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6 理と情の卓上

── 夕刻 帝城・王女の居室 ──


施療院の視察を終え、馬車が城門をくぐったころには、夕陽はもう塔の背に沈みかけていた。

外套の裾にまだ街の埃が残り、薬草の匂いがうっすらと染みついている。


居室に戻った王女は、用意されたたらいの湯で、指先にこびりついた汚れを洗い流していた。

静かな湯気が立ちのぼり、昼のざわめきがようやく遠のく。


(……どう報告すればいいのだろう。あの場の息づかいを、私は言葉にできるだろうか)

湯面に映った自分の顔が、わずかに曇る。


そのとき、扉を叩く音がして、ミレイユが入ってきた。

「陛下より伝言にございます。

 お食事の席へお誘いとのこと。今宵、夕餉の刻に」


「……え?」

思わず、言葉がこぼれた。

食事――その響きに、ほんの一瞬、理解が追いつかない。


これまで、同じ卓を囲んだことなど一度もない。

彼と向かい合う場所といえば、命を下される場か、夜の沈黙だけだった。

食卓などという穏やかな言葉は、あの男の口からは想像すらできない。


「……どういう意図か、聞いている?」


「内容は預かっておりません。ただ、“私的な席”とだけ」


ミレイユの声には、いつもどおりの温度のない静けさがある。

それがかえって、現実味を帯びさせた。


王女の胸にはかすかなざわめきが広がる。それでも、

「……わかりました。支度を」

立ち上がり、鏡台の前に向き直った。


陽の名残が窓格子を透かして床に伸びる。その光の上で、ひとつ深呼吸をする。

鏡に映る顔は、昼よりも静かに引き締まっていた。

それでも、胸の奥では微かな動悸が波を打っている。


(……私的な夕餉。あの人が、どんな顔をして待っているのだろう)


重く沈む夕闇の中で、彼女はまだ、自分の鼓動の理由を見つけられずにいた。




── 夜 帝城・小食堂 ──


灯はわずか。

石の壁を蝋燭の光が撫で、二人掛けの小卓だけが温もりを宿していた。

遠い風の音が窓を震わせ、帝都の灯は藍の底に霞んでいる。


王女が足を踏み入れると、すでに給仕たちは下がっており、室内にはダリオスただ一人。黒衣の肩に金糸の飾り紐が鈍く光った。


「……来たな」


声は静かで、謁見の間のような威圧もない。

ただ、底に読めぬ意図を沈めているようだった。


男は杯を置き、わずかに顎をしゃくって向かいの椅子を示す。

「座れ」


王女は小さく息を整え、卓の向かいに歩み寄った。

蝋燭の灯が揺れ、影が石壁に伸びる。


卓上の皿は簡素――肉と野菜の温皿、湯気を立てるスープ。

過剰な装いのない食卓が、かえって奇妙に整いすぎて見えた。


ダリオスが再び杯を手に取る。

琥珀色の液が、蝋燭の火を映して揺れた。


「……施療院は、どうだった」

観察するような声音だった。


王女は姿勢を正し、息を吸う。

「……正直に申し上げて、まだ自分の中で、うまく言葉にできておりません」


ダリオスは、ただ視線だけを向ける。

「構わん。言葉になる前のもののほうが、よく本音を映す」

その声は責めず、促すでもない。


銀器のかすかな音が、卓上に響いた。

ダリオスがナイフを取り、ゆるやかに肉を切り分ける。

その動作に合わせて、食卓の香がふわりと立つ。


王女は膝の上の手を、そっと組み替えた。

「おそらく……とても大切で、意義ある取り組みなのだろうと、そう感じました。ただ……私の故国では、あのような取り組みは、貴族や私たち王族の支援のもと、神殿で慈善として行われていました。ですから、その……やはり、どこか馴染まぬものを感じたといいますか」


ダリオスは薄く笑みを刻んだ。

「馴染まぬ、か……。だが、見たものは否定できぬ、という顔だな」


「……はい。慈善では届かぬ人々、救えぬ現実もあるのだと知り……今の私には、是とも否とも、言い切れません」


「それでいい。見えたものを、急いで整える必要はない」


炎が揺れ、銀器の影が卓上に踊る。


王女はわずかに息を整え、視線を落とす。

目の前の皿には、まだ手をつけぬままの料理。その香りに、遅れて腹の奥が小さく鳴った。ナイフとフォークを取り、静かに一口を運ぶ。


しばし無言のまま食事を続けた後、王女は静かに顔を上げた。


「……陛下は、なぜ私にこの役目をお与えになったのでしょう。

 “民の情と陛下の理を繋ぐ橋になれ”と仰せでしたが……

 民の実情にも疎く、陛下のお考えも容易には掴めない私に何ができるのかと」


「何かを成せとは言っていない」


ダリオスは淡く笑い、手にした杯を回した。

琥珀色の液体が灯に揺れて、瞳の奥で小さく反射する。


「――ただ、見える場所に立てと命じただけだ」


「……見える場所、ですか?」


「そうだ。人がどう生き、どう苦しみ、何を信じているか――そこに立てば、否応なく目に入る。お前が何を感じ、何を拒むか……それを知りたかった」


言葉の端に、ほんのかすかな興味の色が混じる。


王女は息を吸い、胸の奥に刺さった小さな棘を探るように言った。

「……何事にも対価を求めねばならぬという在り方は、やはりどうしても、心に引っかかります」


ダリオスは杯を傾け、淡く笑む。

「古い“慈善”と比べれば、ざらつく仕組みだろうな」


“古い”――その言葉に、王女の眉がわずかに寄る。

「それは……“古い”ものなのでしょうか? 陛下は、“慈善”が、お嫌いなのですか?」


ダリオスは、ふっと笑った。

「いや、むしろよく出来た幻想だと思っている。だからこそ――それに育ったお前の目を借りたい」


“幻想”という響きが、胸の奥にひやりと沈む。


「――慈善や情は、美しいが、脆い。人の心が同じ温度で燃え続けることなど、長くはない。飢えと寒さの前では、まず“通い合う情”が失われる」

その声は断じるというより、遠い記憶を見つめるようだった。


「だからこそ、“機構”として残す。それが俺のやり方だ」


「“機構”として……」

王女は小さく反芻し、フォークの先で皿の端をなぞる。


「情は消えるが、仕組みは残る。――残れば、誰かを救い続けられる」

「……慈善は、“仕組み”にはなり得ないのですか?」


「ならん。“志”に頼る限り、それは常に不安定だ」

ダリオスはナイフを動かし、刃の銀音が蝋燭の炎に溶ける。

「誰が与えるか、誰が忘れるか――その重さは運任せになる」


王女は視線を落とし、スープの表面に揺れる光を見つめた。

「……それでも、誰かが思い出し、また与え続けるかもしれません。情の連なりも、仕組みのように続くことはないのでしょうか」


ダリオスの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

「貴族の慈善には“連なり”がある。だがそれは信仰や名誉、評判のための鎖だ。整って見えても、結局は施す側の都合。与える者が変われば、方針も変わる。救いを待つ側は、それを選べない」


蝋燭の火が音もなく揺れた。

「他者の善意に依る限り、その仕組みは“誰かの余裕が尽きた瞬間”に崩れる。――だから、救われた者自身が回す。脆さの根を断つためだ」


「脆さの根……?」

「情や善意という名の気まぐれだ。それが仕組みの土台である限り、支えは長くは続かない」


気まぐれ――その言葉に、王女の眉がわずかに動く。

胸の奥で、かすかな反発が弾けた。


ダリオスは口元を拭い、ゆるやかにナイフとフォークを置いた。

燭台の炎が卓の間を隔て、王女の横顔を淡く照らす。


「ですが今日、私は陛下の築かれた仕組みの”綻び”を、情が埋めるのを見ました」


労役に抗った男を助けたユリオ――規程では救えぬ者に迷いなく手を伸ばした。

誰の指示でもなく、ただ目の前の痛みに応じた判断。その瞬間、冷たい制度の中に確かに“温度”があった。


「ほう……面白い。仕組みに足りぬものを、誰かが勝手に補ったというわけだな」


“勝手に”――その一言に、王女はひやり、とした。

自分の不用意な言葉で、ユリオの行いが“規律違反”として扱われるかもしれない――

思わず膝の上の指が強く絡まり、手のひらに汗がにじむ。

「陛下にとっては、それは“勝手な振る舞い”……歓迎すべきではないということですか?」


「いや、“補い”として機能する限りは否定しない。だが、それに頼るようになったら――仕組みは腐る」

ダリオスは杯を手に取り、残り少ない琥珀の液をひと口含んだ。

灯の反射が、瞳の奥で淡く揺れる。


その言葉に、王女は胸の奥でひそかに息をついた。

処罰の気配はない――。

緊張の糸がわずかに緩み、代わりに別の思いが浮かぶ。

「……では、今日“情”によって埋められたその綻びは――これから、どうなさるおつもりなのでしょうか?」


「観察する。綻びの位置と、補った者の力の使い方――それを見極めた上で、必要なら“仕組み”に組み込む」


その言葉に、王女はそっと視線を落とした。

皿の上に残された小さなパン屑に、指先がそっと触れる。

「……すべてを、仕組みに取り込んでしまわれるのですね」


なんだか全て、無機質なものに吸い込まれていくような気がした。


「そうでもしなければ、国という器は形を保てない。情だけで動くには――世界はあまりにも重い」


王女は、しばし言葉を探すように俯いた。それから、ぽつりと口を開いた。


「陛下はたくさんのことをご存じで、たくさんのことを考えておられて……そして、きっと正しいのだと思います。

 陛下のお考えは、民のためを思う優しさでもあるのでしょう。……けれど、それなのになぜか、その掌の上では――人は“ひとりの人間”ではなく、ただ仕組みを回す歯車として扱われているように感じてしまうのです」


掌を見つめながら、言葉は静かにこぼれた。


施療院で見た一文――

『癒えた力は帝国に返せ』。


あの時、その文字の向こうに、かつて自分に告げられた言葉が重なった。

『亡国の王女として、帝国の象徴として立て』――。


(この人は、私が亡国の王女だから冷たい命を下すのではない。おそらく、自国の民にも、誰に対しても同じなのだ)


ダリオスは、おそらく正しい。

だが、その正しさの前で――人の”らしさ”が、息をひそめてしまうように思えた。


王女の言葉を聞いたダリオスは、しばし何も言わなかった。

やがて、静かに言葉を落とす。

「だからこそ、お前をここに座らせた。仕組みの中で、人がまだ“人”であると証す者――その役を担えるのは、俺ではない」


「……それは、どういうことでしょうか?」


王女の問いに、彼は正面から王女を見据えて答えた。


「俺には、情を信じ切ることはできない。

 だが――それが滅びたものの中に残る灯なら、掬う価値はあると思っている」


沈黙が、ふたりの間に戻る。


王女はゆっくりと息を吸い、目を伏せた。

――滅びたものの中に残る灯。

その言葉が、胸の奥で静かに反響する。


(……自分の国は、なぜ滅びたのだろうか)


不意に浮かんだ問いが、王女の胸をかすめる。

けれどその答えは、今、ここで問うべきものではないと、彼女は静かに飲み込んだ。


蝋燭の炎がぱちりと音を立て、短く揺れた。

窓の外では、遠い鐘の音がひとつ、夜気の底へ沈んでゆく。


ダリオスは杯を手に取り、わずかに口を湿らせる。

「……冷めるな」


それだけを言い、再びナイフを取った。

銀の刃が静かに皿をかすめる。


王女もまた頷き、指先でフォークを持ち直した。

ふたりのあいだに、言葉よりも深い沈黙が落ちる。

炎が揺れ、皿の影がゆるやかに揺らめいた。


外では風が静まり、帝都の夜がゆっくりと深く降りていた。

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