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5 視察

── 帝都外縁・第一施療院前 ──


灰色の雲を透かして、淡い陽が石畳を照らしていた。

門の外には、手や脚に包帯を巻いた者たちが、静かに順番を待っていた。


その静けさを割るように、馬車の車輪が石を鳴らした。

黒獅子の紋章旗を掲げた一台がゆるやかに止まる。


御者が扉を開けると、ミレイユが降り立ち、周囲をさりげなく見渡した。

通りの角には、作業服を装った兵がひとり。人波の奥に、目立たぬ護衛の気配がある。

それを確かめてミレイユが小さく頷くと、王女が姿を現す。


瞬間、列の端にざわめきが走る。

「王女様……!?」「ほんもの?」

「あの市場の……」

声が重なり、控えめな歓声が波のように広がった。


王女は薄い外套の裾を押さえ、軽く会釈を返した。

その仕草ひとつで、群衆の空気が柔らかく変わる。


視線の先では、帳簿箱を抱えた小役人たちが忙しく出入りし、扉の向こうに、白い布の影と金属器の音が交じり合っていた。


王女は胸の奥で、息を整える。

勉学で紙の上に積んだ知識が、これから触れる現実の前で、どれほど通用するのか……。

胸の奥で微かな緊張が疼く。


そのとき、扉の奥から声がした。

「お待ちしておりました!」


快活な声に振り向くと、書類束を抱えた若い男が小走りに出てきた。

少し日焼けした頬、整えそこねた前髪。だがその瞳はまっすぐで、礼を取る角度にも曇りがない。

「施療院業務の調整をしております、ユリオと申します。ようこそ、おいでくださいました」


彼の笑みは庶民のものだった。

丁寧すぎない言葉の中に、誠実さと気負わぬ温度があった。


「王女殿下にお会いできるのを楽しみにしてました。市場での殿下のお振舞いには、胸を打たれました」


てらいのない言葉に、王女の方が恥ずかしくなり俯く。

純粋な感情としての言葉――

それを受け取ることに、まだ慣れていない。


ミレイユが一歩控え、短く会釈をする。

その無言の動きに、ユリオも職務者の礼を返した。


「では、こちらへ。

 “綺麗事”も埃も、まとめて見てってください」


軽やかな口調の奥に、現場の空気を知る者の落ち着きがあった。

その明るさに、王女はわずかに肩の力を抜いた。安堵と緊張が、胸の奥でゆるく混ざり合う。




── 第一施療院・玄関口 ──


扉をくぐった途端、灰水と薬草の匂いが胸を掠めた。

壁は白く塗り直されているが、角には古い煤が残っている。

包帯や湯桶を抱えた者たちが行き交い、金属盆の音が、規則正しい鼓動のようにホールを打っていた。


「ここは、帝都で最初に施療院として整えられた建物です」

ユリオが歩きながら言った。


「元は倉庫だったのを改装しました。今は病や事故、それから労働で傷を負った人を受け入れています。戦の傷はもうありません。今ここに来るのは、ほとんどが職人や労働者。屋根から落ちたり、機具に巻き込まれたり……そんな怪我が多いです」


ユリオの声には明るさがあったが、その下に現場の重みが潜んでいた。

王女は黙って頷いた。


待合の長椅子には、包帯を巻いた人々が静かに並んでいた。

書記が札を配り、木の札を掲げて順番を呼ぶ。

窓口の若い係員が淡々と尋ねる。

「お名前と症状、職業。回復後の従事希望は――」


ユリオが横から低く補う。

「治れば、規程どおり労役に就きます。道路整備や開拓の手伝い、建築の補助。

 定められた期間を勤めてから、自分の仕事に戻るんです」


ユリオの説明を聞きながら、王女の胸の奥に、かねてから抱いていた疑問がふと浮かぶ。机上で規定を暗唱していたときにも、何度か同じ問いが頭を掠めていた。


「それでは、労役に就いている間の生活費はどうするのでしょう?

 長い期間、仕事を離れていて復帰できるのでしょうか?」


自然と、口が動いていた。


ユリオは足を止め、ほんの一瞬、言葉を探すように目を伏せた。

「労役先で、食事や寝場所は提供されます。だから、飢える心配はありません。

 ――ただ、元の仕事に戻れるかどうかは、人に寄りますね」


彼は少しだけ息を吐き、続けた。

「ただ、そもそも施療院に来なければ、もう働けなかった人たちです。

 そう考えれば、ここからやり直せるだけでも……」


そこで言葉を切り、ユリオは複雑な表情を見せた。希望と現実の境界を、日々見続けている人の顔だった。




── 同・大部屋 ──


寝台が並び、窓から高く陽光が差す。


「現場の人間は、みんな身体が資本です。体のどこかが壊れたら終わり――昔はそうでした」


ユリオは寝台の脇で布を整え、少しだけ笑う。

「今は違います。壊れても、ここに来て治れば戻れる」


包帯を巻かれて寝台に横たわっていた男が、ゆっくりと目を動かしてユリオを見た。

「また現場に立てるか」

かすれた声に、ユリオが即座に答える。

「ええ、少しずつですが。道具を握れるようになるまで、ここで診ます」


王女はそのやり取りを黙って見ていた。

陽光の中で、布の白と影の灰がゆるやかに溶け合う。




── 同・薬室 ──


棚には薬壺と粉末の瓶。

木札に「納品遅れ」と書かれた札がいくつもぶら下がっている。

ユリオが壺の蓋を指で押しながら、言葉を選ぶように呟いた。


「官給の制度が整って、薬は全部、国の倉を通すようになりました。

 数も質も“管理”は行き届いたはずなんですが……届くのは、少し遅くなりました」


苦笑いのような息が漏れる。

「昔は、近くの薬屋が余った薬草を分けてくれたり、職人の奥さんたちが包帯を縫ってくれたりしたんです。今は全部、届け出と許可が要ります。“善意”は規定の外なんですよ」


王女は黙って棚の壺を見つめた。

蓋の上に積もった細かな埃が、整った仕組みの隙間に落ちる人の心のようにも見えた。




── 同・出入口の掲示板 ──


木の板に刻まれた奉仕規定。

「治療後、三十日から六十日以内に従事すること」

「作業内容:開拓・道路整備・建築補助」

絵で描かれた作業場の下に、小さく“帝国宗務院”の印。


その隅に、黒い筆跡が一行だけ添えられていた。

『癒えた力は、国に返せ』

公文の整った筆ではない。筆圧の強い、見覚えのある筆跡――ダリオスの自筆。


王女は思わず息を止め、しばしその文字を見つめた。


(あの人らしい……)

そう苦笑が漏れる一方で、その一行が、まるで目に見えぬ鎖のように胸を締めつける。


ユリオが隣りで頷く。

「俺は、悪くない言葉だと思ってます。命を繋ぐことと、国を動かすことが繋がるなら、それもひとつの救いだって」


王女は視線を掲示に戻した。

文字は淡い光の中で静かに浮かび、読む者たちの顔にそれぞれ違う影を落としていた。


──その沈黙のなかで、ひとつの声が落ちた。


掲示の前で、包帯の下を押さえた男が低く呟いた。

「できなかったら……どうなる」


掠れた声に、周囲がわずかにざわつく。

王女は顔を向けた。


列の中ほどに、粗末な上着を着た男が立っていた。傍らには幼い子どもが二人。母親らしい女の姿はない。男は疲れ切ったような目で、手にした札を握りしめている。


係員が困ったように帳簿を抱えたまま言った。

「規程では、回復後は三十日の労役義務があります。免除の項目には該当しませんので……」


「子どもを置いて行けるか!」

男の声が一瞬、響いた。

抱えた幼子がびくりと肩を震わせる。


係員は一瞬たじろいだが、すぐに淡々と答えた。

「……労役を果たせない場合は、帝の掟に背いた者として処されます。

 救済を受けながら義務を果たさぬ者は、帝国法では“恩義を裏切る者”と見なされますので」


男の顔が強張った。

子どもが父の裾を掴み、泣き出しそうに見上げる。


ユリオがすっと前に出た。

声を荒げず、しかし空気が変わるような一歩だった。

「どうしました?」


男は声を押し殺すように言った。

「妻が亡くなって、家にはこいつらしかいねえ。働くのは構わねえが、遠い労役場に出されたら……どうすりゃいい」


ユリオはしばらく黙っていた。

帳簿を開き、男の名前と札を見比べる。

「……事情は分かりました。

 それなら、院内の補助に入ってもらいましょう。洗濯場の手伝いと寝具の運搬です。宿直室の裏に空きがある。そこなら子どもも近くに置けます」


係員が目を丸くした。

「そんな前例は――」


「今日から作ればいい。

 “付属労役”として扱えば規程の範囲内です。書類は俺が回します」


ユリオの声は穏やかで、だが有無を言わせぬ確かさがあった。


「……助かる」

男は言って何度も頷き、札を胸に押し当てた。


王女は黙ってその光景を見つめていた。


机上で繰り返し覚えた規程の文言が、脳裏を掠める。

ユリオの判断は――果たして、許される範囲なのだろうか。


けれど、目の前の現実は確かに救われていた。

帳簿の数字ではなく、ひとつの家族の形がそこに保たれている。


(……こういうふうに、応えることもできるのね)


胸の奥で、硬い理の輪郭がわずかに和らいだ気がした。




── 同・中庭 ──


視察を終え、ふたりは院の裏手へ出た。

陽が傾き、井戸の縁に光が跳ねる。

患者の声が遠くにかすれ、風の中に薬草の香りがまだ漂っていた。


ユリオが袖口で額の汗をぬぐいながら、王女に向き直った。

「……殿下、どうでしたか? 今日はお疲れになったでしょう」


王女はしばし答えず、井戸の水面を見つめた。

水面が夏の陽光を反射して揺れている。


「……たくさんのことを、見た気がします。

 仕組みが人を救っているのも確かで、けれど、その仕組みの外にある手が、誰かを救っていたようにも思えて……」

言葉を探すように、指先で井戸の縁をなぞった。


ユリオは目を細め、静かに頷いた。


王女はふと口を開いた。

「あなたは――なぜ、この仕事に就かれたのですか?」


ユリオは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに笑みを返した。

「そう聞かれるのは、久しぶりですね」


彼は井戸の縁に手を置き、視線を遠くへやった。

「父が、職人でした。木工の。腕はよかったんですが、怪我をして仕事を失くして……」


言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。

「治療を受ける金もなくて、それでも無理をして働いて、最後は、どうにもならなくなりました。母と俺で何とかしようとしたけど、父はそれを気にして家を出て、そのまま……戻りませんでした。数か月後に見つかったときは……路上で息絶えた後でした」


王女は息を呑みかけたが、言葉を挟まずに黙って聞いた。


「そのあと、神殿の慈善施設に引き取られて、母と一緒に世話になりました。読み書きを覚えたのも、そこでです。だから、俺は“慈善”に生かされた側です」


短く息を吐き、彼は微かに笑った。


「でも、父はきっと、そうされることを望まなかった。誰かの善意で助けられるのが、何より嫌な人でした。“生きるなら、自分の手で”っていう人だったんです」


王女は静かに頷いた。


ユリオは少し視線を落とし、言葉を続けた。

「だから、陛下が“官営の施療院を作る”と聞いたとき、迷わず手を挙げました。

 誰かの善意や気まぐれじゃなく、国の仕組みとして人を治す。治してもらった分は、労役で返す。その方が、誇りを保てる人もいると思ったんです」


彼は軽く肩をすくめた。

「俺は、そういう形なら、父さんも生きられたんじゃないかって……勝手に、そう思ってます」


王女は視線を落とした。井戸の水面に、陽光と影が揺れていた。


ユリオは井戸の縁から手を離し、王女の方へ顔を向けた。

「殿下は、なぜこのお仕事に?」


王女は一瞬言葉を探し、それから小さく微笑んだ。

「“古い慈悲”を知る者として――民の情と陛下の考えを繋ぐ橋になれと命じられております」


風が髪を揺らした。その声には、自嘲に似た響きが混じっていた。


「でも私は、まだ何も知らず、あなたのような志も持っていません。ただ言われるままにここにいて……」

恥じ入るように視線を落とす。

その脳裏に、かつての故国の面影が過ぎった。


“あなたを旗として掲げたい”と、ルデクは言っていた――けれど自分は、志を掲げるほどの人間ではなかった。


王女は小さく息を吐いた。風が一筋、頬をかすめる。


(──怖い)


王女という名のせいで、自分の言葉や行動が知らぬうちに多くの人々へ波紋のように広がる。

志も定まらぬまま掲げた言葉が、誰かを巻き込み、傷つけるかもしれない。


井戸の水面に映る自分の顔が、かすかに揺れる。

そこに見えるのは、中身の伴わぬまま人々の前に立たされたひとりの女――。


「志、持ってらっしゃったじゃないですか」

ユリオが穏やかな声で言った。


「え……?」

王女が顔を上げる。


「故国の者たちの命を助けたい、と。 声を張り上げていらっしゃったじゃないですか」

王女の瞳が揺れた。ユリオは少し照れたように笑う。

「あの日はたまたま近くに用事があって。通りを歩いていたら、首に刃を当ててる女の人がいて、何かと思って立ち止まって……だから、間近で見てたんですよ」


王女は顔を赤らめ、思わず視線を逸らした。

最初の挨拶のとき、ユリオが市場の件に触れていたのを思い出す。噂で聞いた程度かと思っていたが――まさか、目の前で見られていたとは。


「……あれは志などではありません」

声が震える。


「ただの、私の弱さと恐れからの行いです。彼らの命を助けたかったのは本当ですが……私の未熟さゆえに、結局は彼らの誇りを折っただけかもしれません」


己の行いを受け入れて前を向く、とは決めた。けれど、さすがにあれを志などと言うことはできなかった。


けれど、ユリオはゆっくりと首を横に振った。

「『あなたの意志を旗として仰ぎましょう』――そう言っていたじゃないですか、あなたの民は」


王女の目がわずかに揺れる。


「殿下の“助けたい”っていう思いが、 彼らの心を動かしたんです。あなたがそんなふうに言ってしまったら、あなたの志に動かされた彼らがかわいそうですよ」


沈黙がしばらく流れた。

風が井戸の縁を撫で、遠くで金属器の音が響く。


ユリオは少し照れたように笑みを浮かべた。

「……市場でのあなたを見て、思ったんです。あぁ、この方は何よりも人の命を重んじる方なんだ、って」


王女はユリオを見つめる。


「だから、殿下が施療院の仕事に就かれると聞いたときは、嬉しかったんですよ。お会いできるのを、心から楽しみにしていました」


言葉の端に、素朴な敬意があった。


王女は答えられず、ただ静かに視線を落とした。

井戸の水面に、陽光が波のように広がる。

その光は、ほんの少しだけ、彼女の頬を照らしていた。

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