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7 芽吹きと影

 ── 第一施療院 ──


 前回の視察から、二週間。王女は再び、施療院を訪れていた。


 初夏の光が、薄く曇った硝子窓を透けて床に落ちていた。

 灰白の石壁を撫でる風はまだ冷たい。

 薬湯を煎じる匂い、包帯を巻く布の擦れる音──。人の気配はあるのに、不思議と静まり返っている。


 誰もが淡々と手を動かし、声を交わすことなく作業を続けていた。

 咳の音ひとつが、広い室内にやけに大きく響く。


 王女が中庭に面した廊下を進んでいると、奥からユリオが気づいて駆け寄ってきた。

 小走りのまま、深々と頭を下げる。


「ありがとうございます、王女殿下!」


 あまりに突然の礼に、王女は立ち止まった。


「……何か、ありましたか?」


 ユリオは頬を紅潮させ、目を輝かせながら言った。


「あの、王女殿下がご覧になっていた先日の“労役の振り替え”の件です。

 あれが、正式に規程に盛り込まれました。“王女殿下の進言により”という文言付きで、上から通達が出たんです」


「……進言、ですって?」


 言葉をなぞるように繰り返しながら、王女はわずかに眉を寄せた。

 “進言”などした覚えはない。


 ──ただ。


 はたり、と記憶が遡る。

 あの夕食の席で──。


「……さっき話していた“綻び”とは、具体的にどういうものだ?」


 夕食の席で、あの後ダリオスに問われ、王女は昼間に見た施療院でのユリオの独断──家族の事情を考慮して労役地を振り替えた判断を話した。

 彼はしばらく黙って聞いていたが、やがて杯を傾けながら、静かに言った。


「規則を外れても、人を“生かす”か。……なるほど」


 その声には、嘲りも賞賛もなかった。

 ただ事実をひとつ拾い上げ、心のどこかに置いた──そんな響きだった。

 その一言だけを残して、視線をワインの液に沈めていた。


 記憶から意識を引き戻し、王女はゆっくりと息をついた。


「……私は、ただ見たことを陛下にお伝えしただけです。お礼を言われるようなことではありません」


「いえ、殿下のお言葉があったからこそ、対応が早まりました。それがなければ、現場の声が上に届くまでに、もっと時間がかかったはずです」


 ユリオはまっすぐに王女を見つめ、頭を下げた。


「私はあの日、現場の判断として正しいと思ったけれど、書類上は越権です。報告するには根拠を整える必要がありました。けれど、日々の業務に追われて後回しになっていて……。

 だから、殿下がその日のうちに話してくださったことが、何よりの助けになったんです。

 おかげで調査が入り、実際の状況を見てもらえた。──こんなにすぐに変わるなんて、思いもしませんでした」


 彼の声は誇らしげで、どこか安堵に満ちていた。

 昼の陽光が、彼の肩の白衣に淡く反射している。


 王女はその光景を見つめながら、小さく息を吸った。

 胸の奥が、じんと温かい。

 自分の言葉が、誰かの手を経て、世界を少し動かした──

 その実感が、静かに芽吹いていく。


「そう……、よかったわ」


 かすかに微笑んだ唇から、柔らかな声が零れた。

 ユリオは深く頭を下げ、「これからも恥じぬよう務めます」と言い残して去っていった。


 廊下に残ったのは、消えゆく足音と薬草の匂い。

 王女はしばらくその場に立ち尽くした。

 光の帯が足元に伸び、硝子窓の外では、まだ柔らかな風が木の葉を揺らしている。


(伝えることが、誰かの力になる──)


 その思いは、恐れと共に、確かな温もりを帯びて胸に残った。

 言葉は刃にもなる。けれど、ときに──光にもなるのだ、と。


 王女が踵を返そうとしたときだった。


 中庭の長椅子に腰かけていた患者たちが、いまの会話をどうやら聞いていたらしい。

 ひとりが、半ば身を起こしながら声をあげる。


「おい、聞いたか? さすが王女様だ! あの黒獅子皇帝を動かしたんだと!」


 その言葉に、周囲の者たちがどっとざわめいた。

 包帯を巻いた腕で膝を叩く者、杖を鳴らす者、「ほんとかよ」「そりゃすげえ」と声が重なり、場の空気が一瞬にして明るく沸き立つ。


「ち、違います。陛下は……本当に恐ろしいお方です。そのようなこと、決して──」


 慌てて手を振る王女の姿に、笑いがいっそう広がった。


「ちげーねえや!」

「だから王女様も、首に刃を当てるくらいのことをしなきゃいけなかったんだ!」


 どっと笑い声が弾ける。

 干した包帯が風に揺れ、薬草の匂いの中にざらついた笑いの温もりが混ざる。


 王女はどう返してよいかわからず、ただ頬を染めて立ち尽くす。

 けれど、その笑いが悪意ではなく、どこか親しみを含んだものだと気づいたとき──

 胸の奥に、静かな熱が灯った。


 帝都の民の中で、自分の名がこうして語られ、誰かの笑いを生むことがあるのだ。

 恐れと戸惑いのなかで、それでも王女は、はじめてその輪のあたたかさを感じていた。


 ──その時。


 ふと、王女の胸をひやりとした感覚が撫でた。

 陽光の下にいるはずなのに、背筋をかすめる影のような寒気。

 言葉にできぬ違和──何かが、空気の奥でわずかにずれたような。


「……?」


 空の色が変わったのかと思い、中庭の向こうを見やる。

 だが、何もない。風が通り抜け、葉がざわめくだけだった。


(……気のせい、よね)


 胸のざわめきを押し込み、王女は再び視線を患者たちの元へと戻した。


 その背後で、ミレイユのまなざしが静かに鋭く光った。無言のまま、瞳だけで周囲を掃く。

 庭の端に控える兵の一人と、短く視線を交わす。

 兵は軽く顎を動かし、別の影が建物の影に滑り込む。


 小さな風の流れを読むように、警戒が広がっていった。

 だが誰の手も剣に触れない。

 風の向きが変わり、葉がざわめくだけ──何事も起こらない。


 ミレイユは静かに息を整え、再び王女の背に戻った。

 その表情には、いつもと変わらぬ冷静さだけがあった。


 王女はその気配に気づかないまま、患者たちと言葉を交わしていた。

 中庭に差す光は柔らかく、空は澄んでいた。

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