4 影の兆し
── 西方街道・宿場町 ──
冬のあいだ、王女はマルタの店で粉にまみれ、静かな日々を積み重ねてきた。
雪は深く降らない町だったが、朝の風は鋭く、指先はあかぎれに裂けて痛んだ。
そんな季節も、日々の労働に追われるうちに音もなく過ぎていった。
パンを捏ねる手を止め、王女はふと思う。
(……なぜ、追手は来ないのだろう)
逃亡からすでに幾月。
自分がうまく逃げおおせたなどとは、到底思えない。
足取りを辿るのは容易いはずだし、帝国が本気で動けば、この町に留まってなどいられるはずがない。
(……自分に、さして価値がないから……放っておかれているのだろうか)
他の王族たちが殺される中で、自分だけが生かされたのは、
「わざわざ殺す必要のない、取るに足らない存在」だったからだろうと王女は思っている。
故国では、男子は将来を担う存在として期待され、姉たちはその才気で宮廷の注目を集めていた。
その陰で王女は、ただ目立たぬ末姫として政略結婚の駒に数えられるだけだった。
故国なき今、自分の存在は、その頃よりもさらに軽い。
吹けば飛ぶほどのものだろう。
(……もし本当に、放っておかれているのなら――それはそれで、幸運なのかもしれない)
そう思った瞬間、胸の奥にかすかな安堵が広がった。
取るに足らぬ存在であることが、命を繋ぐ理由になるのなら……それで構わないのかもしれない。
── やがて、春が町を包みはじめた。
川べりの氷は緩み、道端に張りついていた霜も消えた。
冬のあいだ控えめだった往来も日に日に増え、町には再び賑わいが満ちていた。
鮮やかな外套や色とりどりの荷馬車の列。
呼び声と笑い声が交わり、冬にはなかったざわめきが広場を満たす。
そんな人混みのただ中で――ふと、王女の背筋に冷たいものが走った。
誰かに見られている。
理由もなく、ただ直感が告げていた。
振り返れば、旅人が人波に紛れて歩いているだけ。
女や老人、荷を背負った商人。
そこに不自然な点は見当たらない。
王女は胸の奥をざわつかせながら、再び歩き出した。
足元は確かに地を踏んでいるのに、その感覚だけが薄氷の上に立つように頼りなかった。
(……気のせい、よね)
そう思い込もうと、指先をぎゅっと握りしめる。
籠の重みはいつも通りだし、周囲のざわめきも変わらない。
旅人たちの笑い声、呼び声、子供のはしゃぐ声――どれも昨日と同じ町の音。
けれど、そのすべての奥に、ひとつだけ異質なものが潜んでいる気がしてならない。
声にならぬ気配、視線のかすかな重み。
王女の足が速くなる。
胸の奥に広がっていたかすかな安堵は、春霞のように淡くほどけて消えていった。
── この町に、これ以上いられない。
粉にまみれた日々、温かな食卓、すれ違う人々の笑顔。
そのすべてが胸に沁みるほど心地よく、離れることなど考えたくなかった。
けれど―――
(……行かなくては)
心の奥で、はっきりと声がした。
どこへ行けるのか、越えた先に何が待つのか――何ひとつ見通せない。
それでも、行かなければならないと直感していた。
そのとき、目の前にひときわ賑やかな一団が現れた。
異国の商人たちだった。
陽焼けした顔に異国訛りの言葉を飛び交わせ、荷馬車には見慣れぬ布や香辛料の袋が山と積まれている。
「今日中には川を超えるぞ!」
「川の水嵩が増す前に抜けないと、国境を超えられるのがいつになるかわからん!」
その言葉に、王女の心臓が大きく脈打った。
(国境……!)
この国そのものから離れれば、自分を追う影から逃れられるかもしれない――
気づけば、籠を抱えたまま商人たちの前に立っていた。
「……どうか、私を連れていってください」
商人たちの動きが一瞬止まる。
顔を見合わせ、誰からともなく低い笑いが漏れた。
「嬢ちゃん……どこのもんだ? 宿場町の娘には見えねえな」
「そんなひよっこい体で、馬車を押しながら山道を越えられるか?」
「……で、なんで俺たちについて来たいんだ? 何か後ろ暗い理由でもあるのか?」
笑いの中に、値踏みするような視線が突き刺さる。
王女は胸を締めつけられる思いで唇を噛み、必死に言葉を絞った。
「……働きます。荷を担ぎます。代金も払います。ただ……いま抱えている買い物かごを店に置いてきたいのです。少しだけ、時間をください」
差し出した小袋の中の銅貨を指先で確かめ、商人の一人が鼻で笑う。
「まあ、足しにはなるな。荷物の一つと思えば、悪くない」
そのとき、仲間の一人が小声で囁いた。
「旦那、面倒に巻き込まれるかもしれませんぜ」
大柄な男は肩をすくめ、口の端に笑みを浮かべる。
「面倒の匂いは慣れてる。商売とはそういうもんだろう?」
そして王女に向き直り、指を突きつける。
「一刻後にここを出る。遅れたら置いていく。俺たちは待たん」
王女は深く頭を下げた。
胸の奥に安堵と同時に、重苦しい痛みが広がっていく。
──この町を去らねばならない。
もう戻ることはできない。
籠を抱き直した王女は、店へと急ぎ足を向けた。
── 帝城・執務室 ──
窓辺の止まり木に降り立った鳩を、侍従が手際よく捕らえる。
足に括られた小さな筒を外すと、そのまま無言でセヴランへ差し出した。
セヴランは筒から紙片を取り出し、封を切って広げる。数行を目で追った途端、その顔に険しさが浮かんだ。
「王女の件です。商隊に紛れ、国境を越えようとしております」
その声に、書類へ視線を落としていたダリオスが顔を上げた。
「国外か。随分と遠くまで飛ぼうとする……。そろそろ鳥籠に戻す頃合いだな」
そう言った目の奥に、獲物を狙う狩人のような光が宿る。
「御意」
セヴランが一礼する。
「捕らえるのは……そうだな、せっかくだから国境の風までは味わわせてやれ」
はっ、と再びセヴランが一礼する。
ダリオスは椅子の背にゆっくりともたれて、愉しげに笑う。
「さて。風の味を知った鳥は、どのような瞳をして、鳥籠に戻ってくるのだろうな」
そう呟くと、彼は机上の書き物へ視線を戻し、再び筆を執った。
その横顔には、獲物の運命をすでに定めた者の静かな余裕が漂っていた。




