7 芽吹きと影
── 二週間後 第一施療院 ──
初夏の光が、薄く曇った硝子窓を透けて床に落ちていた。
灰白の石壁を撫でる風はまだ冷たい。
薬湯を煎じる匂い、包帯を巻く布の擦れる音――人の気配はあるのに、不思議と静まり返っている。
誰もが淡々と手を動かし、声を交わすことなく作業を続けていた。
咳の音ひとつが、広い室内にやけに大きく響く。
王女が中庭に面した廊下を進んでいると、奥からユリオが気づいて駆け寄ってきた。
小走りのまま、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、王女殿下!」
あまりに突然の礼に、王女は立ち止まった。
「……なにか、ありましたか?」
ユリオは頬を紅潮させ、目を輝かせながら言った。
「あの、王女殿下がご覧になっていた先日の“労役の振り替え”の件です。
あれが――正式に、規程に盛り込まれました。“王女殿下の進言により”という文言付きで、上から通達が出たんです」
「……進言、ですって?」
胸の奥がわずかに揺れる。
自分が“進言”などした覚えはない。
ただ、夕食の席で――。
* * *
「……さっき話していた“綻び”とは、具体的にどういうものだ?」
夕食の席で、あの後ダリオスに問われ、王女は昼間に見た施療院でのユリオの独断――家族の事情を考慮して労役地を振り替えた判断を話した。
彼はしばらく黙って聞いていたが、やがて杯を傾けながら、静かに言った。
「規則を外れても、人を“生かす”か。……なるほど」
その声には、嘲りも賞賛もなかった。
ただ事実をひとつ拾い上げ、心のどこかに置いた――そんな響きだった。
その一言だけを残して、視線をワインの液に沈めていた。
* * *
王女は、ゆっくりと息をついた。
「……私は、ただ見たことを陛下にお伝えしただけです。お礼を言われるようなことではありません」
「いえ、殿下のお言葉があったからこそ、対応が早まりました。
それがなければ、現場の声が上に届くまでに、もっと時間がかかったはずです」
ユリオはまっすぐに王女を見つめ、頭を下げた。
「私はあの日、現場の判断として正しいと思ったけれど、書類上は越権です。
報告するには根拠を整える必要がありました。けれど、日々の業務に追われて後回しになっていて……。
だから、殿下がその日のうちに話してくださったことが、何よりの助けになったんです。おかげで調査が入り、実際の状況を見てもらえた。――こんなにすぐに変わるなんて、思いもしませんでした」
彼の声は誇らしげで、どこか安堵に満ちていた。
昼の陽光が、彼の肩の白衣に淡く反射している。
王女はその光景を見つめながら、小さく息を吸った。
胸の奥が、じんと温かい。
自分の言葉が、誰かの手を経て、世界を少し動かした――
その実感が、静かに芽吹いていく。
「……そう。……よかったわ」
かすかに微笑んだ唇から、柔らかな声が零れた。
ユリオは深く頭を下げ、「これからも恥じぬよう務めます」と言い残して去っていった。
廊下に残ったのは、消えゆく足音と薬草の匂い。
王女はしばらくその場に立ち尽くした。
光の帯が足元に伸び、硝子窓の外では、まだ柔らかな風が木の葉を揺らしている。
(伝えることが、誰かの力になる――)
その思いは、恐れと共に、確かな温もりを帯びて胸に残った。
言葉は刃にもなる。けれど、ときに――光にもなるのだ、と。
王女が踵を返そうとしたときだった。
中庭の長椅子に腰かけていた患者たちが、いまの会話をどうやら聞いていたらしい。ひとりが、半ば身を起こしながら声をあげる。
「おい、聞いたか? さすが王女様だ! あの黒獅子皇帝を動かしたんだと!」
その言葉に、周囲の者たちがどっとざわめいた。
包帯を巻いた腕で膝を叩く者、杖を鳴らす者、「ほんとかよ」「そりゃすげえ」と声が重なり、場の空気が一瞬にして明るく沸き立つ。
「ち、違います。陛下は……本当に恐ろしいお方です。そのようなこと、決して――」
青ざめて手を振る王女の姿に、笑いがいっそう広がった。
「ちげーねえや!」
「だから王女様も、首に刃を当てるくらいのことをしなきゃいけなかったんだ!」
どっと笑い声が弾ける。
干した包帯が風に揺れ、薬草の匂いの中にざらついた笑いの温もりが混ざる。
王女はどう返してよいかわからず、ただ頬を染めて立ち尽くす。
けれど、その笑いが悪意ではなく、どこか親しみを含んだものだと気づいたとき――胸の奥に、静かな熱が灯った。
帝都の民の中で、自分の名がこうして語られ、
誰かの笑いを生むことがあるのだ。
恐れと戸惑いのなかで、
それでも王女は、はじめてその輪のあたたかさを感じていた。
── その時。
ふと、王女の胸をひやりとした感覚が撫でた。
陽光の下にいるはずなのに、背筋をかすめる影のような寒気。
言葉にできぬ違和――何かが、空気の奥でわずかにずれたような。
「……?」
空の色が変わったのかと思い、中庭の向こうを見やる。
だが、何もない。風が通り抜け、葉がざわめくだけだった。
(……気のせい、よね)
胸のざわめきを押し込み、王女は再び視線を患者たちの元へと戻した。
その背後で、ミレイユのまなざしが静かに鋭く光った。無言のまま、瞳だけで周囲を掃く。
庭の端に控える兵の一人と、短く視線を交わす。
兵は軽く顎を動かし、別の影が建物の影に滑り込む。
小さな風の流れを読むように、警戒が広がっていった。
だが誰の手も剣に触れない。
風の向きが変わり、葉がざわめくだけ――何事も起こらない。
ミレイユは静かに息を整え、再び王女の背に戻った。
その表情には、いつもと変わらぬ冷静さだけがあった。
王女はその気配に気づかないまま、患者たちと言葉を交わしていた。
中庭に差す光は柔らかく、空は澄んでいた。




