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2 象徴の呼吸

── 帝城・執務室 ──


厚い沈黙が、執務室を満たした。

机の上では、再び筆の音が微かに走り出す。その音が、先ほどまでの対話の余韻を静かに断ち切っていた。


しばし沈黙が流れたのち、王女はためらいがちに口を開いた。

「……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」


「なんだ」

ダリオスの声は相変わらず平板で、机上の書簡から目を上げもしない。


「先日の全州会議――あの場に、なぜ私を呼ばれたのですか」


言いながら、胸の奥が微かに締めつけられる。問いを発するだけで、息が詰まるほどの勇気が要った。


筆先が止まり、静かな間が落ちる。やがて、低い笑い声が響いた。

「面白そうだと思ったからだ」


王女は一瞬、言葉を失った。

「……面白そう、とは……」


ダリオスは口の端をわずかに上げる。

「お前の“立派な”うわさが独り歩きしているからな。総督たちに、その間抜け面の実体を一度見せておこうと思ってな」


あまりに軽い口調に、王女は反応すらできなかった。その沈黙を、ダリオスは少し楽しむように眺めていた。


やがて、微笑を収めると同時に声の調子を落とす。

「――お前は、あの場で何を感じた?」


光の中で、瞳だけがわずかに笑っていなかった。


王女はしばらく答えられなかった。

あの場所で感じたことを、うまく言葉にできる自信がなかった。


(怖かった――)

その言葉が喉元まで上がったが、あまりに幼い響きに思えて、飲み込んだ。

視線が自然と落ち、組んだ指先がかすかに震える。


それでもやがて、静かに息を吸って口を開いた。


「……自分の行いが、思っていた以上に大きな波を立てていたのだと、感じました。

 自分の想像の届かないところで、誰かの思惑に絡め取られて、どこか遠い場所で、誰かの秤にかけられている――そんな気がして」


ダリオスは黙っている。


「正直に申せば、怖かったです。何がどう動いているのかも、その輪の中で自分が何に見られ、何を求められているのかも、わからなくて」


ほんのわずか、声が震えた。

けれど、王女は言葉を止めなかった。


「でも……わからないままでいたら、私はまた、同じ選択を繰り返すでしょう。

 だから――知りたい、と思いました。

 この世界がどう動いているのか。自分の行いがどこへ繋がっていくのか。そして、何を選べるのかを」


彼女はゆっくりと顔を上げた。

その瞳に宿る光は、恐れよりも確かな意志の色に近かった。


「次は――もっと確かな選択ができるように」


沈黙。


ダリオスはわずかに身を乗り出し、机の上で指先を組んだ。

その仕草に嘲りの気配はなく、むしろ興味深そうな光が宿っている。


「……なるほどな」


短く吐き出された声が、執務室の静寂に沈んだ。

ダリオスはしばし王女を見つめていたが、やがてゆるやかに身を起こした。


「知りたいと言うなら、見てこい」


王女はまばたきをした。


「施療院の現場をだ。書で学ぶより、現実の方がよほど雄弁だろう。

 人の傷も、嘘も、そこにすべてある」


その声音は淡々としていた。

けれど、王女の胸には重い響きとして届く。


「見て、感じて、考えろ。

 そうして初めて――この世界がどう動いているのか、

 お前の行いがどこへ繋がっていくのか、

 そして、自分が何を選べるのかを知るだろう」


言葉が途切れたあと、王女はしばらく黙っていた。胸の奥に、熱と冷たさが入り混じる。


やがて、かすかな声が漏れた。

「……知って……知ろうとして、いいのですか?」


その問いは、恐る恐る放たれた。

まるで、それを許すかどうかが自分の存在の意味を決めるかのように。


ダリオスは短く息をつき、指をほどいた。

「知ることを恐れるなら、何も選べぬ。

 知らぬままに立つ象徴など、いずれ風に崩れるだけだ」


静かな声。

慰めではなく、命令でもなく――ただ、事実としての言葉だった。


「俺はお前のために世界を説明してやるつもりはない。

 見たものの意味は、自分で決めろ。

 それが“生きている象徴”ということだ」


言葉を終えると、ダリオスは机上の筆を取り、何事もなかったように書きつけを再開した。筆先が紙を滑る音が、再び静けさの中に満ちていった。


(“生きている象徴”……)


不意に、王女の脳裏に昨日の会議の光景がよみがえった。

総督たちの前で、ダリオスは確かに言ったのだ。

――『これが“象徴”だ。名でも理でもなく、血と呼吸をもつ存在としての』


あの、“象徴”と呼ばれた瞬間、再び自分が“ただの飾り”に戻されたような気がして、胸の奥が軋んだ。

けれど、その響きが、今になって別の意味を帯びて胸の奥に残る。


そして、さらに遠い日の声が蘇った。城に連れ戻されたあの日――

――『俺はお前を生かすと決めている』


静かに思い返しながら、王女はふと息を呑んだ。


ダリオスはずっと、同じことを言っていたのではないか。

“生きていい”と。

“生きろ”と。


言葉にすれば命令のように響くその裏で、

この男はなぜか誰よりも、自分を血の通った存在として扱ってきたのかもしれない。


(駒のように扱われながら、それでも……)


胸の奥に、形の定まらぬ熱が生まれる。

それが戸惑いなのか、痛みなのか、自分でもわからなかった。


静かに息を吸い、王女は膝を折る。

「……承知いたしました」


声は震えていなかった。むしろ、いつになく澄んでいた。


「詳細は追ってセヴランが指示する」

ダリオスは視線を上げぬまま言った。


「はい」

短く答えると、王女は一歩下がり、背後で控えるミレイユの気配を感じながら、扉の方へ向き直った。


そのとき、不意に声が飛ぶ。

「――ひとつだけ、言っておく」


足が止まる。


「独断で動くことは許さない。“橋”である以上、己の意志で流れを変えるな。お前が踏み外せば、その先にいる者たちごと沈む」


背中に、冷たい声が落ちる。


王女は振り返り、静かに頭を垂れた。

「心得ております」


ミレイユが静かに扉を引いた。

王女は背後の光を受けながら、一歩、また一歩と廊下へ出た。


扉が閉じる。

厚い木の向こうで、再び筆の音が響く。

それは、帝国の時を刻むように、規則正しく静かだった。

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