害関係を説明し終えたときだった。
「彼らについて、私がどのように振る舞うべきか、教えてください」
王女がそう言った瞬間、セヴランはわずかに眉を動かした。
なぜなら、帝国の理に従うことを屈辱と感じていた娘が、自ら助言を求めてきたのだから。
王女は彼の反応に気づいたようだったが、怯むことなく姿勢を正し、言葉を探すように一拍置いて、静かに続けた。
「勝手な振る舞いは禁じられていますし……それに、いずれにしろ今の私には、どのように振る舞うのが然るべきなのか、判断できません」
だからまずは教えてもらい、その通りにやってみようと思う――
そう告げた彼女の声音は、恐れではなく、静かな決意に満ちていた。
その姿を見たとき、セヴランは不思議な好感を覚えた。
生き残るための学びに、ひたむきさと誇りを両立させている。
このまま素直に、帝国の理を学び、帝国のために動いてくれるなら――
それは悪くない、と淡く思った。
だが、次の瞬間に脳裏をかすめたのは、ダリオスの言葉だった。
『あの娘は、“自分の意志で生きる”と言ったのだ』
そして思い出す。
市場で、首に刃を押し当てながら人々を前に立っていた、あの王女の眼。
(……あの眼を持つ者が、都合よく従い続けてくれるはずがない)
杯を傾け、息をひとつ吐く。
王女の方を再び見やると、彼女は人々の輪の中で、柔らかく、しかし確かな光を放っていた。
セヴランの胸に、言葉にならない複雑な思いが広がる。
帝国の忠臣としての理と、人としての感情のあわいで、ただ静かに――その成り行きを見守るしかなかった。




