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4 知の序章

── 帝城・政務補室 日中 ──


筆の音が、石壁に乾いた響きを返していた。


長机の上に広げられた帳簿は、塵一つなく整列している。

壁の上部には幅の狭い横窓が並び、淡い光が斜めに差して紙面を照らす。

外の風景は見えない。見えるのは、光と影の帯だけだった。


施療院の仕事に携わるには、まず事前の学びが必要――

セヴランはそう告げ、

「まずは帳簿の構造と記録様式について学んでいただきます」

王女の前に分厚い書類束を置くと、政務へ戻っていった。


彼に代わって王女の傍らに座ったのは、無口な書記官。

以後、王女はこの男の手元を“影”として見つめながら、一日を過ごすことになった。


「数は生き物ではない。けれど、扱いを誤れば人を殺す」

隣に座る書記官の声は、感情のない平板な調子だった。

その手元の筆が、淡々と黒い線を走らせていく。


王女は机の端に腰を下ろし、筆を握ったまま、数行先の文字を追っては止まった。


「第一施療院、入院者二十三。労役登録予定八十七……はい、次を」


王女は同じ数字を写すだけで、腕に鈍い疲れを覚えた。

帳簿の符号や単位は、まるで異国の呪文のようだった。

書記官は彼女の筆の停滞に気づくと、わずかに息を吐き、

「数列の末尾を揃えてください。桁がずれると監査が混乱します」

とだけ言い残した。


何度も読み違え、訂正のたびに胸が波立つ。

それでも、隣から静かに示される指先に従い、もう一度同じ文字をなぞるうちに――不思議と、わずかな“形”が見えてきた。


王女の故国では、女性が政治や実務に携わることは固く禁じられていた。

学びといえば詩と祈り、あるいは宮廷の礼法。

数字や帳簿など、男たちの扱う「理」の領分に触れることは許されなかった。


だからこそ――今、こうして机に向かい、知を分け与えられていることが、彼女には新鮮だった。

何かを理解しようとするたび、世界がわずかに広がる。

その感覚は、かつて逃亡の日々の中で感じた「生きている」という実感に少し似ていた。




── 王女の居室 夕刻 ──


窓から射す斜陽が、壁に淡い橙の影を落としていた。昼間に写した帳簿の数字がまだ瞼の裏に残る。


光はゆるやかに傾き、室内の空気に静かな色を溶かしていた。

その中に、ミレイユが立っている。

両手を背に組み、淡々とした声音で告げた。


「では、衛生規程第三章。第十二条から第十五条までをどうぞ」


王女は膝の上の羊皮紙を見下ろし、声を整える。


「……『施療の従者は、手を清めずして患者に触れることを禁ず。

 器具を用いたるのち、湯をもって洗い、火にあてて乾かすべし』」


声が石壁に柔らかく反響する。

ミレイユは静かに頷き、間を置かずに次を促した。


「では、労役規程第二章、第八条」


王女は目を瞬かせ、指先で行を追った。

記号のような言葉が並び、頭の中で意味が結びつかない。

それでも筆でなぞるように口を動かし、一語一語を確かめるように声に出す。


紙の端を押さえる手に、知らぬ間に力がこもる。

読み終えたときには、喉がひりついていた。


ミレイユは短く頷いた。

「明日は次の章です。覚えを早くするために、

 寝る前にもう一度、自分で繰り返してください」


それだけ告げて去っていく背を、王女は見送った。


書き写した文字の列をもう一度見直す。

自分が読み上げた文が、まるで異国の呪文のように見えた。

それでも、覚えられるのならと、もう一度声を出す。


胸の中には疲労と、わずかな高揚が入り混じっていた。




── 執務室 ──


午後の光が傾き、分厚い書簡の山に淡い影を落としていた。

机上には封蝋の割られた文書が積まれ、硝子の水差しに陽光が反射して揺れる。


ダリオスは筆を置き、軽く指先で机を叩いた。

「……王女の様子はどうだ」


対面のセヴランが視線を上げる。

「そうですね……。数字には――かなり苦戦しております」


わずかに口角を動かして、ダリオスが低く笑う。

「だろうな」


セヴランは続けた。

「帳簿の構造や符号には慣れが要ります。

 とはいえ、根気だけは申し分ない。意味を理解できていなくとも、記号の列を追い続ける姿には感心します」


セヴランはさらに続けた。

「規程の暗唱は順調です。

 おそらく、意味までは理解していないでしょうが……詩の暗唱のように、音の形で覚えているのでしょう」


「詩の暗唱、か」

低く笑う声が、微かに鉄の響きを帯びる。


ダリオスは椅子に背を預け、視線を窓の外へと向けた。

「……無理もない。あの国では、女が政治に関わることなど許されなかったからな」


セヴランが静かに頷く。


帝国とは違い、王女の祖国では王族や貴族の女たちは政治の場に立たず、外交や婚姻の駒としての役割しか与えられていなかった。


だからこそ、王女も異国語であるにも関わらず帝国の言葉は流暢に操れるのだが、国を治めるために必要な他の知識――戦や政を支える知恵、国土を守り抜くための眼は、王家に生まれながら一度も与えられることなく育てられてきたのだろう。


「やる気はあるのか」

肘をつきながら、ダリオスが尋ねる。


「ございます。自分の務めを与えられたことが、嬉しいのでしょう。教えを受けるたび、少しずつ表情が明るくなるのが見えます」


「……そうか」


筆先で羊皮紙をなぞりながら、ダリオスはふっと笑う。

「帳簿一枚が、あの娘にとっては異国の地図のようなものなのだろうな」


セヴランは黙したまま、机の向こうに座る男を見つめていた。


古い因習に縛られ、女を政から遠ざけ続けた亡国。

対して、滅ぼした国の王女でさえ、役に立つ可能性があるならば磨こうとするこの皇帝。


その違いが、結局のところ――国の勝敗を分けたのだろう。


彼は思う。

力とは、剣でも兵でもなく、

“変えることを恐れぬ意志”の側に宿るのだと。


ダリオスの指先が、再び筆を取り上げる。

その細やかな動きに、命じられた言葉のすべてが形を与えられていく。

セヴランはそれを見ながら、

この帝国がどこまで彼の構想に耐えうるのか――

ほんのわずかに、胸の奥で思案した。


窓外の光が傾き、机上の影が伸びていく。

それは、過去と未来を分かつ境の線のようでもあった。

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